12月27日説教

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聖 書 士師記 5章21節
説 教 「わが魂よ、力強く進め」

 「キション川は彼らを押し流した/太古の川、キション川が。わが魂よ、力強く進め。」(21節)

 川は、私たちの国では流れが一時も止まらないことで、人生の儚さを象徴することが多いと思われます。一方、聖書では流れの力強さや水の豊かさから、むしろ川については生命活動を豊かに養うものとして歌われます。「主の教えを愛し/その教えを昼も夜も口ずさむ人。その人は流れのほとりに植えられた木。ときが巡り来れば実を結び/葉もしおれることがない。その人のすることはすべて、繁栄をもたらす。」(詩編1篇2、3節)。「彼はわたしを神殿の入り口に連れ戻した。すると見よ、水が神殿の敷居の下から湧き上がって、東の方へ流れていた。神殿の正面は東に向いていた。水は祭壇の南側から出て神殿の南壁の下を流れていた。‥‥川のほとり、その岸には、こちら側にもあちら側にも、あらゆる果樹が大きくなり、葉は枯れず、果実は絶えることなく、月ごとに実をつける。水が聖所から流れ出るからである。その果実は食用となり、葉は薬用となる。」(エゼキエル書47章1、12節)。女性士師デボラによる、イスラエル最古の歌とされるこの歌も、キション川の雄渾(ゆうこん)な流れを、イスラエル軍の勝利の凱歌(がいか)として、友軍の士気を奮い立たせるものです。平和の確立を祈り願って歩む私たち信仰者が、年越しという「川」を渉るこの時を励ます歌として、正しく徹底して非軍事的な意味で受け止めたいと思います。新約聖書の「わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。」(エフェソの信徒への手紙6章12節)という使徒の指摘を合わせ思いながら、です。

 「奮い立て、奮い立て‥‥ほめ歌を歌え。立ち上がれ」(12節)。明らかに「強く、雄々しくあれ。あなたは、わたしが先祖たちに与えると誓った土地を、この民に継がせる者である。」(ヨシュア記1章6節)を引き継ぐ激励として一貫しています。召集された各部族が結束して、その役割を担うべき戦いです。それはやがての統一国家への準備となって行くでしょう。しかも、その軍事的手法には、主イエスの戒めが正確に作用することも、私たちは見取る必要があります。「‥‥、イエスは言われた。『剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる。』」(マタイによる福音書26章52節)。つまり、この主イエスの御言葉は、現実の世界から遊離して理想主義的な言葉では決してありません。主権国家を守る為に、国家の行使出来る「もうひとつの外交として戦争」を正当化して来た近現代には、除外して受け止められる極めて私的領域で聴くべき警句、というのでもありません。神の民であれ、異邦世界であれ、区別なく全ての軍事行動の結果として、「剣で滅びる」という預言が成就してきたさまを私たちは見るからです。そいういう意味で、「剣を取る者は皆、剣で滅びる。」という御言葉は、極めて現実性を帯びて聞こえてきます。士師記はその終わりで、民族的結束処か一部族を失いそうになり、崩壊の危機を味わうことになるからです。「民はベニヤミンのことを悔やんだ。主がイスラエル諸部族の間を引き裂かれたからである。」(士師記21章15節)。

 それは「もろもろの星は天から戦いに加わり」(20節)と歌う人が、当面は気付かなかったであろう遙かに深い意味で、歴史を超越する神に導かれた歩みであったということが出来ます。神の民イスラエルが、統一を果たす王の出現を描き出すことにより、士師記に続く歴史としてのサムエル記は、その冒頭で不妊の女ハンナの祈りで始めます。「‥‥彼(夫のエルカナ)はハンナを愛していたが、主はハンナの胎を閉ざしておられた。‥‥ハンナは悩み嘆いて主に祈り、激しく泣いた。そして、誓いを立てて言った。『万軍の主よ、はしための苦しみを御覧ください。はしために御心を留め、忘れることなく、男の子をお授けくださいますなら、その子の一生を主におささげし、その子の頭には決してかみそりを当てません。』」(サムエル記上1章5、10~11節)。イスラエルがその王朝史を語るにあたって、こういうハンナの涙の祈りを物語ることから始める必要があったことが覚えられます。つまりこの祈りは単なるひとりの女性の苦悩ではなく、士師記の終わりに語られる民族の断絶的悲劇を合わせ思う共同体ぐるみの祈りだ、と受け取るべきでしょう。「キション川は彼らを押し流した。‥‥わが魂よ、力強く進め」。「奮い立て‥‥ほめ歌を歌え。立ち上がれ」。「もろもろの星は天から戦いに加わり‥‥」。多くの課題や先行き不透明な行き詰まりの壁を目の前にする状況に、たじろぐ思いのわたしたちです。突き抜ける勇気は、人知を超えて「太古の川、キション川」が、「神と小羊の玉座から流れ出て、水晶のように輝く命の水の川」(黙示録22章1節)として、私たちの生活を励まし続けてこそ得られるものだ、ということです。古い年を後に、多難を予想せざるを得ない私たちに与えられている恵みから、祈りつつ着実な一歩を踏み出そうではありませんか。

12月20日降誕祭説教

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聖 書 マタイによる福音書2章9~12節
説 教 「御子を迎える喜び」

 「学者たちはその星を見て喜びにあふれた。」(10節)

 学者たちは、それまで彼らを導いて来た星が、一度目を離したのに去ってしまわずに、最後まで彼らを救い主の降誕の場に連れて行くことを喜び感謝しました。世界を救う恵みの光は、闇の中に輝きます。「闇の中を歩む民は、大いなる光を見/死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。あなたは深い喜びと/大きな楽しみをお与えになり/人々は御前に喜び祝った。刈り入れの時を祝うように/戦利品を分け合って楽しむように。」(イザヤ書9章1、2節)。「光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」(ヨハネによる福音書1章5節)。御子は、恐れと闇の只中に光として生まれ給いました。権力そのものと化したヘロデ王の支配下に、天からの知らせは「恐れるな」という呼び掛けから始まります。神が始める新しい知らせを恐れずに聞けという意味と共に、人間の支配下にある世界が如何に暗く恐怖で覆われるとしても、神の救いによって始まる光によって、恐れからの完全な解放が始まることを告げるのです。小さく始まった救いの慎ましい喜びは、静かに確実に人の世に拡がって行きます。

