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4月14日(金)受難日祈祷会 イザヤ書第53章

「 それはいったい誰のことですか 」

聖書:イザヤ書第53章1~12

Cross ①イエス・キリストの受難を「覚える」とは

主のご受難が極まる十字架の金曜日を迎えました。そのことを覚えて共に御言葉に聞き、祈りを捧げる時を与えられ感謝を覚えます。みなさま、ようこそお出でくださいました。

福音書によれば、この金曜日の「昼の十二時に全地は暗くなり」、午後の「三時にイエスは息を引き取った」と記されています。そして夕方、アリマタヤのヨセフが勇気をだしてピラトに申し出て、イエス様のご遺体はかねて用意されていたお墓に葬られることとなりました。そこに居合わせたのは、ニコデモ、また母マリアとマグダラのマリアなどのわずかな人たちです。いったん、お墓の石は閉ざされ、すべてのことは終わったかのようでした。十字架刑を見物していた人々の喧騒もやみ、静かな夜がエルサレムに訪れたことでしょう。この夕べも、世の中の喧騒から遠ざかり、とても静かです。

この金曜日の夜に至るまで、木曜の深夜から始まった異例の秘密裁判は、またたくまの内に十字架刑の判決に至りました。その日のうちに刑が確定し執行されることは、当時のローマの法律に照らしても異例のことでした。ゲッセマネの園で逮捕されて十字架刑が執行されるまで、イエス様の周囲ではありとあらゆる苦しみと人間の罪が露わになっていきます。信じていた者たちの裏切りと孤独、周囲からの侮蔑の言葉、屈辱、暴力、うそつき、恫喝、支配者の無責任。十字架への道での、飢え、渇き。見送る人たちの嘆き、悲しみ、丘の上での釘づけの痛み。そして迫ってくる死の恐怖。木曜の夜から金曜日にかけての24時間にも満たないあいだに、人間が地上の生涯で味わうこともありうる、ありとあらゆる類の苦しみを、イエス・キリストはすべて引き受けて、息を引き取られました。

さてわたしたちは、受難週を覚えて歩んでまいりました。「覚えて」ということですから、イエス・キリストの十字架への歩みが、いったいどういったものなのか、思いを致すということです。では、とくにこの木曜日から金曜日にかけての苦しみの出来事をどのように覚えればよいのでしょうか。

一つに、追体験という言葉があります。視聴覚に訴えるメディアが発達した昨今、キリストの最後を描いた映画がいくつか世に出されてきました。こういったものは、人間の視聴覚に訴えて追体験を促すでしょう。わたしはメル・ギブソン監督の映画「パッション」を見たときの胸の深い痛みを思い起こします。とても激しい生々しい描写が続く映画でした。また演劇や音楽によって、キリストの苦難を描くものもあります。ドイツのある村では、数年に一度、村をあげて受難劇を行うと聞きます。あるいはバッハをはじめとする信仰的な作曲家の受難曲は、わたしたちの心の琴線にキリストの苦しみを訴えます。あの夜、なにが起きたのか、追体験するための、いくつかの仕方はあげられます。

キリストの受難の意味を深く問うていく。そのことが受難週、そして今夜の受難祈祷会の意義と言えます。わけても主なる神がわたしたちに与えたもう、もっとも相応しい仕方は、神ご自身の御言葉に聞きつつ、救い主の苦難の意味を問い続けることです。いったいイエス・キリストの苦しみとは何のために、誰のために起こされたことだったのか。それは、本来、自分のものであったということはないだろうか。イザヤ書第53章は、そのように語りかけてきます。

②「主の僕の苦難」はイエス・キリストの預言なのか

このイザヤ書第53章は、「主の僕」と言われた特定の人物の苦難の歩みについて語れられています。前後との文脈から考えると、バビロン捕囚から解放の頃に、じっさいに「主の僕」ともくされる人物が、苦難の道を歩んだようであるとも読み取ることができます。

イエス・キリストの十字架と復活のあと、ナザレのイエスをキリストとして信じる群れが起こされました。教会です。教会が歩み始めたとき、この「主の僕の苦難」はキリストの預言の成就として読まれ始めました。イザヤ書第53章の「主の僕」の克明な姿が、イエス・キリストの歩みそのものであると解釈され、そこから説教がなされていきました。

したがいまして、そういった解釈の伝統を経たキリストの教会において、いまやこの「主の僕の苦難」が、イエス・キリストの預言として読まれることに不自然さはないと考えられます。そうではありながら、このイザヤ書第53章が読まれたときに、反射的に「これはイエス・キリストのことである」と理解するならば、それは旧約の預言が照らしている本当にわたしたちが立つべき場所を通り過ぎることになりかねません。預言者の口を通して予め語られていたことは、「背くものたちへの裁きのために、忠実な僕を与えられた」、11節にあるとおりです。ここを読むたびごとに、わたしたちは「背くものたち」とは誰のことであり、「忠実な僕」とは誰のことであるかを、信仰によって繰り返し思い起こすことを促されております。

③イザヤ書53章が導いた奇跡。「それが誰のことかわかる」ということ。

このイザヤ書第53章から導かれ、イエス・キリストが解き明かされるとはどういうことなのか、それがなされるとどうなるのか。新約聖書にそのことが記されている箇所があります。どうぞ聖書をお開き下さい。使徒言行録第8章2640節です。「フィリポとエチオピアの高官」という小見出しです。とくに3234節までのところをお読みします。

