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1月15日説教

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聖 書 サムエル記上 5章1~6章4節
説 教 「逆転する神の主権」

 「イスラエルの神の箱を送り返そう。元の所に戻ってもらおう。そうすれば、わたしとわたしの民は殺されはしないだろう。」(11節)

 イスラエル軍に勝って、神の箱を奪い取ったペリシテ人は、イスラエルの神をも完全に手中に収めたと、その勝利に酔いしれたかも知れません。イスラエルの方も、彼らは完敗して落胆の叫びを上げざるを得なかったのでした。「栄光はイスラエルを去った。神の箱が奪われた。」(4章22節)。「神の箱」は神がイスラエルと共におられるという臨在のしるしでしたから、その神御自身が敗北したといってよいほどの衝撃的な出来事だった、と言えます。しかしながら、その聖書の神は敗北から逆転してその主権を独自にお表しになります。神は決して機械仕掛けの強さではなく、自ら身を低くし、敗北することが出来る、そういう意味での真の命の神です。サムエルを宿すことになったハンナは、長い間苦しんだ自分の閉ざされた胎の解放を喜び、感謝の讃歌の祈りで歌いました。「主は命を絶ち、また命を与え、陰府に下し、また引き上げてくださる。主は貧しくし、また富ませ、低くし、また高めてくださる。弱い者を塵の中から立ち上がらせ/貧しい者を芥の中から高く上げ/高貴な者と共に座に着かせ/栄光の座を嗣業としてお与えになる。大地のもろもろの柱は主のもの/主は世界をそれらの上に据えられた。」(サムエル記上2章6~7)。そうなさるのは、神自らが命を絶ち、与え、陰府に下り、引き上げて来、貧しくなり、又富むことの出来る神であり給うお方だからです。

 ペリシテ人は彼らの神ダゴンの彫像の横に、イスラエルの「神の箱」を置いて、ダゴンの力の一部として用いようとしました。彼らは、万軍の主なる神を自分たちのダゴン神の偶像に加えて、その御力を自分たちに有利に用いることが出来ると考えていたのでしょう阿。主なる神の特有の性格と力を噂で知るだけで、真に理解してはいませんでした。「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。あなたはいかなる像も造ってはならない。上は天にあり、下は地にあり、また地の下の水の中にある、いかなるものの形も造ってはならない。あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない。わたしは主、あなたの神。わたしは熱情の神である。‥‥あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。みだりにその名を唱える者を主は罰せずにはおかれない。」(出エジプト記20章3~6節)。このように御自身の尊厳を示す神は、御自分を敵の手中に投じることも出来るが、そこでもその威厳を放棄なさらずに却って、以前にも増して顕し給う神です。「神の箱」をダゴンの偶像の傍らにペリシテが取り込んだ翌朝と翌々朝、彼らは倒壊して頭と両手を失った自分たちの彫像を見せつけられることになります。全世界の主なる神の前に、ダゴンは無力で空っぽの、考える頭も、行動する手も無いことが明らかになってしまうのでした。御自分の独り子を十字架に死なせる程に、一見無力となった神が、その主権において形勢を逆転して復活して勝利し給う神は、それによって御自分を裁く者を裁き抜かれる神です。だからこそこう言われます。「神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです。それは、だれ一人、神の前で誇ることがないようにするためです。」(コリントの信徒への手紙一、1章27~29節)。

 出エジプトとは真逆な物語として始まったこの出来事でした。ここで真の神は、頑健なペリシテと弱小なイスラエルの民の間で、どちらにも組みしない主権を顕され、結果として出エジプトと同じ神であることを表されます。「主の御手はアシュドドの人々の上に重くのしかかり、災害をもたらした。主はアシュドドとその周辺の人々を打って、はれ物を生じさせられた。」(6節)は、「『それはエジプト全土を覆う細かい塵となって、エジプト全土の人と家畜に降りかかり、膿の出るはれ物となるであろう。』二人はかまどのすすを取ってファラオの前に立ち、モーセがそれを天に向かってまき散らした。すると、膿の出るはれ物が人と家畜に生じた。」(出エジプト記9章9、10節)、という記事を思い出させます。さらには、「翌朝、早く起きてみると」(4節)は、「週の初めの日の明け方早く、‥‥墓」で(マルコによる福音書16章2節の)主イエスの復活の出来事を思い出す、とさえある人は言います。「わたしの手は短すぎて贖うことができず、わたしには救い出す力がないというのか。見よ、わたしが叱咤すれば海は干上がり、大河も荒れ野に変わる。水は涸れ、魚は異臭を放ち、渇きのために死ぬ。」(イザヤ書50章2節)。敗北することも出来る神は、私たちの弱さを思い遣ることの出来ない神ではないのです(ヘブライ人への手紙4章15節)。

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