 それは夜、野宿する労働者の恐れにも、「大きな喜び」としても伝えられました。「その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。天使は言った。『恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。‥‥』‥‥」(ルカによる福音書2章8~10節)。学者たちの「星」も、羊飼いの「天使」も、同じ天からの知らせとして、喜びを伝えました。つまり、それは何よりも天地創造に神の喜びから出ています。「神は言われた。『光あれ。』こうして、光があった。神は光を見て、良しとされた。神は光と闇を分け、‥‥、神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。夕べがあり、朝があった。第六の日である。」(創世記1章3、4節、‥‥、31節)。しかも、罪に堕ち、被造物を台なしの「呻き」に陥れた人間を最後まで見捨てずに、救いに導く神の不撓不屈(ふとうふくつ)の喜びです。「被造物は虚無に服していますが、それは、自分の意志によるものではなく、服従させた方の意志によるものであり、同時に希望も持っています。‥‥被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。」(ローマの信徒への手紙8章20、22節)。その為に「苦しみの実り」を結ぶ犠牲を「満足」して止まない喜びです。「彼は自らの苦しみの実りを見/それを知って満足する。わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために/彼らの罪を自ら負った。」(イザヤ書53章11節)。このように、神の下で慎ましく、世の暗闇を引き受けて輝くこの光は、決して示威(じい)的ではないので、極めて抑制が効いた喜びではありますが、それだけに粘り強く決して諦めを知らない性格を秘めています。

 「星を見て、喜びにあふれた」学者たちの「喜び」は、彼らが自分たちの手からは決して造り出せない、外から来る喜びでであって、従ってそれを彼らは「知らせ」による以外にないことに注目したいと思います。学者たちは、博士とも魔術師(使徒言行録13章6節)とも、さらには「国々はあなたを照らす光に向かい/王たちは射し出でるその輝きに向かって歩む」(イザヤ書60章3節)という預言に基づいて、王とさえ呼ばれます。彼らを飾る地上の豊かさは、満ちるほどに「どれもみな空しく、風を負う」(コヘレトの言葉1章14節)、「銀を愛する者は銀に飽くことなく/富を愛する者は収益に満足しない。これまた空しいことだ。」(同5章9節)、と言われるように、虚しさに至るものに過ぎません。地上の富は、決して人を芯から満足させることは出来ません。そのことは、そういう彼らを永い旅に出させ、彼ら自身の「知恵」からは、目的に到る道を失う処であったことでも分かります。馴染んできた富の故に、権力者指向に流れやすい性格からして、天来の御子から全く逆方向のヘロデ王の方向を取り、その事の故にあの残虐な幼児虐殺の原因さえ作ってしまいました(2章16節)。正に天からの「星」の使信あってこそ至り得た「喜び」故に、彼らは自分たちの「宝」を献げ切っています。人を救って止まない神の喜びに与った全ての罪人に湧き出る喜びです。「‥‥、ザアカイは立ち上がって、主に言った。『主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。』イエスは言われた。『今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。』」(ルカによる福音書19章8、9節)。昔も今も、紛争の坩堝(るつぼ)のような闇が蠢(うごめ)くこの地域に天から降立った神の「喜び」が、嵐の小舟で憩う主の平安のように人を救います。「激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水浸しになるほどであった。しかし、イエスは艫(とも)の方で枕をして眠っておられた。‥‥。」(マルコによる福音書4章38節)。静かに、そして着実に、喧噪(けんそう)や混乱に病む世を貫いて、抗(あらが)い難(がた)く世界と、人々の心を癒し伝わって行く喜びです。

12月13日説教

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聖 書 エフェソの信徒への手紙3章14~21節
説 教 「内なる人を強めて」

 「どうか、御父が、その豊かな栄光に従い、その霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強めて、信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。」(16、17節)

 「内なる人を強め」よという使徒の教えに、私たちは今日改めて聴く必要が増しています。何故なら、今日ほど外側の見える部分の華やかさを、確かさの手懸かりとして追い求める傾向が強い時代はない、と言ってよいからです。「地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を置いて家を建て」る(ルカによる福音書6章48節)ことを教えられた主イエスの意向を無視し、軽んじる傾向が、現代社会に一層著しいからです。外に関心を寄せている間に、内側は益々虚弱なもの、闇に覆われて行きます。不安や憎(ぞう)悪(お)が蟠(わだかま)り続けています。今、私たちは到る所で、内なる人への顧慮から離れた結果として、ひっきりなしに様々な処で、吹き出し爆破する現象に触れざるを得ないのです。「見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続する」(コリントの信徒への手紙二、4章18節)ということが、もう一度覚えられねばなりません。「内なる」「見えない」人を強める為に必要なことを、しっかりと受け止めることです。聖書は、その為に必要な生き方についての示唆やヒントに事欠きません。

