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月報 2015年1月より

  信仰の継承について    
                              多田 滉

   永い間、信仰の継承の課題が語られて来ました。世界の精神的な状況は、依然としてこの問題にとって、希望の兆しは見えないようです。この傾向はわたしたちの国ばかりか、いわゆるキリスト教先進国にも、見られるもののようです。確かに、そうではない、どちらかと言えば、これまではそれ程伝道が容易ではなかった地方がありました。彼らはキリスト教世界から送られた宣教師の献身的な働きによって養われた地方だったのですが、今は彼ら独自の盛んな教会活動を展開しているのです。
 わたしたちの国は、キリスト教の先進国では、ないのに、伝道も信仰の継承も、言わば早くから先進国と同じ道を歩んで居る、と言えるでしょう。現代に有力な宣教を展開する地方の部分は、感謝して、そこに祝福を祈りたいと思います。しかし、その手法を採用することは、別のことだと思うのです。

 キリスト教は、伝統の宗教です。その歩みをどういう場合でも、歴史の中で位置づけて進んで来たのです。決して今勢いが良い部分を、簡単に移植して解決出来るものではないのです。信仰継承の課題についても、今非常な困難を感じるからといって、わたしたちに主が課せられた問題を放棄することになれば、決して祝福はされないでしょう。
 信仰継承については、わたしたち信仰者が願う前から、それは聖書が約束することです。神がアブラムに「主は彼を外に連れ出して言われた。『天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。』そして言われた。『あなたの子孫はこのようになる。』」(創世記一五章五節)。元々、子のないアブラムに言われたのです。あるいはフィリピの牢獄が突然の地震で崩壊して、それまでの獄吏を支えた一切の秩序が失われた時、パウロとシラスが獄吏に「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます。」(使徒言行録一六章三一節)といった言葉も、神の奇跡的な出来事として語られたのです。
 こういう神の奇跡としての約束を、わたしたちは信仰に当たり前の出来事であるかのように、受け止めて来たのではないでしょうか。つまり、神の御業を信仰者の業であるかのように、扱ってきたと言うことです。そういう中で何時しか「信仰の継承」は信仰者の手垢にまみれ、神の御手の業から離れて行き、言葉だけの唱え文句になって来たのではないでしょうか。

 一度生きた神の約束から離れたことばを、本来の神の御言葉に活性化した命の通う、そして約束が現実となるには、容易ではありません。しかし、現代社会にたいしてそれは信仰そのものの復興と機を一にしていることですから、誰かが、というよりは、皆が取り組むべき課題でしょう。

 族長であるイサクは、アブラハムとヤコブの間で、どちらかと言えば目立たない印象を与えます。しかし、彼もまた重要な役割を担います。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と言われる通りです。父によってモリアの山で献げられ、復活の予表(ヘブライ一一・一九)とされ、その生業は埋められ塞がった井戸掘り(創世記二六章)で、祈りが重要な業でした。活動的で全てに目立つことが強調される時代に、教会の役割は「祈り」であり、神の業としての「信仰の継承」を回復することに、永い祈りの視野をもって仕える忍耐を、御言葉により養われたいと思います。

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