2月12日説教
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聖 書 ヨハネによる福音書3章22~30節
説 教 「天から与えられなければ」
「ヨハネは答えて言った。『天から与えられなければ、人は何も受けることができない。‥‥』」(27節)
人は「新たに、‥‥水と霊によって生まれなければならない」(3章3、5節)と主イエスが教えられました。それを具体的に、又典型的に表すのが、このお方のヨハネから受けられた洗礼です。「ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられ‥‥水の中から上がるとすぐ、天が裂けて“霊”が鳩のように降っ」たと言われます(マルコによる福音書1章9、10)。主イエスの洗礼は、私たち全ての罪ある者たちの為に十字架を負って死に、復活し給う御生涯の始まりを意味します。それ故に水に身を浸されることは「死」を意味し、「霊」を注がれることは、「水(死)の中から上がる」ことによって、新しい復活の命に生きる、ということを意味します。正に人は「水と霊によって」主イエスに合わせられ、新たに生まれる、と言うことが出来るのです。主イエスがここでお教えになっておられることが、既に主イエス御自身の受けられた洗礼に、それ程はっきり示されている、と言うことになります。
主イエスの宣教が始められ、「ユダヤ地方に行って、そこに滞在し、洗礼を授けておられた」後も、ヨハネは「水の豊か」なアイノンで洗礼を授け続けました。「ところがヨハネの弟子たちと、あるユダヤ人との間で、清めのことで論争が起こった」と言われます。「水」という地から出て、地の属するものの豊富さが、却って論争の元になる、というのは極めて示唆的です。それはパンの有る無しが誘惑になったり(マタイによる福音書4章3節)、「あなたがたは地上に富を積んではならない。そこでは、虫が食ったり、さび付いたりするし、また、盗人が忍び込んで盗み出したりする。」(同6章19節)と、戒められなければならない事態となるわけです。確かに人は「天から与えられなければ」本当の意味で生きることは出来ません。何故なら、「 主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。」(創世記2章7節)とあるからです。更に、具体的にイスラエルの民がエジプトから脱出後、シナイの荒れ野を彷徨(さまよい)飢えた時に、天から降ったマンナによって養われ、「これこそ、主があなたたちに食物として与えられたパンである。」(出エジプト記16章15節)。確かに、「天から与えられなければ、人は何も受けることができない。」と言われる真理が、具体的、又典型的な範例によって教えられています。
地から出るものが論争を引き起こす一方で、人は上から来るものによって謙りを知る、と言うべきでしょう。天から降って来られたお方から「霊」を吹き込まれて生きる時、人は安んじて自分が土から造られ土に帰る塵であることを弁えるからです。「お前は顔に汗を流してパンを得る、土に返るときまで。お前がそこから取られた土に。塵にすぎないお前は塵に返る。」(創世記3章19節)。そしてこの謙遜こそ、喜びの源です。ヨハネは「わたしは喜びで満たされている。あの方は栄え、わたしは衰えねばならない。」(29、30節)と言いました。なる程人が「天から与えられなければ」知ることの出来ない喜びです。しかも、こういう「喜びをあなたがたから奪い去る者はいない」(ヨハネによる福音書16章22節)、という確かさを知るべきです。そして「天から与えられなければ」、私たちは「土に帰る」だけで、行きつく先は闇の中ということになります。「イエスは答えて言われた。『はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。』」(3章3節)、という教えが確認されます。しかし、上からのものによって生かされる時、私たちは後から来るものが良い、という真実で純粋な希望の光に輝いて、喜びに満たされます。「『わたしの後から一人の人が来られる。その方はわたしにまさる。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。」(1章30節)。「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました。」(2章10節)。