 そこでこの「内なる人を強める」事と、「豊かな栄光」や「霊」に溢れて居給い、すべての「力」の源である父としての神を覚えることが深く関係していることが示されます。御子の到来によって、私たちも又神の子らとしての愛を注がれていることを知るからです。御父から注がれるキリストの愛の「広さ、長さ、高さ、深さ」を知る時、わたしたちの人間愛はなんと「狭く、短く、低く、浅い」ものに過ぎなかったことでしょう。人間世界は、愛の大切さを知っては居ても、人間自身が示す愛は、いつも儚さが実感されます。私たちは生まれついて以来、受け取る愛つまり愛されることには敏感です。しかし、私たち自身愛を働きかけることになると、この方は極めて鈍いのです。それが人の世界の混乱と争いの理由です。私たちが真の愛と出会う為には、自分の側からの愛は思うほど強くも、豊かでもないことを、壁に突き当たるように知らされる必要があります。この点でペトロの歩みは、私たちの愛の典型的な実例です。つまり復活の主から、ペトロが「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」と問われた時は、彼が渾身の力を込めて、十字架の主に従い愛そうと努めて、脆(「もろく)くも躓いた直後のことでした。どの様に力を込めて愛そうとしても、人は自分から出る愛は正に「狭く、短く、低く、浅い」ものでしかないことに臍を噛まずにはいられないわけです。「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」。ペトロのこの答えには、彼自身の愛の短さ、浅さを悟った慚愧(ざんき)と、それでもそういう愛に薄情でしかない者に、敢えて「愛するか」という主イエスの御言葉に溢れ出す赦しの愛の「広さ、長さ、高さ、深さ」を知った者としての悔い改めが読み取れます(ヨハネによる福音書21章15~19節)。

 御父の確かで雄大な愛(19節)は、御子キリストに秘められています。私たちがこの神の愛の内に生きる為に、神は十字架で肉を裂き、血を流された御子、キリストの御身体としての教会に、私たちが加えられることの必要を語るのがエフェソの信徒への手紙です。私たちは目下待降節を過ごしています。この季節に私たちが込めるべきことは、この秘められた「内なる」愛に、私たちの意識を集中させることです。確かに御子の降誕は、この世界からは隠された場所と時に起こりました。あれほど救い主を待ち望んでいた神のイスラエルですら、気づかず見落とす程の密やかな出来事でした。従って、クリスマスを迎えて待ち望む信仰は、間違いなく私たちの「内なる人を強める」信仰です。何故なら初めのクリスマス同様に、世界は依然として降誕の恵みの外側に喜びを求めつづける空気の中で拡がっているからです。しかし、ベツレヘムに生まれる小さな御子に示される愛を、心を鎮めて受け止める時に、愛は確実に「内なる人を強める」成長を続けて止まないことが保証されます。「幼子はたくましく育ち、知恵に満ち、神の恵みに包まれていた。」「イエスは知恵が増し、背丈も伸び、神と人とに愛された。」(ルカによる福音書2章40、52節)。主イエスの母マリアと同じように、気付かぬ内に成長を続ける神の御子を、「神殿」(私たちにとっては教会)の中に見出すことが、マリアの信仰の成長であり又私たちの信仰の成長です。そのようにして私たちの「内なる人が強められて行く時」、複雑怪奇な混乱したこの世の只中を、私たちは乗り越えて歩んで行くことが許されます。「神から生まれた人は皆、世に打ち勝つからです。世に打ち勝つ勝利、それはわたしたちの信仰です。だれが世に打ち勝つか。イエスが神の子であると信じる者ではありませんか。」(ヨハネの手紙一、5章4、5節)。)

12月6日説教

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聖 書 ルカによる福音書23章50~56節
説 教 「神の国を待ち望む業」


 「さて、ヨセフという議員がいたが、善良な正しい人で、‥‥神の国を待ち望んでいた。‥‥この人が‥‥、イエスの遺体を渡してくれるようにと願い出て、遺体を‥‥、岩に掘った墓の中に納めた。。」(50~53節)  ルカが語る福音は、その初めと終わりに「神の国を待ち望む」人物を登場させます。老シメオン(ルカによる福音書2章25節)と、ここでのアリマタヤのヨセフです。それらは、私たちにとって、御国待望が今を生きる信仰にもたらす実りの豊かさを改めて覚えさせてくれる機会となります。シメオンはエルサレムで、久しく「イスラエルの慰められるのを待ち望み」続けていた人物です。彼の長い時を費やした祈りに「聖霊が彼にとどまっていた」と言われます。何時実るかも知れない神の約束を信じて待つ信仰です。そういうシメオンにして、嬰児イエスの神殿詣でという極めて慎(つつ)ましくささやかでさえあり、律法に忠実に実践する信仰によって、救いの到来を洞察する力が与えられたのです(ルカによる福音書2章30、38節)。「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり/この僕を安らかに去らせてくださいます。わたしはこの目であなたの救いを見たからです。」(同29、30節)。アリマタヤのヨセフも又同じ待望信仰に生きた人でした。それが彼に的確に時を捉えて行動する勇気をもたらすことを示します。「アリマタヤ出身で身分の高い議員ヨセフが来て、勇気を出してピラトのところへ行き、イエスの遺体を渡してくれるようにと願い出た。この人も神の国を待ち望んでいたのである。」(マルコによる福音書15章43節)。そしてそれがユダヤの最高議会の議員であるヨセフの行動であったことを通して、主イエスの死に対しても最大の尊敬を払うべきことが示されます。呪われた者としての死を進んで受け止めて下さった神の御子に、どのようにしても感謝しきれず、崇めても止まない愛のあらわれを、私たちは読み取るからです。

 又ルカは、全てが律法遵守(じゅんしゅ)の生活習慣の中で行われたことを語る点で、降誕物語から一貫しています。「さて、モーセの律法に定められた彼らの清めの期間が過ぎたとき、両親はその子を主に献げるため、エルサレムに連れて行った。それは主の律法に、『初めて生まれる男子は皆、主のために聖別される』と書いてあるからである。」(ルカによる福音書2章22、23節、更に、同39、42節)。ここでは、安息日厳守の律法規定に従って、主イエスの遺骸への処理は延期されました。「ある人が死刑に当たる罪を犯して処刑され、あなたがその人を木にかけるならば、死体を木にかけたまま夜を過ごすことなく、必ずその日のうちに埋めねばならない。木にかけられた者は、神に呪われたものだからである。あなたは、あなたの神、主が嗣業として与えられる土地を汚してはならない。」(申命記21章22~23節)。しかし、その経過の中で、全く新しいことが否応無しに始まろうとしていることが、丁重な埋葬の中に顕れ出ます。「遺体を十字架から降ろして亜麻布で包み、まだだれも葬られたことのない、岩に掘った墓の中に納めた。」(53節、更に19章30節参照)。その為に主イエスは、「まことに死んでしまった、ということが証し」されます(ハイデルベルク信仰問答・問い41への答、ヨハネによる福音書11章13、14節参照)。人は全く死んでこそ、真に生きるからです。「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」(ヨハネによる福音書12章24節)。「あなたが蒔くものは、死ななければ命を得ないではありませんか。」(コリントの信徒への手紙一、15章36節)。

