次週の説教(主日礼拝)

岐阜教会  7月5日 午前10時30分

聖 書 ローマの信徒への手紙第8章1-11節
説 教 『主よ、わたしは生きたい』 三輪恵愛 牧師

 


聖書は愛、慰め、希望のことばです

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「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい」

 キリスト教とは、キリストのことである、と言われます。キリスト教は何かの宗教的な雰囲気でも、理念でもありません。イエス・キリストというお方のご人格と、この方が為さったことに現れる神さまの愛そのものです。このキリストというお方を通して、神さまと出会い、愛されていることに気づかされます。そして、教会の仲間と一緒に神さまを心から愛して、礼拝をおささげします。そのことによって、神さまと人を深く愛し、また愛される生き方に新しくされていくのです。

 キリストは、2千年の昔のユダヤ(イスラエル)に30年ほどの生涯を送った人物です。そういう点では、当時のユダヤの人々と何ら変わるところのない一人の人でありました。何にもまして、苦しみということでは、決して逃避的ではなく、ことに隣りに生きる人の苦しみ悲しみに敏感に反応しました。だから、この人の近くにいる人は誰でも、言葉に表せないほど深く豊かな慰めを味わいました。人の苦しみに関わりそれを負うことに、その極みまで誠実であると、それは「死」(十字架)にそのまま直結します。このように、他人の苦しみのどん底まで共に苦しみ、死に至ることの出来るのは、人でありながら神でなければ不可能です。人でなければ苦しむことはありません。しかし同時に神でなければ他人の苦しみのどん底を共にすることは出来ないからです。普通人は苦しむ時は孤独に陥り、死ぬ時は誰でもたった一人です。キリストは私たちの仲間としての人でありつつ、同時に私たちが礼拝する神その方でもあるのです。このことを信じるのが、キリスト教です。

 私たちが生きるどのような時も、どのような場所にも共にいて下さるキリストと、一緒に生きて行くことが、いかに豊かな人生であるかを、是非知って頂きたいと思います。あなたが自分でも自分を見限りたくなるようなどん底にいても、共にいて下さるキリストを知ると、あなたはもう自分に恰好を付ける必要はなくなります。自分の良い所取りをし、惨めな自分に素知らぬ顔をする無理をしなくて済むからです。あるがままの自分を受け容れることほどの開放感は他にありません。自分をあるがままに受け容れることが出来ると、自分とタイプの違う他人ばかりでなく、どうにも折り合いの付かなかった他人にも、苛立たずに寛容になれるはずです。色々な点で、ストレスが罹る現代の生活を乗り切る術が、生きたキリスト教生活にはあるのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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