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2月19日説教

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聖 書 フィリピの信徒への手紙3章17~21節
説 教 「皆共にわたしに倣え」

 「兄弟たち、皆一緒にわたしに倣う者となりなさい。また、あなたがたと同じように、わたしたちを模範として歩んでいる人々に目を向けなさい。」(17節)

 「わたしに倣う者になりなさい」という勧めが、パウロの伝道の底流に流れ続けていました。宿願のローマ行きが叶うことになる一連の裁きの場で、アグリッパ王がパウロの理を尽くした弁明を聴いて、「短い時間でわたしを説き伏せて、キリスト信者にしてしまうつもりか。」と叫ぶように言うのに答えて、パウロが「短い時間であろうと長い時間であろうと、王ばかりでなく、今日この話を聞いてくださるすべての方が、私のようになってくださることを神に祈ります。このように鎖につながれることは別ですが。」(使徒言行録26章28、29節)、と言っています。このパウロの、ユーモアさえ交える答え振りに、彼がキリストと出会いその救いに与って、どんなに深く魂の底から喜びに溢れていたかを示している、と言えます。皆が自分のようになって欲しいと言う思いは、それが独善的な満足から出ていれば、これほど身勝手な押しつけとしての答ということになるでしょう。しかし、パウロの場合は主イエスが仰せになったあの御言葉に基づいていて、極めて健康な真実みに溢れています。つまりその主イエスの御言葉は、「御自分を信じたユダヤ人たちに言われた。『わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」(ヨハネによる福音書8章31、32節)というものです。人は愛する者と交わっている内に、何時の間にか似てきます。又学ぶことは真(ま)似(ね)ぶことから始まる、とも言われます。そういう経過の中でキリストを信じることから来る自由が、私たちを学ぶ喜びに駆り立てて止みません。「兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。」(ガラテヤの信徒への手紙5章13節)。

 それは同時に、キリストに背を向けて生きる人々への悲しみ嘆きを深めます。「戒律に縛られ‥‥肉の欲望を満足させるだけの」生き方(コロサイの信徒への手紙2章21、23節)は、律法の義を得ようとして、結局「神に仕えることはむなしい。たとえ、その戒めを守っても‥‥何の益があろうか」(マラキ書3章14節)、という思いに落ちて行かざるを得ないからです。旧約聖書の最後に位置するマラキ書の中に、こういう言葉が残されているのは、極めて意味深いことです。律法の要求に応えることで、自分の義を確立して神の祝福を得ようとする生活が如何に虚しいか、という結論に至らざるを得ないからです。焦(あせ)る思いで自己追求に明け暮れる生き方を、パウロは「キリストの十字架に敵対して歩んでいる者」と断じます。パウロ自身、かつてはそういう生き方に没頭していました。しかし、キリストがそのような中から救い出して下さった恵みの喜びと有り難さを思えば、彼らについて、結局は義とされることを求めて自分の行いに頼り、益々傲慢になって行く有様を振り返れば、そういう生き方をいまだに続けている人々について「涙ながらに」語らずにいられません。「彼らの行き着くところは滅びです。彼らは腹を神とし、恥ずべきものを誇りとし、この世のことしか考えていません。」(19節)。 これまたパウロを伝道者としての生き方に駆り立てる動機になります。

 「皆一緒にわたしに倣う者となりなさい」という呼び掛けは、「わたしたちの本国は天にあります」という希望の呼びかけです。この世界では、敵対者は勿論ですが、同信の友の間でさえしばしば隙間風が吹く孤立感が憑(つ)き纏(まとい)いがちです。しかし、キリストが開いて下さった「本国は天に」という場所では、心と心に真実の共感が行き交います。その典型的なものとして挙げることが出来るのは、一緒に十字架に架けられた犯罪人の一人と主イエスの遣り取りです。彼は、自分の犯した数々の罪の当然の報いとして、刑死を当然と受け止めながら、主イエスには逆理そのものとして、罪の無い十字架を目(ま)の当たりにして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った時、主イエスその方は「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」(ルカによる福音書23章24節)と宣言されました。こういう共感を、この世の感覚からすれば、儚(はかな)いものの代表のように受け止めるかも知れません。なる程考えて見れば、それは「今また涙ながらに言いますが、キリストの十字架に敵対して歩んでいる者が多い」(18節)の特徴でしょう。しかしこの世の歩みを自分の小さな十字架を負って従う者には、その労苦に満ちて忍耐が要求される歩みながら、それは消え去ることのない「天」を共有する瞬間です。儚い一瞬のように見えて、限りない慰めと希望が吹き出して尽きない出来事です。十字架を担いつつ神の子と共感し合う魂には、確かに既に「今日、楽園にいる」という言葉が語り出されます。実にパウロが「皆一緒に‥‥」とは言って招くことに通じている、と言えます。私たちもまた同じように、「希望を持たず、神を知らずに生きて」いる(エフェソの信徒への手紙2章12 節)世界に向かって、「私に倣う者となりなさい」と言えるほど、喜びと希望に溢れて生きようではありませんか。

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