 それは昼の一日の中で最も明るい光の降り注ぐ時間帯が、暗闇に覆われ、又神殿の垂れ幕が引き裂かれる、という自然世界と宗教伝統が破れ砕かれる異常事態を引き起こす出来事でした。「あのときは、その御声が地を揺り動かしましたが、今は次のように約束しておられます。『わたしはもう一度、地だけではなく天をも揺り動かそう。』」(ヘブライ人への手紙12章26節)。そういう驚天動地の出来事が経過する中を、主の死は黙々と又淡々と日常性を守る人々によって受け止められて行きます。その行動は、まるで何事も無かったかのようにすらでもあります。それが、神の国を待ち望む者たちの業であることを、受け止めたいとおもいます。更に言えば、それは又「揺り動かされるものが、造られたものとして取り除かれ」て「揺り動かされないものが存続する」(ヘブライ人への手紙12章27節)ことによって、根底から支えられる人の業です。こういう生き方に徹して、宗教改革者のM.ルターが言った不思議な言葉「たとえ明日世界が滅びるとしても、私は今日リンゴの木を植えるだろう」を思い出すことも出来るでしょう。このように、私たちのごく普段の日常生活が活力を湧き出させ続けるものになる為に、「神の国を待ち望む」信仰姿勢は、欠くことの出来ない要素です。神の国を待つことを疎(おろそか)にしたり、忘れ勝ちに生きる時、必ず信仰は世俗化し、無力化して行きます。それは全ての偶像礼拝の根底に流れる要素でもあります。再度確認します。私たちの救い主は、死んで葬られました。私たちの死が曖昧なものにならない為にです。復活を不確かな命の風のようなものとして歌う気慰めの風潮を生む文化が、私たちを取り囲んでいるからです。それによって人の人として最も重んじるべき人格性と救いとがあやふやなものにされているからです。

11月29日説教

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聖 書 ヨシュア記 24章14~15節
説 教 「私と私の家は主に仕えます」

 「もし主に仕えたくないというならば、‥‥仕えたいと思うものを、今日、自分で選びなさい。ただし、わたしとわたしの家は主に仕えます。」(15節)

 イスラエルを奴隷から自由に解放し、荒れ野の窮乏を経て、ついに約束の地にまで導き出した神は、唯独りの神です。ヨシュアは、改めて民らが自覚してこの神を選び取ることを求めています。彼らは、何よりもモーセが命じた第一の戒めを覚えねばなりません。「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。」(申命記5章7節)。「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」(申命記6章4~5節)。世界は何時の時代でも常に多くの神々に囲まれた環境です。そういう中での信仰者が、生活から異なる「神々を取り除き、イスラエルの神、主に心を傾け」る(23節)信仰の戦いを繰り広げることが求められます。主イエスの御言葉に躓いて、多くの人々が去って行く中で、主は十二人に、「あなたがたも離れて行きたいか」と訊ねられたことがありました。これに対してペトロが十二人を代表して答えた。「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。」(ヨハネによる福音書6章67、68節)。私たちも、しばしば主イエスから、このように問い糾(ただ)されます。主イエスに選ばれた私たちが、それに応えて主を選び従う意志を、確かにする為です。真の主から離れたところにいて偶像に心を寄せる人々が、私たちを取り囲んでいる状況は、ヨシュアの時代も今日もさほど変わりないからです。

 ヨシュアが改めて神を選ぶように民に求め迫った場所は、その昔彼らの先祖アブラハムが神と出会った場所であり、民らは何かに付けて思いを刻んだ処でした。「アブラムはその地を通り、シケムの聖所、モレの樫の木まで来た。当時、その地方にはカナン人が住んでいた。主はアブラムに現れて、言われた。『あなたの子孫にこの土地を与える。』アブラムは、彼に現れた主のために、そこに祭壇を築いた。」(創世記12章6、7節)。或いはそこでヤコブが異なる神々のしるしを埋めた土地でもあったのです。「ヤコブは、家族の者や一緒にいるすべての人々に言った。『お前たちが身に着けている外国の神々を取り去り、身を清めて衣服を着替えなさい。‥‥』人々は、持っていた外国のすべての神々と、着けていた耳飾りをヤコブに渡したので、ヤコブはそれらをシケムの近くにある樫の木の下に埋めた。」(創世記35章2、4節)。そして遠い地であるエジプトに住み、そこでの苦難と光栄を味わい尽くしたヨセフについても、変わることなく彼の思いが込められた処でした。「信仰によって、ヨセフは臨終のとき、イスラエルの子らの脱出について語り、自分の遺骨について指示を与えました。」(ヘブライ人への手紙11章22節)。「それから、ヨセフはイスラエルの息子たちにこう言って誓わせた。「神は、必ずあなたたちを顧みてくださいます。そのときには、わたしの骨をここから携えて上ってください。」(創世記50章25節)。神に選ばれ、神を選ぶ民は、神との出会いの場を大切にします。私たちキリスト者にとっても、礼拝の場がそういう思いに溢れる場所として、ここから出て行き、ここに帰って来ます。そこで神の生きた御言葉に聴く時、私たちも又依然として多くの偶像を除き、唯独りの神に生きる戦いを続けることに召されていることを自覚するからです。

