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2月5日説教

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聖 書 サムエル記上6章4~16節
説 教 「主御自身が行動される」

 「主の箱を車に載せ、賠償の献げ物として主に返す金の品物を箱に入れ、傍らに置きなさい。それを送り出し、行くがままにしなさい。」(8節)

 「主の箱」をイスラエル軍に勝利して、ペリシテ軍は戦利品のように持ち帰りました。そして彼らの神殿のダゴン像の横に据えたのは、彼らの宗教的な力を増強する積もりだったのでしょう。しかし、彼らはイスラエルの神を小さく見積もり、見くびっていました。思惑ははずれ、ダゴンの偶像が脆くも崩れ落ちたのを初めとして、数々の禍が生じることになり、ペリシテは恐怖に駆られました。そして丁重に送り返さざるを得なくなりました。贖いの献げ物として、「金のはれ物」と「金のねずみ」をペリシテの領主の数に合わせて用意したのは、全てのペリシテの都市が全面的に敬意を示すためであり、「金」にこだわったのは最高の贈り物にしなければならないと彼らが考えたからでしょう。出エジプトの時、「あなたは、民に告げ、男も女もそれぞれ隣人から金銀の装飾品を求めさせるがよい。」(出エジプト記11章2節)、と神がモーセに命じられたことが思い出されます。

 同時に彼らは「主の箱」を「送り出し、行くがままにし」ました。祟(たた)り物を扱うかのように投げ出したのでしょうか。ある解説者は、彼らはまるで核廃棄物を処理するように、「主の箱」を扱った、と説明しています。そして、その箱を雌牛に引かせて、行くままにさせたのは、牛が方向を見失い迷うようなことになれば、禍はなにかの偶然だったと結論付けて安心したいためだった、と聖書は語ります。しかし、イスラエルの神には案内人の必要はなく、物にも人にも担われることをしないばかりか、逆に全てを担って導かれるお方です。「わたしに聞け、ヤコブの家よ、イスラエルの家の残りの者よ、共に。あなたたちは生まれた時から負われ、胎を出た時から担われてきた。同じように、わたしはあなたたちの老いる日まで、白髪になるまで、背負って行こう。わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す。」(イザヤ書46章3、4節)。箱を乗せた車を引く雌牛は「一筋の広い道をまっすぐに進んで‥‥右にも左にもそれ」ずに、目標地のベト・シェメシュに向かった、と言われます。これ又神がエジプトの奴隷から自由の民へとイスラエルをまっすぐに導き出されたことを思い出させる出来事です。真にイスラエルの神は生ける神であり、全てのことを「御言葉によって行う」人格神であります。もの言わず、呼べど叫べど動かないバール神とは違って、大地を潤す雨を止めて旱魃(かんばつ)を起こし、又エリヤの祈りに応えて献げ物を火で焼き尽くし、再び雨を降らせるお方です(列王記上18章33~38節)。

 出エジプトの大いなる業で勝利された神は、それと真逆にこの一連の出来事では敗れて、ひとたびペリシテの手に落ち給いました。しかし、神は不思議にも敗れることも出来る、という意味でその全能の御力を発揮されます。神は御自身独自に行動されて、この場合も出エジプトを導いたのと同じ神であることが明らかになるからです(出エジプト記12章31~33節)。ずっと後に人となり給うた神であり主イエス・キリストが「だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる。わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。これは、わたしが父から受けた掟である。」と言われた通りです(ヨハネによる福音書10章18節)。この独自に行動される神に導かれ、従う信仰者の実りとして、信仰の独自の領域をこの世界の中に確保するのは、わたしたちの務めです。それによって、いわゆる「信教の自由」や「政教分離」などの原則に立つ社会生活を確立する為の戦いを進める近代社会の背後に、生ける神が歴史を導いて居られる、と言うことが出来ます。

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