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1月22日説教

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聖 書 ヨハネによる福音書3章13~21節
説 教 「独り子を与えるほどの神の愛」

 「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(16節)

 主イエスは、ユダヤ人の指導者ニコデモに、「人は、新たに生まれ」る必要があるとお教えになりました。その理由として、この世に神の愛が注がれている事実を断言されます。それも漠然とした善意や好感程度のものではなく、その独り子を与えるほどの深刻な愛である、と言われます。愛は自分自身を与える以上に、たった一人の子を与えることの方がその犠牲は深いことを思うなら、その「深刻さ」が心に浸みます。私たちの国はこの事を「子を思う親の心は闇、惑い」と言い慣わしてきました。無論それは人の心であって、神の御子を思う心とは違ます。神が御子を思う心には闇や惑いは一切ないものの、子を与えられるにあたって犠牲は、神と人との違いを超えて、より一層深刻さを増しこそすれ、決して軽くするものではありません。御子を信じる時に、神の愛が信じる者に「どれほど」に深く振り向けられるかを知らずには済みません。「御父がどれほどわたしたちを愛してくださるか、考えなさい。それは、わたしたちが神の子と呼ばれるほどで、事実また、そのとおりです。世がわたしたちを知らないのは、御父を知らなかったからです。」(ヨハネの手紙一、3章1節)。それが、不足を嘆きがちな、あらゆる困難や窮乏に見舞われる状況下で、事態を乗り越える力となることを確信させます。「わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。」(ローマの信徒への手紙8章32節)。

 主イエスは、「光」として上から降って来られました。それによって私たちは「闇」の中に居たことを知らされました。何故なら「世」は「光より闇の方を好んだ」、「光を憎み」、「光の方に来ないから」です。それが依然としてこの「世」の現状を的確に言い当てています。降って来られた主を「世」は十字架に上げたことが、その言い逃れ出来ない事実です。このことをこの福音書は冒頭で、まことに的確に言い現しています。「言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。」(1章11、12節)。正に「光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」(同5節)と言われる通りです。闇の世界に天から下って来た光として、主イエス・キリストは私たちの心の闇にも、場所を定めて共に居て下さいます。それを受け容れ信じた者には、救いとしての永遠の命を与えて下さいます。「永遠の命」とは、まことの意味で「生きる」ことをさします。「死」は命から永遠性を奪うもとです。「世」の命は「死」の影響を受けているので、生きる価値を見失ったり欠けや損失を余儀なくされたりして、「なんという空しさ、なんという空しさ、すべては空しい。‥‥わたしは太陽の下に起こることをすべて見極めたが、見よ、どれもみな空しく、風を追うようなことであった。」(コヘレトの言葉1章2、14節)、と言わざるを得ないことになります。

 しかし、神はこの挙げられたお方を仰ぐ者を「真理を行う者」、「光に来る」者とお認めになります。十字架の主は、御自分を「モーセが荒れ野で蛇を上げたように」(民数記21章9節)呪われた姿を引き受けられます。不遜の極みとして罪人が「上げ」たお方を、神は栄光の内に引き「上げ」給い、これを仰ぐ者に真理に生きる道を開いて下さいます。依然としてニコデモのように、光の主に興味は持っても、心の底では「光よりは闇を好」み、「光の方に来ない」世が拡がっています。それは「その行いが悪い」し、「その行いが明るみに出されるのを恐れる」からだ、と主が言われます。しかし、このような世の只中にあって、呪われた蛇としてあげられた御子を、自分に下されるべき呪いを引き受けて下さる救い主として信じて立つ者が信仰者です。こういう世に、依然として独り子を与える程の愛が、「新しく生まれる者」を起こし続け、「真理を行う者」としています。「あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」(ヨハネによる福音書8章32節)。「真理とは何か。」(18章38節)と。肝心な所で無知ぶりを露わにするのが、神から権力を奪い取る世の権力者であり、教養と知識の誇りに生きようとするニコデモのような人々です。「武力によらず、権力によらず、ただわが霊によって、と万軍の主は言われる。」(ゼカリヤ書4章6節)。光として闇の世に来られたお方は、 今尚「畑に宝が隠されている」ようにして「世」に居られます。「見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。」(マタイによる福音書13章44節)、と譬えられます。光に来て、真理を行う者となるように、「その行いが神に導かれてなされ」る者に加えられましょう。

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