 「わたしとわたしの家は主に仕えます。」ヨシュアも又、遙か後にペトロに向けて主が語られた「わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか。あなたは、わたしに従いなさい。」(ヨハネによる福音書21章22節)を、選びの神から召されて自らも主体性をもって選ぶ信仰を、はっきりと聴き取っていながら、同時にヨシュアは彼の家族と共に主に仕えることを強く表明しています。異なる神々に囲まれた環境は、人の孤立化を進行させます。「愛が冷える」世の終わりの徴候が見え隠れする現今(マタイによる福音書24章12節)、キリスト者の戦いは、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます。」(使徒言行録16章31節)という初めの恵みに、先ずもう一度激しく立ち帰ることが求められています。誰でもない「あなた」が、あなたを選んだ主に従わなければなりません。しかし、同時に生きるべき場所をあてがわれる信仰者にとって、家族の救いが如何に難しく感じられても、この約束から離れず放棄しない祈り続ける戦いを静かに、執拗に続けることです。神の家族としての教会に属する信仰者は、この世における「家族」ぐるみ主に従い仕えることが求められています。「自分の親族、特に家族の世話をしない者がいれば、その者は信仰を捨てたことになり、信者でない人にも劣っています。」(テモテへの手紙一、5章8節)とさえ言われます。信仰が世に打ち勝つ(ヨハネの手紙一、5章4、5節)為に、祈り求め続けるべき決して揺るがせにしてはならない課題です。

11月22日説教

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聖 書 エフェソの信徒への手紙 3章10~13節
説 教 「確信をもって主に近づく」

 「わたしたちは主キリストに結ばれており、キリストに対する信仰により、確信をもって、大胆に神に近づくことができます。」(12節)

 「神に近づく」ことが出来るのは、「わたしたちが主キリストに結ばれている」からです。パウロは、それに「確信」と「大胆さ」が加えられる、と言います。私たちは迷いがちな者で、草花に似て、例え一時的に華やかさを表すとしても、それはほんの一時だけで、直ぐに枯れたり散ったりして消えてしまいます。預言者が次のように言う通りです。「呼びかけよ、と声は言う。わたしは言う、何と呼びかけたらよいのか、と。肉なる者は皆、草に等しい。永らえても、すべては野の花のようなもの。草は枯れ、花はしぼむ。主の風が吹きつけたのだ。この民は草に等しい。」(イザヤ書40章6、7節)。それを受けて、ペトロも又「こう言われているからです。『人は皆、草のようで、/その華やかさはすべて、草の花のようだ。草は枯れ、/花は散る。』」(ペトロの手紙一、1章24節)と確認しています。しかし預言者も使徒も、次のように続けて言います。「しかし、わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ。」(イザヤ書40章8節、ペトロの手紙一、1章25節)と。つまり儚(はかな)く脆(もろ)い私たちを、「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」(マタイによる福音書24章35節)と言われる主の御言葉が支え励まします。正にそれこそが私たちに、「確信」と「大胆さ」を与える、ということになります。

 それは、私たちに語り掛けられる神の言葉によって、同時に「神の永遠の計画」が実現されている事を知るからです。私たちは、かつては「空中に勢力を持つ者」(エフェソの信徒への手紙2章2節)や、「迷わす霊」(ヨハネの手紙一、4章6節)の混乱と惑いの支配の下に過ごしていました。そういう未知の世界が、限りなく私たちを不安にさせていたのでした。B.パスカルは、「この無限に拡がって行く宇宙世界が、私を限りなく不安にする」と言いました。神喪失を引き起こす近代世界の知性の特徴を的確に言い表しています。しかし、パウロは既に「‥‥、いろいろの働きをする神の知恵は、今や教会によって、天上の支配や権威に知らされるようになったのです」(10節)と言っていたのです。私たちの手の及ばない、そういう無限世界が、キリストの恵みの支配下に導き入れられました。人間の知性では捉え得ない故に、不安や恐怖しか感じることが出来なかった世界を、キリストは十字架の勝利によって、完全に御自分の支配下に置かれたのでした。そういう知られない世界は、不安や恐怖ではなくキリストへの信頼に委ねる信頼の世界に変えられました。それによって世界には、秘められていた神の計画があったこと、そしてそれはキリストにおいて実現したことが明らかになりました。そこで私たちは、「母の胎内にあるときから選び分け」られた者(ガラテヤの信徒への手紙1章15節、エレミヤ書1章5節)という、確かな自覚で生きることが許されるようになりました。

 更にその確信は、「いろいろの働きをする神の知恵」によって一層深められます。そしてしばしば躓きの原因となる「苦難」さえ、信仰に確かさを増し加えます。「わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。」(コリントの信徒への手紙一、1章23、24節)。つまり、「つまずかせ‥‥、‥‥愚かなもの」としての「十字架につけられたキリスト」が信仰の確かな基いとなります。迫害下にある使徒の姿が兄弟たちに「確信」と「勇敢さ」を加えることに作用します。「兄弟たち、わたしの身に起こったことが、かえって福音の前進に役立ったと知ってほしい。つまり、わたしが監禁されているのはキリストのためであると、兵営全体、その他のすべての人々に知れ渡り、主に結ばれた兄弟たちの中で多くの者が、わたしの捕らわれているのを見て確信を得、恐れることなくますます勇敢に、御言葉を語るようになったのです。」(フィリピの信徒への手紙1章12~14節)。このように、弱く乏しい私たちの信仰に確かさを与え、迷いがちな私たちに「主に近づく」「大胆さ」を増し加える要素は、私たちの側には一切なく、主の御手にあることが明らかになります。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。‥‥」(ヨハネによる福音書15章16節)と主が言われる通りです。その上で更に主は、「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」(ヨハネによる福音書16章33節)と言って私たちを励ましておられるのです。

11月15日説教

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聖 書 ルカによる福音書23章45~49節
説 教 「息を引き取られる主」

 「イエスは大声で叫ばれた。『父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。』こう言って息を引き取られた。」(46節)

