1月8日説教
左下をクリックして説教をお聞きください。
聖 書 フィリピの信徒への手紙3章1~11節
説 教 「キリストの故に」
「しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。‥‥キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、‥‥」(7、8b節)
「キリストの故に」という言葉は、パウロが如何に深くキリストの恩恵によって変えられて来たかを示すものです。それは人格的に深く影響を受ける、と言った程度のものではなく、根底から変えられることを言います。人格的影響くらいなら、あのニコデモも理解したでしょう。それはニコデモにお仰せになった主イエスの御言葉に、良く現れていました。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。」「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」(ヨハネによる福音書3章3、5節)。ニコデモに於いても、此処でパウロが相手としているユダヤ人でも、どのように聖書に精通したとしても、キリストと出会わなければ、そういう人々はパウロが言う「あの犬ども」とか、「切り傷にすぎない割礼を持つ者たち」という類の人に過ぎなくなるからです。パウロがこのように口を極めて厳しい言い方で言うのは、パウロ自身がかつてはキリストなしで、聖書を読み教える立場に居て、その結果キリストを十字架に押しやった、という言わば臍を噛む思いに駆られるからでしょう。処が実は聖書は、正にキリストを目指しキリストを証ししている、と言うのが主イエス御自身の指摘でした。「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。」(ヨハネによる福音書5章39節)。パウロにせよ、ニコデモにせよ、いわゆる「論語読みの論語知らず」、つまり「聖書読みの聖書知らず」に陥って居たのです。
こういう風に言うパウロには、パウロ自身の激しいばかりのキリストとの出会いの経験が裏打ちされています。その出会いで、かつては「わたしにとって有利であったもの」のすべてが、キリストを知ることを妨げていたことに気付かされる。彼はそれら「一切を損失」「塵あくた」と見做さざるを得なくなった、と言うのです。比べようもない高価な真珠を見つけた宝石商が、それまでに集めてた来た全ての宝石の輝きが急に色褪せて見える、という譬えを主イエスもお語りになりました(マタイによる福音書13章46節)。別の処でパウロが言う「完全なものが来たときには、部分的なものは廃れよう。幼子だったとき、わたしは幼子のように話し、幼子のように思い、幼子のように考えていた。成人した今、幼子のことを棄てた。」(コリントの信徒への手紙一、13章10、11節)、と言う言い方となっても来る動きです。古いものが古いから捨てる、と言うのではなく新しい者の新しさに圧倒されて、気がついたら古いものをあれほど堅く握りしめていた手が何時の間にか緩み、新しいものを喜んで手に入れていた、ということです。私たちが与えられている信仰の喜びの特徴です。この世界には素晴らしいものが一杯ある、と言う期待で人は生きています。しかし、それは神の国の素晴らしさに比べれば何ほどのこともない、人が福音に心引かれないとすれば、その内容を少しも味わったことがないからに過ぎません。パウロの言葉には、真に価値あるものを見出した喜びに突き動かされた様子が漲(みなぎ)っています。
そういう価値を見出した人は強いと言わねばなりません。「キリストのゆえに、わたしは全てを失いましたが」という言葉をパウロは喜びをもって言い放っています。そこにはこういう言い方にみられる口惜しさや、恨みがましい思いは微塵もありません。それは失った全てが、喪失ではなく深い意味で再び新しい意味を帯びて獲得とされてくる、ということがあるからでしょう。それが「自分の義ではなく、信仰による‥‥神から与えられる義」ということの意味です。「義」という聖書に言う概念に私たちは、多くの戸惑いを覚えるかも知れません。聖書神学では、それを厳密に定義付ける努力が繰り返されてきました。しかし端的に言って、「義」というのは人が生きる確かさを言おうとしている、と言えます。預言者が「信じなければ、あなたがたは確かにされない。」(イザヤ書7章9節)と言う時の「確かさ」です。それは弱さの極みにあって、なお何ものによっても揺るぎない強さを得る、そういう信仰体験で知る「確かさ」です。それは又、主イエスの教えられた神の国の豊かさに通じる体験にも通じます。キリストの前に自分をすっかり明け渡し、委ね切った時与えられて来る確かさとしての「義」です。多くの所有物に囲まれ乍ら、不平不満だらけの私たちです。キリストが来たり給い、私の救いのために全てを捨てて下さった愛を示されます。それに動かされて、私たちも「主イエス御自身が『受けるよりは与える方が幸いである』と言われた言葉を思い出す」(使徒言行録20章35節)のです。そういう生き方を始める時の豊かさの体験にも通じます。ですから主はこうも言われます。「与えなさい。そうすれば、あなたがたにも与えられる。押し入れ、揺すり入れ、あふれるほどに量りをよくして、ふところに入れてもらえる。」(ルカによる福音書6章38節)。