2016年8月月報より
自然と人間 牧師 多田 滉
今年の日曜学校の夏期学校は、二日目に犬山市が丘陵地を拓いた公園に場所を移して、子供達は其処に設営された様々な遊具に打ち興じました。彼らが元気な声を上げて遊ぶ様子を、ベンチに腰掛けて眺める周囲の木立の中で、時折ホトトギスの囀りが聞こえていました。体温が低い鳥であるため自分では抱卵せずに、ウグイスやホオジロといった、自分よりは遥かに小さい小鳥の巣に、ちゃっかり卵を産んで托卵する、と言われるこの鳥です。彼らは絶滅が危惧される種としてレッドデータブックに載らずに済んでいるのだろうか、などという心配が胸をよぎる思いで、万葉の時代から日本人に愛されてきた季節感溢れるこの鳥のことを考えました。
地球上から姿を消す生物の勢いが止まらない、と言われます。動植物の消長は、勿論人の手の加わらない自然環境でも、自然に淘汰される種があることは、当然です。テレビの番組が「明治神宮」造営一〇〇年を機に、生物のあらゆる部門についての学術調査が行われた記録を放映しています。一〇〇年前、自然世界の動向を熟知した学者たちによって、時の総理大臣の杉の木で覆う聖域造りの指示に強く異が唱えられて、針葉樹と広葉樹を国中の民間から広く寄贈を受けて植樹をした後は一切人の手を加えずに自然に任せる案が採用された、と言われます。植物の生態学に通じる学者たちに、結局は委ねた当時の首相の雅量が、今日の政治のトップにはあるでしょうか。それはそうとして、造営一〇〇年後の調査で、植樹当時の学者たちの予想を越えた速さで、大東京の只中に、動物で言えば猛禽類のオオタカを頂点とする見事な食物連鎖を含む一大自然の森が出来上がっていることが判明した、という報告でした。
其処では、確かに自然淘汰によって、動植物の種の更新が行われています。しかし、強い種に負けて消えたように見える種も、全く消滅し、絶滅して果てたのではなく、何かの機会に再生し、繁栄を再現できる可能性を含んで、植物で言えば地中に種子の形で待機しているのです。何かの機会に、目に見える形で勢力を盛り返すことが可能です。自然は、常にそういう更新を繰り返しながら、全体として強靱な生命力を維持し続けている訳です。
しかし、其処に人間の自然開発の手が入ると、それまで種の更新を進める循環の輪の何処かが傷つけられてしまう。其処で生じる「絶滅」は絶望的です。ホトトギスなど、カッコウ科の鳥たちが托卵という方法で、自分たちの種を続けることを何処で覚えたのか、全くもって不思議なことですが、彼らの卵を託す小鳥たちがいる限り、彼らの種の存続は強靱です。しかし、そういう相手がいなくなれば、存続は極めてひ弱さを露呈することになります。「被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます。」(ローマ八・一九)という使徒パウロの言葉は、この自然界の生命力の強靱さとひ弱さの秘密を、創造主なる神の御旨を託す人類への期待との関わりから、見事に言い表していると思います。
私たち人類は、近代化によって自然界を自分たちの生命維持の為に利用出来る対象として見続けて来、私たち自身が自然界に命を託された神による創造の輪につながっていることを無視しがちにして来ました。「日本列島改造論」から「ふるさと創生」に到る掛け声は、一貫して里山を崩し、田舎を都市化することで、自然の生命力の輪をずたずたに切り離す結果をもたらしました。しかし、それは結局自分たちの生命そのものを切り刻むことに過ぎませんでした。今、世界を揺るがすテロリズムから、人間性を蝕(むしば)むヘイトスピーチに到る迄、自然世界の尊厳と優しさから離れて傲慢化する人間は、自身が死の使いに成り果てるだけで、生きることが出来なくなる、という警告現象に思えてならないのです。