 命の主が死に給います。この逆事(ぎゃくじ)に、12時から3時という一日でも一番明るい時間帯としての昼が暗くなり、中天高くに輝く太陽さえも光を失います。光の中の光、光の主が闇の支配下に降られたからです。主は「わたしを信じる者が、だれも暗闇の中にとどまることのないように、わたしは光として世に来た。」(ヨハネによる福音書12章46節)と言われたお方が、「‥‥、今はあなたたちの時で、闇が力を振るっている。」(ルカによる福音書22章6節)とされるのです。この時、エルサレム神殿の垂れ幕が裂けた、と聖書は記録します。それまでは、神殿の垂れ幕は、神と人、天と地、聖と俗、ユダヤ人と異邦人、男と女とを冷厳に又象徴的に分かつ装置として隔てる「中垣」(エフェソの信徒への手紙2章14節・口語訳)として、当然のように存在していたものでした。その隔てを除くために、主は御自分のお身体を引き裂くことを通して、新しい生きた道を私たちに開いて下さいました。「イエスは、垂れ幕、つまり、御自分の肉を通って、新しい生きた道をわたしたちのために開いてくださったのです。」(ヘブライ人への手紙10章20節)。「実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。」(エフェソの信徒への手紙2章14~16節)とも言われることを実現されました。

 主はこうして十字架上で「息を引き取られた」時、「大声で叫ばれた」と言われます。その言葉をルカは記録するのを敢えて控えています。「大声で」という言葉は、その後の「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」という御言葉には、直結し難いでしょう。他の福音書の存在をルカは知っていたのですから(ルカによる福音書1章1~3節)、あの激しくも痛ましい「三時にイエスは大声で叫ばれた。『エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。』これは、『わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか』という意味である。」(マルコによる福音書15章34節、マタイによる福音書27章46節)という御言葉も知っていた筈です。しかし、ルカは御父に信頼を貫かれた御子を強調するためでしょうか、敢えてそれを書き出すことは控えています。そして、全ての嘆きや、疑惑さえも、大いなる御父に委ね切って、確かに主イエスは全き安らぎの内に死に給うたことに、読む者の関心を向かせようとした、と考えられます。そしてそこに私たちは、勝利が現された十字架の主の御姿を、より鮮明に見ることになります。確かに、ついに闇は光に勝てませんでした(ヨハネによる福音書1章5節・口語訳)。不条理が覆い、正義が曲げられて、暴力が人類を呑み込むようなこの世界です。力には力で対抗して、相手を殲滅(せんめつ)するだけではなく、その為に自分も滅びざるを得ない終極に至る世界です。私たちはもう一度本気で、主イエスの「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる。」(マタイによる福音書26章52節)という御言葉を真剣に受け止め、実行しなければなりません。何故なら、全能の神の御子の十字架の死を通して、神は尚義の内に世界を治め給うておられるからです。

 この驚くべき出来事を通して、神の尊い御子の血が、「限りなく邪悪な罪」(ロマの信徒への手紙7章13節)の毒性を無力化し尽くすことが明らかにされます。神の御子の死が、全ての罪人の命の泉となるからです。人は死ねば、無に帰してその存在は過去となります。モーセも、エリヤも、ポンテオ・ピラトも死んで逝き、歴史に名を連ねても、過去の人物たちというに過ぎない存在です。しかし、御子の死だけは、命そのものとして、何時でも現在です。このお方は、どんな時代の変化や衰微をもものともせず、生き続けなさいます。信じる者の傍らに、常に慰め助け救うお方として、共にいて下さいます。「『見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』この名は、『神は我々と共におられる』という意味」(マタイによる福音書1章23節)でこの世の生を初められたこのお方、又「あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」(同28章20節)と言われて終わり給うたこのお方によって、そしてこのお方によってだけ、私たちの死も命に変えられ、「人は永遠に生きる」(ヨハネによる福音書6章51節)のです。十字架を共にした極悪人が、主イエスの罪なき様を見て最後の頼みとし(41節)、刑に立ち会った異邦の百人隊長が、「『本当に、この人は正しい人だった』と言って、神を賛美した。」ように、既に主はその死においても、全ての人の救い主であられたからでした。

11月8日説教

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聖 書 ヨシュア記 22章27節
説 教 「犠牲に優る慈しみの祭壇」

 「‥‥わたしたちが焼き尽くす献げ物や、和解の献げ物をささげて主を礼拝するのは、後日、あなたたちの子供がわたしたちの子供に向かい、『あなたたちには、主の割り当てはない』と言わないためです。」(27節)

 神の民イスラエルは約束の地に入ることが出来、その地で部族毎に居住地が割り当てられました。その時、ヨシュアの指示を受けた祭司ピネハスが、神に献げる祭壇について、人々を導きました。新しい生活が始まる時、先ず祭壇が備えられるのは、洪水後新しい大地に降り立ったノアが、何よりも先に築いて以来、神の民が喜ばしい義務としたことだったからです。その時のことを聖書は、印象深く次のように描き出します。「そこで、ノアは息子や妻や嫁と共に外へ出た。獣、這うもの、鳥、地に群がるもの、それぞれすべて箱舟から出た。ノアは主のために祭壇を築いた。そしてすべての清い家畜と清い鳥のうちから取り、焼き尽くす献げ物として祭壇の上にささげた。主は宥(なだ)めの香りをかいで、御心に言われた。『人に対して大地を呪うことは二度とすまい。人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ。わたしは、この度したように生き物をことごとく打つことは、二度とすまい。』」(創世記8章18~21節)。私たち信仰者が、新しい一週間の初めに、すべてのことに先立って神に礼拝を献げることに心を込めるのにも、延々と引き継がれて来る習慣です。「こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。」(ローマの信徒への手紙12章1、2節)

