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4月19日祈祷会 ヨシュア記第3章

「 すべてに先立つ御言葉 」

ヨシュア記第三章です。いよいよヨルダン川を渡り、最初の街、エリコに入ろうというところです。ヨシュアは本隊がヨルダン川を渡るまえに、これから入っていく新しい土地の状況を事前に知っておくために偵察隊を送りました。エリコに住む遊女ラハブの信仰的な協力によって偵察隊は首尾よく帰還し、エリコの街が主なる神とイスラエルに対して動揺していることを報告します。エリコの住民たちは「心、挫けている」とのことです。ヨルダン川を渡る好機が到来し、成功の兆しが見えました。いよいよ準備万端整えて、イスラエルの民の本隊がヨルダン川を渡ります。

新しい決意とともに救いの完成にむけての一大事業を行おうとする共同体を、主なる神はどのように御言葉をもって励まし、勇気づけ、導かれるのでしょうか。それがヨルダン川渡河の記事の大きな主題です。なお、川を渡る記事は第三章と第四章に、前編と後編の二部構成で分かれて記されています。それぞれ、注目している主題が異なっています。第三章の主題を読みとる鍵となるものは、「主の契約の箱と導かれる共同体」です。

①「ヨルダン川渡河の意味」主の御言葉は共同体全体の救いを導く

ヨシュアの務めは、共同体の民を良く導き、一人の落伍者もなくヨルダン川を渡らせることです。川の岸辺まできましたが、すぐに渡り始めることなく、さらに三日間野営をしています。1節、「川を渡る前に、そこで野営した」。ヨシュアは慎重に準備します。主なる神の約束から、一人も漏れる人がないように、人間の側での最善を尽くしています。ここには、共同体への細やかな心遣いも見出すことができます。荒れ野の40年を一緒に旅してきた共同体です。エジプト脱出当時から元気に旅を続けて来た年代の方もおり、旅の途中で生まれた若手もいたでしょう。なかには、つい先日生まれたばかりの赤ちゃんとお母さんもいたかもしれません。また普段は元気な人であっても、そのときたまたま具合が悪いということも在ります。これが共同体の姿です。人生のすべての場面に置かれている人々が一緒に生きています。そういったいろんな境遇の人々が共に歩む中で、イスラエルの共同体は、移動してきたあと、一休みして、全体の足並みを整えます。

三日間、野営し足並みが整ったところで、「民の役人」が指示を出しています。さてこの役人という言葉、שֹׁטֵר”:ショーテル”という言葉です。「役人」という訳の言葉が適切かどうか、わたしとしてはちょっと考えてみたいところが残ります。これはすこし説明が必要だと思います。研究者によれば、語源がまだはっきりしないという意見が主流でしたが、「書き記す、記録する」という動詞の分詞形という説明がありました。ヘブライ語は動詞が現在分詞になると職業を現す場合があります。ですから「正しく記録することに従事する人」という程度の意味です。「役人」というほどには職権が付与されている職業ではないと思います。もっとも「共同体のために公に仕える」という点では、純粋な意味で役人という訳があうのかもしれません。大切なことは、共同体のまえにおおやけに神の言葉を記録し、伝達するということです。人間に権威が移譲されているのではなく、やはりあくまでも神の言葉を間違いなく伝えるという点において、神と人に仕えるおおやけの立場です。そうすると「命じた」という言葉ともつながります。というのは、この「命じた」というのは、神が人に御言葉をもって道を指し示すときの言葉だからです。人が人の上に立って使役するのではありません。神の言葉が人を召して、神の言葉をもって、共同体を良い方向に導く、それが神に仕える人Ark0から語られる指示です。

