1月1日説教
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聖 書 ヨハネによる福音書3章1~12節
説 教 「新たに生まれること」
「イエスは答えて言われた。『はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。』」(3節)
ユダヤ人の間で、最高の教養人であり、影響力もあるニコデモという人が、主イエスと対話しに来ました。主イエスに恐らく興味以上の思いを寄せる彼は、弟子の集団に見え隠れするようにヨハネ福音書には登場してくる男でした。「彼ら(議員やファリサイ派の人々)の中の一人で、以前イエスを訪ねたことのあるニコデモが言った。『我々の律法によれば、まず本人から事情を聞き、何をしたかを確かめたうえでなければ、判決を下してはならないことになっているではないか。』」(ヨハネによる福音書7章50、51節)。又、十字架で絶命された主の遺体をアリマタヤ出身のヨセフが埋葬する時に、「そこへ、かつてある夜、イエスのもとに来たことのあるニコデモも、没薬と沈香を混ぜた物を百リトラばかり持って来た。」(同19章39節)。しかも多くの人の指導者として、人々に知られていたニコデモは、そういう人々の尊敬を失うことを恐れて、信仰を公に言い表すことから尻込むのです。この世から受ける評価を失うことを恐れるニコデモは、人目を忍ぶかのように、密かに夜の時を選んでやって来たのです。そういう意味では、彼は多くの知識によって啓蒙された現代人を代表するような人物だった、と言えるでしょう。こういう人は、「‥‥わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。」(フィリピの信徒への手紙3章8節)というような真の価値観を持ち合わせていません。
このような彼に対して、主は「はっきり言っておく」、とアーメンを二度繰りかえし力を込めて、人に必要な「新しく生まれる」ことを教えられるのです。それはユダヤ人の教師であるニコデモの、最高の知性でさえ知り得なかった知識というべきものでした。つまり人には「母親の胎」から生まれる肉だけの状態では、決して知ることの出来ない知識がある、ということになります。真実の人は肉と霊を備えた者たちです。そして人は「霊から生まれたもの」として、霊の命を必要とするからです。聖書に精通した筈のファリサイ派の学者ニコデモも、読んでいた筈の聖書(旧約聖書)から読み取れなかった聖書真理です。「わたしが清い水をお前たちの上に振りかけるとき、お前たちは清められる。わたしはお前たちを、すべての汚れとすべての偶像から清める。わたしはお前たちに新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊を置く。わたしはお前たちの体から石の心を取り除き、肉の心を与える。」(エゼキエル書36章26節)。ニコデモと同じようなファリサイ派の学者だったパウロも、死人の中から復活された主に出会って使徒とされて、初めて信仰によって義とされるという教えを、旧約聖書に既に書かれていたことを読み取ります(創世記15章6節、ハバクク書2章4節・口語訳)。それらは「新しく生まれる」ことがなければ、見えてこない真理だからです。
誰でも生きる願いで初めながら、結局は死で終わる人生です。「水と霊によって生まれ」ることを教えた主イエスによって初めて人は本当に「生きる」ことが出来、主はそれを「神の国を見る」ことだ、とお教えになります。この世に生きながら「神の国を見る」生活です。死後の世界を生きることだけではなく、今生きていて決して失われることのない生き方を得ることです。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。」と主は、再度アーメンを繰り返しながら、強く教えられます。「水」とは「死」、「霊」は「命」のことだ、とある人は言いました。十字架に死なれた主に合わせられ、復活の命に与って生かされること、それが「水と霊によって生まれる」ことです。既にガリラヤのカナで、主イエスが最初のしるしをもって栄光を顕された出来事をこの福音書は記録しています。人の霊によって生まれる人生は、水がぶどう酒に変わる奇跡に準(なぞら)えることが出来る、という教えを含んでいたとも受け止めることが出来ます(ヨハネ福音書2章9、11節)。誰もが命を寿ぐ元旦が主の日と重なったこの年の始めです。私たちはただ肉に過ぎない命を愛(め)でるだけならば、それは詮無(せんな)いことです。十字架の死によって新たにされる、という霊の命を与えられていることを、感謝と共に覚えたいと思います。それには私たちが今日から始まるこの年の一日一日を、しっかりと主に結ばれる歩みをすることから始める以外の何ものでもありません。「キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。」(コリントの信徒への手紙二、5章17節)。