 処がこの約束の地で、問題が生じたのです。部族毎に土地が分与されたとしても、本来イスラエルに祭壇はただ一つであるべきです。「あなたは、自分の好む場所で焼き尽くす献げ物をささげないように注意しなさい。ただ、主があなたの一部族の中に選ばれる場所で焼き尽くす献げ物をささげ、わたしが命じることをすべて行わなければならない。」(申命記12章14節)と言うのが定めでした。各部族が夫々の地に分かれて生活することによって、祭壇が別々に建てられてはなりません。同じ一人の神を礼拝する民としてこそ守られる民族的な統合が、それによって破れてはならないのです。更にはその事に乗じて、夫々の地の先住民が風習とする偶像礼拝に誘われて、それに走る者が出さえする危険にもつながったからです。事実、この点はこの後のイスラエルの生活を、内面から突き崩す要素として、彼らが戦い続けねばならなかった誘惑でした。土地が豊かであり、彼らが渉ってきたヨルダン川の奇跡が大きければ大きかっただけ、その東と西の地を分かつ隔絶感は深く、各土地の性格は多様であった筈です。かつて彼らを導いて来たモーセすら、ネボ山(ピスガ)の山頂にたって遙かに望み見るだけで、約束の地に入ることが許されなかったのでした(申命記34章1~4節)。

 この時、「神よ、主なる神よ。神よ、主なる神よ。神はご存じです。‥‥」と繰り返し生ける神を呼びます(22節)。そして、人々が子孫にまでも神の嗣業を正しく伝えるために、儀式そのものに固執せず、慈しみの精神を深めるという意味での献げ物に集中することを誓ったのです。「わたしたちはこうも申し合わせました。もし後日、わたしたち、またわたしたちの子孫に、このようなことが言われたなら、こう答えよう。『わたしたちの先祖が作った主の祭壇の模型を見なさい。焼き尽くす献げ物や和解の献げ物をささげるためではなく、あなたたちとわたしたちとの間柄を示す証拠なのです。』」(28節)。儀式の形に拘泥するのではなく、祭壇を通して生ける神への生きた命の通う礼拝が強く自覚されることによって、正に信仰の内面に脈打つ心を後々までも伝えて行こうと願ったのです。それは生きて居られる神への命豊かな応答であり、生活全体を通して神に献げる命の感覚です。「主が喜ばれるのは/焼き尽くす献げ物やいけにえであろうか。むしろ、主の御声に聞き従うことではないか。見よ、聞き従うことはいけにえにまさり/耳を傾けることは雄羊の脂肪にまさる。」(サムエル記上15章22節)。後に預言者サムエルによって確認される生きた信仰の源としての礼拝の精神です。私たちの主の「しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。」(ヨハネによる福音書4章23節)という御言葉に至るものです。人々は彼らの対話を通して「今日、主がわたしたちの中におられることを知った。」(31節)と言っています。新しい土地で、予想される信仰の戦いを視野に入れながら、その時に浮かび上がった危険な傾向を乗り越える見事な解決が果たされたのでした。

11月1日説教

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聖 書 エフェソの信徒への手紙3章1~6節
説 教 「啓示された神の計画」

 「初めに手短に書いたように、秘められた計画が啓示によってわたしに知らされました。あなたがたは、それを読めば、キリストによって実現されるこの計画を、わたしがどのように理解しているかが分かると思います。」(3、4節)

 世界や私たちの人生は謎めいています。それは「まことにあなたは御自分を隠される神‥‥」(イザヤ書45章15節)と言う預言者の言葉の通り、神が常に私たちから隠れて居られるからです。「だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。」(マタイによる福音書6章6節)。従って神がその統治を通して進められる御計画も、人の目には「秘められ」ていて分かりません。その神にパウロはキリストにおいて召し出されました。「神の御心によってキリスト・イエスの使徒とされたパウロ」(コリントの信徒への手紙二、1章1節)という自覚に立って信じるパウロに、「啓示」によって「理解」が与えられました。「召し出され」たという自覚を「キリスト・イエスの囚人となっている」パウロは、キリストの福音を宣べ伝える自身が迫害され、「鎖につながれて」いる状況を、反映させて語ります。しかもその上で「神の言葉はつながれていない」で、主に仕える者のそういう逆境を通しても、むしろ神の計画が却って実現して行くのを見るのです(テモテへの手紙二、2章9、10節)。

 私たちの人生も、世界も目的もなく流されて行くのではないこと、それらは神が「前もってキリストにおいてお決めになった神の御心」(エフェソの信徒への手紙1章8節)が進展して行く舞台であることが明らかになります。勿論私たちはその全貌を知ることは赦されないと言え、キリストとの出会いにおいて示されたことによって、揺るぐことがない確信も与えられます。ですからパウロは、信じるように召された全ての者の為に祈って、「心の目を開いてくださるように。そして、神の招きによってどのような希望が与えられているか、聖なる者たちの受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか悟らせてくださるように。」(エフェソの信徒への手紙1章18節)と祈りました。その為には信じる者には忍耐も必要ですが、それは神が示して下さる希望が溢れていることによって、勇気づけられるのです。謎めいたこの世の歩みや私たちの人生ですが、そこには隠れた神による計画と約束が添えられていることが分かれば、全ての閉塞感を貫いて未来を切り拓く力が湧き出ます。神の下には大きな計画があって、それがキリストを通して啓示されることを知るキリスト者の歩みが、常に健全で力強い未来指向を持っていることを確認したいと思います。

