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3月12日説教

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聖 書 フィリピの信徒への手紙4章2~7節
説 教 「人知を超える神の平和」

 「そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。」(7節)

 「喜びなさい」、と繰り返すパウロの勧めは、獄中にありながら、囚人たちの心を「平和」にした事実に通じます。福音を宣教したことの咎めを受けて、投獄されたフィリピの牢獄の暗闇で、神を賛美し続けたパウロとシラスの歌に、同じ牢の囚人たちが耳を傾けて聴き入っていました。そこに大地震が起きて扉が開いてしまったのに、だれ一人逃げだす囚人がいなかった、と言われます。それほど彼らは二人の賛美の背後にあるパウロ、シラスの喜びに圧倒されたのでしょう(使徒言行録16章25~28節)。それは元々主イエスの「目の前に置かれている喜びのゆえに、恥をもいとわないで‥‥忍び」給うた十字架(ヘブライ人への手紙12章2節・口語訳)の恵みから出ている、と考えて良いでしょう。従って、あらゆる機会に祈り、感謝することで湧き出す「喜び」のために「”霊”の火を消してはいけません」(テサロニケの信徒への手紙一、5章16~1節9)という勧めがなされます。

 さらに「喜びなさい」という勧めの深く確かな根拠として、「主はすぐ近くにおられます」という事実を覚えるように、と言うことです。既に私たちの処に来て下さった神の御子です。「『見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』この名は、『神は我々と共におられる』という意味である。」(マタイのよる福音書1章23節)。「あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」(同28章20節)。地上での御生涯を、私たちと共にいてくださる、と言う約束を実現するために生きて下さった、とも言える主イエス御自身です。しかも、既に来て私たちと共に居て下さることが実現した後も、私たちは多くの難儀を免れません。そういう危機においては、わたしたちは主が時に直ぐにも来て下さるお方だ、と信じることも必要になってくる、という新たな状況があるわけです。このように、苦闘を続ける私たちを忍耐と希望に導いて、「涙と共に種を蒔く」としても、「喜びの歌と共に刈り入れる」時を信じる、「種の袋を背負い、泣きながら出て行った人は、束ねた穂を背負い、喜びの歌をうたいながら帰ってくる。」(詩編126篇5、6節)。そういう時が来るのを確信させて下さるのが、私たちの神である主イエス・キリストだ、ということです。

 こうして一切の信仰の歩みを貫いて、「あらゆる人知を超える神の平和」が心を支配します。実際に苦しい試練の只中で、そうでなければ到底耐えられる訳はないと自ら思われるような中でも、不思議に私たちの内側は「平和」が支配する、という有様を経験します。それで事実上私たちに押し寄せる心配事や思い煩いを閉め出すことが出来ます。危険な闇を潜り抜けるような時でも、神の平和が見張り番をする(出エジプト記12章42節)、と言われます。改めてあの「思い悩むな。空の鳥をよく見なさい。‥‥野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。‥‥」(マタイによる福音書6章25~28節)と教えられた主イエスの御言葉が心に浸みて来ます。このように、配慮と優しさに満ちた神の守りがあるので、私たちは勇んで、大胆に信仰の戦いに赴くことが出来るのです。思い悩みから解放され、人知を超えた神の平和に守られていることを確信する者には、逆に相応しい心配事を引き受ける意欲も湧くのです。従ってパウロは敢えて言います。「‥‥苦労し、骨折って、しばしば眠らずに過ごし、飢え渇き、しばしば食べずにおり、寒さに凍え、裸でいたこともありました。このほかにもまだあるが、その上に、日々わたしに迫るやっかい事、あらゆる教会についての心配事があります。だれかが弱っているなら、わたしは弱らないでいられるでしょうか。だれかがつまずくなら、わたしが心を燃やさないでいられるでしょうか。(コリントの信徒への手紙二、11章27~29節)。「人知を超える神の平和」を生きる信仰者の積極的な生き様です。

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