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月報 2014年1月号より

新しい年への思い

                                            牧師 多田 滉

 新しい年があけました。今年は、大戦後ゆっくりと定着してきた私たちの国の民主主義の真価が、問われる年となりそうです。平和主義を根幹とする国の構造は、人が思う以上に私たちの国の日常の暮らしに浸透していて、侮りがたいものがあると、日頃から思っています。例えば、女性の人権意識に基づく社会参加は、戦後導入された女性の参政権を皮切りに、最早誰もこれを逆行出来ない程に行きわたりつつあります。人々の一般的な人権意識がまだまだもどかしい程のものでしかない反面、こうした民主主義の構造定着は、想像以上に根深いことが、思われます。

 昨年暮れに、反民主主義的としか言えない国家秘密に関する穴だらけの法案が、成立を見ました。その成立の経緯自体が、極めて反民主主義的な手法であったことと共に、この法案を疑問視したり、はっきりと「否」を表明する声が、それこそあらゆる階層や思想を越えて盛り上がりを見せました。今や衆参院の「ねじれ」を回避して「決められる政治」を目指す大方の願い(それすらも本来正しい願いであったかどうか問題ですが)を大きく踏み超えて、今や政治を担う側と、国民の広い民主主義意識との間に、「ねじれ」が歴然としてしまいました。日頃から「民意」や「国益」をを口実にして、政策を進める権力側が、その謙虚さを取り戻さざるを得なくなるか、勢いの赴くままに強圧的な施策に暴走するか、どうも後者の方がありそうな気配もあるので楽観は出来ませんが、期待も半ばという処でしょうか。
 元々戦後政治は、無謀で残酷な戦争とそれを導いた超国家主義的イデオロギーが、国を破滅にまで到らせた事への深刻な反省の実りとしての平和憲法を、初めから忌避する人々によって担われて来ました。新しい憲法をもって世界と共に生きることを、心から誇り喜んだ一般民衆の様子を、今でも鮮明に記憶しています。政治と国民の間の「ねじれ」は今に始まったことではありません。それをどの方向に解消するか、ここ六〇年あまりの国の全体的な「つけ」が回ってきた、と言えるかもしれません。

 あの法案が乱暴に成立した時、教会はアドベントの只中でした。マリアの受胎を「秘密裏に」解決しようとした婚約中のヨセフに、神は天使を通してそれを禁じ、「心配しないで」事柄を受け止めるように命じた聖書記事に、改めて「時の徴」を読む思いをしました。私たちは聖書が示す生き方を、正面切って聴き実践することが、それだけで強力に時代への警告となる、そういう時代が来たのです。

 確かに民主主義世界は多数決で事を決め、方向を定めます。しかし、多数決は人類が辿り着いた最善から一歩も二歩も手前の「とりあえず」の手段に過ぎません。聖書はいつでも神の御旨を聴き、従う「一人」から、そして常に社会の弱者や少数者、大人でなく「幼子」に神の国の礎を置くことから、大切なことを始めています。世の中の趨勢とは反対の方向を見つめる孤独な視点を、本当に世の中と共に歩む為に捨てません。そこには、神と人の間にある本質的な「ねじれ」を厭わず、むしろ喜んで引き受けられたキリストが中心に立ち導いておられます。新年の思いです

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