 パウロの時点では「異邦人が福音によって‥‥わたしたちと一緒に受け継ぐ者」となるという、恵みの現実が開かれました。確かにこのことは預言されていて、イスラエルは知識としては持っていたのです。「今、苦悩の中にある人々には逃れるすべがない。 先に/ゼブルンの地、ナフタリの地は辱めを受けたが/後には、海沿いの道、ヨルダン川のかなた/異邦人のガリラヤは、栄光を受ける。」(イザヤ書8章23)。「また、主のもとに集って来た異邦人が/主に仕え、主の名を愛し、その僕となり/安息日を守り、それを汚すことなく/わたしの契約を固く守るならわたしは彼らを聖なるわたしの山に導き/わたしの祈りの家の喜びの祝いに/連なることを許す。彼らが焼き尽くす献げ物といけにえをささげるなら/わたしの祭壇で、わたしはそれを受け入れる。わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる。」(同56章6、7節)。しかし、彼らは自分たちが神による選民だ、という凝り固まった自覚によって、異邦人を永く排除して来たのです。その為に福音が異邦人にも備えられているという恵みは、事実上彼らの目から秘められていたのです。秘められていて神の計画が見えないと、人生も世界も混乱と闇に覆われます。長い間固定観念として生活にこびりついたような考えが、改まることは容易ではありません。しかし、神の啓示が歴史に働くと、そうした壁を一挙に取り払います。新約聖書時代は、そういう時代でした。しかし、そういう変化が人間の側で起こる時は、混乱と闇を突き破る前のもどかしさは、「巻物を開くにも、見るにもふさわしい者がだれも見当たらないので激しく泣いていた」ヨハネ(黙示録5章4節)の言葉に代表されます。多くの不透明感に閉ざされ閉塞状態が意識される今の時代に、目下私たちが持つべき姿勢でしょう。しかし、「御言葉が開かれると光が射し出で/無知な者にも理解を与えます。」(詩編119篇130節)。閉じられていた聖書の御言葉が、「ユダ族から出た獅子、ダビデのひこばえ」としてのキリストの勝利によって(黙示録5章5節)開かれる時の光輝くような喜びが歴史を変えるのです。そうした啓示された主の御言葉によって、私たちも神の計画に与る者となるように祈りたいと思います。

10月25日説教

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聖 書 ルカ 23章39~43節
説 教 「今日わたしと楽園にいる」

 「十字架にかけられていた犯罪人の‥‥もう一人の方が‥‥、『イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください』と言った。するとイエスは、『はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる』と言われた。」(39~42、43節)

 罪の無い神の御子が犯罪人の一人として十字架の裁きを受けられます。主イエスの両側に二人の犯罪人が一緒に十字架刑を受けたからです。「‥‥彼が自らをなげうち、死んで/罪人のひとりに数えられたからだ。多くの人の過ちを担い/背いた者のために執り成しをしたのは/この人であった。」(イザヤ書53章12節)という古い預言がここに成就しています。そして主イエスには、十字架に付けられたことに加えて、更にそれに数限りない侮辱と罵(ののし)りが石つぶてのように投げつけられます。しかし、主はそれらの攻撃を赦しと愛敵で迎え撃ち、完全な勝利を現されます。つまり主イエスは、弟子たちに日頃から「 一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回、『悔い改めます』と言ってあなたのところに来るなら、赦してやりなさい。」(ルカによる福音書17章4節)と教えておられ、又「しかし、あなたがたは敵を愛しなさい。人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい。そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる。いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである。」。(同6章35節)と命じて来られました。正にそれを主イエスは十字架でも、御自分が率先してなし給うたのです。十字架は主イエスの御生涯の終わりに、突然現れたことではなく、その御生涯を通じて担い続けておられたのであって、それが十字架の時に一挙に現れ出たのだと言うべきでしょう。

 そしてここでは、既に十字架の実りが、主が激しく苦しみ抜かれるその瞬間に、結び始めているのを、私たちは気付かされます。「来て見なさい。そうすれば分かる」(ヨハネによる福音書1章39、46節)、と主イエスは言い、又初めての弟子も言いました。正に、「されこうべ」(ゴルゴタ・カルヴァリー)の丘で起こったこの出来事にまで響き続ける言葉です。「この人を見よ」、そうすればあなたは悪い死を味わうことはない。荒れ果てた人生の、悲惨な終わりを迎えた強盗殺人犯が、主の前に悔い改めて御国に入るという、恩寵が流れ出ているからです。人は死に臨んで、何が最も必要かということがここで判然とします。生きている時も、死ぬ時も等しくわたしたちを支え、慰めてくれるものは何かという問いに、答が現れ出ます。人は死ぬとき、身にまとって来た全てのものを手放さざるを得なくされます。しかし、その時に人を守るものが、キリストその方です。それは決して只死ぬ終わりの時だけではありません。人から真の自由を奪いながら纏(まとい)い付く手枷足枷が、偶像の本体であり、それからの解放こそが救いです。そういう意味で私たちの毎日は、その度に魂の出エジプトの経験の繰り返しです。そうだとすれば、使徒が口にした「日々死ぬ」(コリントの信徒への手紙一、15章31節)という生活の恵みも浮かび上がるでしょう。

 一緒に十字架に付けられた犯罪人の「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」という願いが、主イエスによって「今日‥‥楽園(パラダイス)にいる」という断言で答えられます。多くの人が、主イエスについてとんでもない誤解をし、仲間の犯罪人も嘲(あざけ)る者たちの側に立つ中で、何がこの犯罪人を主イエスについての正しい理解に至らせたのでしょうか。彼は確かにあの「来て見なさい。そうすれば分かる」に正しく立ったのでしょう。どんな時も主イエスを見上げれば、人は正しい自分を取り戻します。多くの人が、救われる為に何が必要か、について生涯を費やしても、答を持てないという、間違った見方に明け暮れて、結局自らを失ってゆきます。そういう中で、この人は、生きる価値を失った最後の一瞬に、それを見出したのです。それはまた主イエスの十字架を、自分の小さな十字架を担いながら見上げるという、主イエスの教えに従うことでもありました(マルコによる福音書8章34節)。さらにここに、全く立場が違う人と人が、完全に理解し合うと言うことが罪に荒(すさ)んだ世界に「御国」が始まっている、とも言えるでしょう。絶望でしかない罪人が、自分を預けることの出来るお方と出会うことは、既にそこが「楽園」です。主イエスその方にとっても、罪の裁きの恐ろしい深み、すなわち人と御父に「捨てられる」孤独の闇の中で、御自分の苦しみの意味を完全に理解した極悪人がいるということは、十字架という弱さと敗北の極みが、既に完全な勝利としての「楽園」の事態だ、と言えます。「更にわたしは、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意を整えて、神のもとを離れ、天から下って来るのを見た。そのとき、わたしは玉座から語りかける大きな声を聞いた。『見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。』」(ヨハネの黙示録21章2~4節)

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