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月報 2013年8月号より

私たちキリスト者と憲法

                                            牧師 多田 滉
                                                                                                                
  戦後私たちの国の在り方を規定して来た「日本国憲法」の改訂が、政治日程に上げられかねない情勢です。岐阜九条の会が、この秋の文化の日の前日に予定している「つどい」の講師のお話しの題は、「これは改憲ではありません、廃憲です」と予告されています。全く同感です。憲法は、国民の負託によって権力を行使する人々が、行き過ぎないように国民の側から抑制する為に、国の基本的な構造を定めるもの、と言われます。その点、多くの法律や条令とは根本から違うものです。

 ところで、「日本国憲法」の掲げる民主主義の源流は、一般に一八世紀末の「フランス革命」の人道主義(ヒューマニズム)だ、という風に考えられがちです。しかし、それではこの憲法の基調としての基本的人権の、殊にその根幹をなす「新教の自由」や「政教分離」の原則、さらには「戦争放棄」を謳(うた)った九条などの説明がつきません。宗教性を排除した人道主義からは、そうした規定は出てこないからです。むしろ、それは更に一世紀以上前のイギリスの「ピューリタン(清教徒)革命」から流れを汲んでいる、と考えた方が正しいのです。これは、かの国における「宗教改革」を根幹とする政治革命であり、私たちキリスト者は、この点をしっかりと受け止めておく必要がある、と思います。キリスト教に馴染みの薄い私たちの国には、この点は不人気かも知れませんが、どうも事実はそのようであるし、少数のキリスト者が、むしろ「日本国憲法」の精神を、自信をもって担ってゆくべき理由がそこにあります。これは、例え不幸にも「改憲」されてしまったとしても、変わりません。尤も六八年もの永きに亘って、この国を成り立たせて来た民主主義の「構造」は、人々の表面的自覚や意識はともかくも、心配されるほど脆(もろ)くはないかもしれない、「靖国神社国家維持法」が、何度も国会に上程され、成立寸前にまで行きながら結局廃案になった前例もあることです。

 はじめに書いたように、今回の「改憲」の動きは、憲法の根本的性格を弁(わきま)えない人々によって、憲法を国民に守らせる政治の道具に変えてしまおうという試み、と考えざるを得ないものです。「日本国憲法」とその中心理念である「平和主義」が政治の担い手たちに、箍(たが)を嵌(は)めてきた、ということからも、しっかりと憲法は機能してきたわけです。彼らが押しつけ憲法だとしてきた考え方は、その成立過程のこととするのは「為にする」議論、改憲の動きと共に、むしろその真相が露見してきた、というべきでしょう。「日本国憲法」は、押しつけられたものではなく、敗戦を機会として、人類の歴史との対話の中で成立した、と考えるべきです。作られた時の国民の主体的な歓喜、今回改憲(廃憲)されれば確実に予想さる国家的孤立等を考え合わせば、現憲法の真理契機が浮かび上がります。

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