12月27日説教
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聖 書 士師記 5章21節
説 教 「わが魂よ、力強く進め」
「キション川は彼らを押し流した/太古の川、キション川が。わが魂よ、力強く進め。」(21節)
川は、私たちの国では流れが一時も止まらないことで、人生の儚さを象徴することが多いと思われます。一方、聖書では流れの力強さや水の豊かさから、むしろ川については生命活動を豊かに養うものとして歌われます。「主の教えを愛し/その教えを昼も夜も口ずさむ人。その人は流れのほとりに植えられた木。ときが巡り来れば実を結び/葉もしおれることがない。その人のすることはすべて、繁栄をもたらす。」(詩編1篇2、3節)。「彼はわたしを神殿の入り口に連れ戻した。すると見よ、水が神殿の敷居の下から湧き上がって、東の方へ流れていた。神殿の正面は東に向いていた。水は祭壇の南側から出て神殿の南壁の下を流れていた。‥‥川のほとり、その岸には、こちら側にもあちら側にも、あらゆる果樹が大きくなり、葉は枯れず、果実は絶えることなく、月ごとに実をつける。水が聖所から流れ出るからである。その果実は食用となり、葉は薬用となる。」(エゼキエル書47章1、12節)。女性士師デボラによる、イスラエル最古の歌とされるこの歌も、キション川の雄渾(ゆうこん)な流れを、イスラエル軍の勝利の凱歌(がいか)として、友軍の士気を奮い立たせるものです。平和の確立を祈り願って歩む私たち信仰者が、年越しという「川」を渉るこの時を励ます歌として、正しく徹底して非軍事的な意味で受け止めたいと思います。新約聖書の「わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。」(エフェソの信徒への手紙6章12節)という使徒の指摘を合わせ思いながら、です。
「奮い立て、奮い立て‥‥ほめ歌を歌え。立ち上がれ」(12節)。明らかに「強く、雄々しくあれ。あなたは、わたしが先祖たちに与えると誓った土地を、この民に継がせる者である。」(ヨシュア記1章6節)を引き継ぐ激励として一貫しています。召集された各部族が結束して、その役割を担うべき戦いです。それはやがての統一国家への準備となって行くでしょう。しかも、その軍事的手法には、主イエスの戒めが正確に作用することも、私たちは見取る必要があります。「‥‥、イエスは言われた。『剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる。』」(マタイによる福音書26章52節)。つまり、この主イエスの御言葉は、現実の世界から遊離して理想主義的な言葉では決してありません。主権国家を守る為に、国家の行使出来る「もうひとつの外交として戦争」を正当化して来た近現代には、除外して受け止められる極めて私的領域で聴くべき警句、というのでもありません。神の民であれ、異邦世界であれ、区別なく全ての軍事行動の結果として、「剣で滅びる」という預言が成就してきたさまを私たちは見るからです。そいういう意味で、「剣を取る者は皆、剣で滅びる。」という御言葉は、極めて現実性を帯びて聞こえてきます。士師記はその終わりで、民族的結束処か一部族を失いそうになり、崩壊の危機を味わうことになるからです。「民はベニヤミンのことを悔やんだ。主がイスラエル諸部族の間を引き裂かれたからである。」(士師記21章15節)。
それは「もろもろの星は天から戦いに加わり」(20節)と歌う人が、当面は気付かなかったであろう遙かに深い意味で、歴史を超越する神に導かれた歩みであったということが出来ます。神の民イスラエルが、統一を果たす王の出現を描き出すことにより、士師記に続く歴史としてのサムエル記は、その冒頭で不妊の女ハンナの祈りで始めます。「‥‥彼(夫のエルカナ)はハンナを愛していたが、主はハンナの胎を閉ざしておられた。‥‥ハンナは悩み嘆いて主に祈り、激しく泣いた。そして、誓いを立てて言った。『万軍の主よ、はしための苦しみを御覧ください。はしために御心を留め、忘れることなく、男の子をお授けくださいますなら、その子の一生を主におささげし、その子の頭には決してかみそりを当てません。』」(サムエル記上1章5、10~11節)。イスラエルがその王朝史を語るにあたって、こういうハンナの涙の祈りを物語ることから始める必要があったことが覚えられます。つまりこの祈りは単なるひとりの女性の苦悩ではなく、士師記の終わりに語られる民族の断絶的悲劇を合わせ思う共同体ぐるみの祈りだ、と受け取るべきでしょう。「キション川は彼らを押し流した。‥‥わが魂よ、力強く進め」。「奮い立て‥‥ほめ歌を歌え。立ち上がれ」。「もろもろの星は天から戦いに加わり‥‥」。多くの課題や先行き不透明な行き詰まりの壁を目の前にする状況に、たじろぐ思いのわたしたちです。突き抜ける勇気は、人知を超えて「太古の川、キション川」が、「神と小羊の玉座から流れ出て、水晶のように輝く命の水の川」(黙示録22章1節)として、私たちの生活を励まし続けてこそ得られるものだ、ということです。古い年を後に、多難を予想せざるを得ない私たちに与えられている恵みから、祈りつつ着実な一歩を踏み出そうではありませんか。