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3月26日説教

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聖 書 ヨハネによる福音書4章11~15節
説 教 「人の内で泉となる水」

 「イエスは答えて言われた。『この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。』」(13、14節)
                                                
多田 滉 牧師ご退職、礼拝後に花束が贈られました。

 飲めば渇く井戸水でなく、人は内側から湧き出て尽きない泉に潤ってこそ生きるのだ、という主イエスの教えです。そのために人は主との対話に招かれます。しかも御自身が旅に疲れ、「渇く」人(7節)として、一杯の水を所望されます。この出来事を記したヨハネによる福音書は、それが「正午ごろのこと」(6節)だったと書きます。この時からずっと後、主イエスの十字架が「それは過越祭の準備の日の、正午ごろであった。‥‥」(19章14節)と書き、十字架に架けられながら「この後、イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、『渇く』と言われた。こうして、聖書の言葉が実現した。‥‥」(同19章28節)と記録します。サマリアのシカルの井戸辺での出来事も、既に十字架の陰を落とす中で起きたことを覚えさせようとするのでしょう。神の御子からの呼び掛けは、世に降って低い場所からなされる、と言われます。「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」(マタイによる福音書25章40節)。あるいは又人々を民族の分断する歴史を越えて、その狭間(はざま)から呼び懸け給うのです。「すると、サマリアの女は、『ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか』と言った。ユダヤ人はサマリア人とは交際しないからである。」(9節)。

 心に傷を隠し持つ女が、こうして神の御子との対話に引き込まれて行く様が見事に描き出されます。「軽蔑され、‥‥見捨てられ、多くの痛みを負」う(イザヤ書53章3節)主の呼び掛けに、女は自分の心の闇に穏やかな光が差し込むのを感じ始めたのでしょう。普通は早朝か夕刻かのいずれかに、村の共同井戸から水を汲むのがその辺りの女たちの習慣でした。当然の成り行きとして、そこでは屈託無い女たちの会話が、順番を待ちながら交わされていた筈です。この出来事の女性は、朝からも夕からも一番遠い「正午ごろ」に来たについては、よほどの理由があったと考えられます。低い処に落ちたような生活をしていた女は、何時も白い目で見られ、寄ると触ると口さがない女たちの噂の種にされていたのでしょう。しかし、誰にも会わないという想定は破れ、そこには主イエスがおられたのです。主から一杯の水を所望されて、彼女は断り気味の答を返します。それに対して、主は言われます、「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」人に会いたくないし、出来ることなら井戸に水汲みにさえ来たくない、そういう思いで一杯の女は、主イエスのお言葉によって、長らく忘れていた素直な求めを口にします。「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください。」(15節)。

 「渇く」ことに身を置かれる主は、ここで女の「渇き」の元であって、しかも彼女が最も触れられたく無かった点に心を留めて、それを指摘されます。「イエスが、「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい」(16節)。と指示された時、彼女の破綻した愛の生活が対話の中に浮かび上がります。しかも、これまでは、同じようなことになれば、必ず非難や指(し)弾(だん)を浴び、そうでなくても人々から白い目で見られ、避けられると言うのが常でした。それとは全く異なって、主イエスのお言葉は女は不思議な安(あん)堵(ど)と解放の中におかれているのを感じた筈です。正に対話が彼女が「神礼拝」のことを口にしたのは、直截な主イエスの指摘から話題を逸らす意図からだったのかも知れません。しかし、主は女の口に上ったこの話題の裏に隠れた真実を的確に捉えなさいます。主の御言葉によって、隠れていた罪の問題が明るみに出され、赦しという白日に晒される時、人は闇から光に変えられます。「実を結ばない暗闇の業に加わらないで、むしろ、それを明るみに出しなさい。彼らがひそかに行っているのは、口にするのも恥ずかしいことなのです。しかし、すべてのものは光にさらされて、明らかにされます。明らかにされるものはみな、光となるのです。それで、こう言われています。『眠りについている者、起きよ。死者の中から立ち上がれ。そうすれば、キリストはあなたを照らされる。』」(エフェソの信徒への手紙5章11~14節)。実にそここそが既に女にとって「まことの礼拝」の場になっていた、という事実を見落としてはなりません。私たち全てにとっても同じです。そこにこそ、「内から生きた水が川となって流れ出る」(ヨハネによる福音書7章37節、更に同19章34節参照)場所です。物質的な豊かさが窮(きわま)まる様な現代生活に、心と霊に「渇き」が深く進行しています。古く涸れたような「ヤコブの井戸」辺のようになっているかも知れない教会も、主イエスのみ言葉の対話に導き入れられるなら、主の大いなる約束が実現をし始めるに違いありません。「わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」(同38節)清冽(せいれつ)な永遠の水が湧き出なければなりません。

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