さて、その内容は4節「主の契約の箱を祭司が担ぐので、二千アンマの距離をとって後に続け」というものでした。まず「主の契約の箱」とはなんでしょうか。ここは聖書を開けておきましょう。出エジプト記第二十五章1016節、旧135pです。これは神様がシナイ山での十戒授与のあとに、主が御臨在される幕屋の建設と、これに付帯するさまざまな建具の造り方を、モーセに示しているところです。契約の箱のなかに神様の契約の言葉、すなわち「わたしは必ずあなたがたを救う」と要約される約束の言葉が収められていました。主の御言葉が、召し出された人、すなわち祭司に担がれて先に行きます。民はそのあとに従います。主の御言葉が先に立ち、それに仕える人が召し出され、その後に人々が従うという神の民の隊列は、今日に至るまで残っています。わたしたちも、主なる神の言葉を聞き、その後に従って、約束へと導かれていきます。

さて、なぜ「二千アンマ」の距離を取るのか、です。1アンマは口語訳のときの1キュビトと同じ、指の先から肘まで、約45センチです。45センチ×2,000は、9万センチ、900メートルです。遠すぎる距離にお感じになるでしょうか。さてなぜそれほど距離をとるのか、です。一つには、聖なる主の御言葉ですから、俗に身をおく民は聖なる箱とは距離をとりなさい、という聖なるものへの畏れ敬う心だと読み取ることができます。

もう一つ、4節にあるように、「これまで一度も通ったことのない道」を「主の契約の箱」、すなわち神の御言葉に導かれる共同体として、ほどよい距離とはどれほどか、ということです。主の御言葉は、個人ではなく共同体全体を導こうとします。その歩みは、全体的なものとなるでしょう。御言葉が右に曲がろうとしているときに、共同体全体が一人も置いてけぼりされるのではなく、余裕をもって備えてついていくためには、ある程度の距離が必要です。

それぞれの教会、あるいは教派は聖書にたいして、いろいろな考えを持ちます。一つに「聖書の御言葉に、ぴったりくっついて、文字通りしたがっていく」ことを主張する群れがあります。このような仕方はたしかに潔く、エネルギーに溢れます。着いていける人はいいでしょう。それだけ対応も速く、呑み込みも早く、行動も早い。しかし「主の御言葉」には一人だけついていければいいのではありません。なかには、じっくり考えたい人、検討したい人、納得したい人、心の準備が必要な人がいます。ある程度、主の御言葉がどちらの道を選ばれるのかを距離感を以て眺めて、「ああ、これから右の道を行かれるのか」と了解してから、心の備えをして右の道に従う。そのことによって、一人ではなく、共同体の全員が、はぐれることなく、主の御言葉に従うことができます。わたしたち日本キリスト教会は改革長老派のながれを組む一派です。月例の小会があり、中会があり、大会があります。年に一回、総会もあります。いうなれば、ここでいうところの御言葉に仕える「役人」と「箱の担ぎ手」が距離感をもって共同体を導き、全員で協議してから認識を共有したうえで方向をとっていく。これは共同体全体がともに歩んでいく方法としてはたいへん有効で、神様の御心に適っていることがわかります。

②御言葉は現実の流れのなかに身を置く。神の奇跡の意味は?

さて、このようにして最善の心配りのもとに、いよいよ「主の契約の箱」から先に川に入ります。ヨルダン川はこのとき春の雪解けの水で増水していました。このことは次週の第四章にもかかわってきます。ヨルダン川を渡ったのは、4月頃、まさに今の季節の頃だと思ってください。ゴラン高原などの高い土地から雪解け水がガリラヤ湖を満たし、ヨルダン川も増水します。ここに入っていくのですから、大変です。川の水が一回せき止められなければ、全員無事に渡れません。

ここで、出エジプト記第十四章の紅海を渡ったときに海が割れたエピソードに似る、水がせきとめられるという奇跡が起こります。13節「全地の主である主の箱を担ぐ祭司たちの足がヨルダン川の水に入ると、川上から流れてくる水がせき止められ、ヨルダン川の水は、壁のように立つであろう」。そして、主の契約の箱がヨルダン川に来ると、14節、15節「春の刈り入れの時期で、ヨルダン川の水は堤を超えんばかりに満ちていたが、箱を担ぐ祭司たちの足が水際に浸ると、川上から流れてくる水は、はるか遠くのツァレタンの隣町アダムで壁のように立った。そのため、アラバの海すなわち塩の海に流れ込む水は全く断たれ、民はエリコに向かって渡ることができた」。