“彼が朗読していた聖書の個所はこれである。『彼は、羊のように屠り場に引かれて行った。毛を刈る者の前で黙している小羊のように、/口を開かない。卑しめられて、その裁きも行われなかった。だれが、その子孫について語れるだろう。彼の命は地上から取り去られるからだ。』宦官はフィリポに言った。「どうぞ教えてください。預言者は、だれについてこう言っているのでしょうか。自分についてですか。だれかほかの人についてですか。”

エチオピアから礼拝に来ていた宦官が、帰り道に馬車に揺られながら朗読していたのは、このイザヤ書第53章でした。いったいどういういきさつで彼がここを朗読していたのかは、思い巡らすよりほかありません。集った礼拝で読まれた箇所だったのか、たまたま手に取って開いたらそこだったのか。それとも聖書を通読していた最中だったのか。いずれにしても、フィリポに説き明かしを求めるにあたり、この宦官は大切な聖書の読み手としての自己認識を示しています。34節「どうぞ教えてください。預言者は、だれについてこう言っているのでしょうか。自分についてですか。だれかほかの人についてですか」。彼は、聖書を読むにあたり、率直な姿勢をもって、フィリポに御言葉の意味を求めています。

イザヤ書第53章の預言の言葉を聞いたこの宦官の姿は、この書物は昔の預言者が記したものとして終わるものではありません。昔の書物を読んで、「昔、そういうことがあったのか」と、それこそ追体験に終わらせるということではないのです。彼は聖書に書かれてある預言と、自分自身の生きた霊的な関係を問うています。

イザヤ書第53章は人の罪と痛みと死について深く取り扱います。宦官はそこを読み、それらのことがまず自分の身に起こることなのかを問い、つぎに、他の誰かのことなのかと問うています。この御言葉と自分の生きた関係性を問う問いかけこそ、福音を聞き取る第一歩です。

この宦官、エチオピアの女王に仕える身分の高い人ということです。女王に仕える宦官ですから男性機能を去勢された人です。全財産を管理するほどの信頼を得ておきながら、子孫にはそれを残していくことはできません。身分の高い地位ならではの、人間的なしがらみなどもあったことでしょう。栄達と悲しみが混在している境遇にあります。その彼が、礼拝に出かけ、その帰り道に「主の僕の苦難」の預言に出会いました。「預言者はだれについてこう言っているのですか」彼は問います。彼はイザヤ書のなかで語られる、主の僕が負わされている罪、苦しみ、病、心の重荷、もろもろの苦難に触れて、それが誰かについてのことではないかと御言葉に問いかける歩みを始めました。

イザヤ書第53章に戻ります。8節「捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた」。宦官が読んだところの最後のところでもありました。まさにそこは、イエス・キリストが木曜日の夜から金曜日に歩まれた道筋でした。そこからフィリポは、ついこの間におきたばかりのイエス・キリストの苦難と復活を説き明かしたことでしょう。ここに書かれてあることは、「自分のことではないのか」と問い始めた宦官は、フィリポの説き明かしによって福音を聞きました。たしかに、イザヤ書第53章で書かれる苦難は、自分が負うべきものであったが、それをすでにイエス・キリストが十字架によって負ってくださったという福音であります。彼は、フィリポから洗礼を受け、喜びにあふれて旅をつづけました。

その後の宦官の人生から、罪や苦しみが一切消え去ったというわけではないでありましょう。むしろ、まことの救い主を知ったからこその、新しい罪や苦しみが生じたかもしれません。しかしそのたびに、イザヤ書第53章が示す苦難は、主の僕であるからこそのものであると、フィリポの説教を思い起こしたでありましょう。宦官もまた主の僕となったのです。それは苦難のなかでキリストがともに十字架を負ってくださる、赦された罪びとの喜びの歩みであります。

かくして、イザヤ書第53章から説き起こされる預言は、「それは自分のことではないか」と考え始める人々に、イエス・キリストの証しとなって、福音を告げることとなりました。キリストの教会は、そのようにして、イエス様の苦難があったからこそ、多くの人々が十字架の赦しのもとに集う実りを見てきました。

11節、12節をあらためて朗読します。

“彼は自らの苦しみの実りを見/それを知って満足する。わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために/彼らの罪を自ら負った。それゆえ、わたしは多くの人を彼の取り分とし/彼は戦利品としておびただしい人を受ける。彼が自らをなげうち、死んで/罪人のひとりに数えられたからだ。多くの人の過ちを担い/背いた者のために執り成しをしたのは/この人であった。”

この金曜日、かつてゴルゴタの丘に苦難の果てに打ち立てられた十字架は、神と人の平和を取り戻すための唯一のお方の証しとなりました。神を見上げるわたしたちのまなざしの先に、かならず十字架が執り成しとしてそこにあります。ひとたび闇にとざされた夕べですが、永遠の命の光が差し込む復活の朝が必ずまいります。残された受難週の日々、どうぞ執り成しの主イエス・キリストが皆様とともにおられますように。父、子、聖霊の御名によって、アーメン。

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