ヨルダン川の流れはせき止められ、干上がった川床を無事に渡ります。神様の約束のとおりに、共同体は一人も残らずヨルダン川を渡れることとなりました。「アダム:土」という町は赤土が採れたところと言われます。死海からヨルダン川をさかのぼり、ヤボク川との合流地点にある町です。そこで春のかさが増した水は壁のようにせき止められました。

たしかにこれはすごい奇跡です。さて、この奇跡をわたしたちはどのように受け取りましょうか。いくつかの受け取り方があります。まず「聖書が語ることはすべて事実だから、その通りに起きたのだ」というそのままに受け取る仕方。次に「きっとこのとき、ヨシュアは自然現象を熟知していたか、あるいは山崩れが偶然起きてせき止められたのだろう」という合理的な説明を求める仕方。もう一つ、「なにを水の壁などばかげている。これは作り話か、さもなければ比ゆ的表現だ」。さて、いずれの仕方で聖書に書かれている超自然的な神の奇跡を読み取りましょうか。概ね、素直に読む一つめの姿勢が保たれるべきだと思います。その通りに起きたということをまず受け止める。そのうえで、大切なことは、神様はどうしてそのような奇跡を起こされたのか、という目的を知るところへ進んでいくことです。これは、福音書をはじめ新約聖書でも起こされる奇跡の意味を問う仕方です。今日は祈りの主題が「復活に生きる信仰」ということです。なんとなれば、わたしたちはイエス・キリストが復活したことを信仰の土台に据えていますので、死者の復活を神が起こされるのならば、川をせき止めることも神はなさるのでしょう。

大切なことは、川がせき止められたことによって共同体全員が無事に渡河を終えることが出来たということです。まず神の御言葉が、増水した流れのなかに入っていきます。このとき、御言葉の担ぎ手たちは、主の御言葉が先に行くことに完全に信頼しておりました。そして、流れの真っただ中に身をおきます。このように、主の御言葉は、わたしたちが渡らなければならない新しいところへ行くため、そこが厳しい環境であっても、わたしたちより先に行ってくださるのです。

ここでは、主の契約の箱によって、川の水はせき止められました。そのことで、共同体は無事に渡り終え、また約束へと近くなりました。このように、わたしたちが約束の地へと進むための奇跡は、実は目にはさやかに見えにくいですけれど、日々、神様の御業によって起こされ続けているのです。わたしたちの目には隠されていることが多いということです。

聖書を否定する人は、こういった奇跡の表面の事象だけを取り上げて、その不可能性をあげつらいます。しかしそういった議論はまったく不毛です。神の奇跡は、あくまで人を罪から救うということに集中しています。たとえば、いま長良川も雪解けの春の水で増水しているようですが、その川の水がせき止められて、見物人が「すごい、すごい」と騒ぎ立てても、そこで神への畏れ、罪びとの悔い改め、神への立ち帰りと新しい民の創造が起きなければなんの意味もありません。むしろ、奇跡を大々的に喧伝するより、地道に伝道するなかで「岐阜教会の礼拝に行ってみようかな、郡上八幡伝道所の礼拝に行って見ようかな、日曜日になにをしているのかな、聖書のお話を聞いてみようかな」と考え始める人が一人起こされることのほうが、価値のある神の救いの奇跡です。このような隠された奇跡を目の当たりにする信仰的な視野を私たちは養うように導かれています。

こういった次第で、神の救いのための奇跡はまた起こされ、共同体は無事にヨルダン川を渡りました。また一歩、約束に近づいたのです。「主の契約の箱」、神の御言葉が先立って進み、全員が渡り終えるまで、そのしんがりも守ってくださいました。主の御言葉の慈しみは、一人も救いからもれることがないようにと、先に行きつつ、あとも守ってくださいます。包みこむ慈しみに満ちています。

今日は、ヨルダン川を渡る様子の前半を、「主の契約の箱」が先頭に立つところに焦点をあてて読みました。次週はその出来事を、共同体の次の世代に継承していくという点から見ていきます。

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