« 4月23日説教(郡上八幡伝道所)のポイント | トップページ | 4月30日説教のポイント »

4月26日祈祷会 ヨシュア記第4章

「 共同体は『こどもたち』に教える 」

ヨルダン川の渡河は成功しました。主の民の共同体は御言葉の導きゆえに、一人の落伍者もださず全員無事に対岸に渡ります。春の増水したヨルダン川がせき止められる神の奇跡により、川の底は現れ、だれでも安全に渡れるようになったからです。このとき、祭司たちに担がれた「主の契約の箱」がまず先立ち、民が無事に渡れるように整えました。そして全員が無事に渡れたことを確認したうえで、最後に「主の契約の箱」を担ぐ祭司たちが、共同体の殿(しんがり)を守るように、新しい陸地へと上がっていきました。

このような救いの御業を示すヨルダン川の渡河の次第は、世代を超えて共同体のなかで伝えられていきました。神が救いのために起こした御業は、その素晴らしさとともに、目的もまた伝えられなければなりません。それは、堅い言い方をすれば共同体をあげての教育と自己認識の継続に拠ると言えるでしょうか。さて、神はヨルダン川の渡河を後世に伝えるために、どのような方法をお示しになったのでしょうか。ヨルダン川渡河の出来事の後編とも言える第四章の主題は「主が示される共同体の教育と本質の継承」となります。

①本質を継承する共同体は時代を超えて生き続ける

主はヨルダン川の渡河を無事に終わらせました。主の御言葉のとおりに従った共同体は、一人も欠けることなく、新しいところへと進むことが出来たのです。この点、救いの御業が一区切りついたということでいえば、いちおうここで主はヨルダン川の渡河での御業を終わらせてもよかったと言えます。ところが主はさらにヨシュアに命じて、この出来事を後世に伝えるところまで指図されます。これは、主が救いの御業を示した記憶を、救われたその世代に限定するのではなく、後の世代にも継承させることで将来の共同体にも救いの御業を及ぼそうとされているからです。個人であれば記憶に残されることも、世代が進むなかで、共同体レベルの記憶を残すための行動を取らなければ次の世代に何も伝わりません。救いとはどのようになされ、進んでいくのか、過去の救いの御業を覚えて記念することによって、意味と目的の理解もまた継承されていきます。そのことが個人だけではなく、世代を超えて後世に拡がる共同体全体の救いにつながっていきます。

ここで考えてみます。もし次の世代に共同体の本質が継承されなければどうなるでしょうか。共同体の本質を継承できない、言わば人間的な目的に本質を置く集団は、世代が進む中で目的意識をしばしば変質させることが起きます。いったい何のためにそれを行ってきたのか。その意味と目的も含めて継承させなければ、共同体は歴史の奔流のなかで簡単に霧散霧消してしまいます。神様は共同体の存在意義、すなわち命を保つために、相応しい方法も教えてくださっています。

相応しい具体的な方法を見てみましょう。まず、このヨルダン川の渡河のことを伝えるにあたり、十二部族の代表に石を拾わせたことの意味を探ってみます。まず「石を拾わせた」ことです。これはどこにあった石でしょうか。そこは主の契約の箱がまっさきにヨルダン川の流れのなかに身を置いたとThomascranetheisraelitepriestsholdiころ、召し出された祭司が御言葉に信頼ししっかりと川底に足を付けたところ、御言葉を運ぶ務めを果たしたところです。そして、ヨルダン川はせきとめられるとの主の御言葉の約束が果たされたところです。川がせきとめられて水底が露わにされなければ、この石が拾われることはありませんでした。

また、それを十二部族の代表一人ひとりに拾わせました。「わたしたちは十二部族から成っている」との共同体の自己認識がそこに語られます。群れは本来、個別の一人の集合体です。一人は二人、三人となり、家族を形成し、氏族、部族を形成していきます。そして、イスラエルという一つの大きな共同体となっています。このように神は、一人ひとりを救うために、群れを形作るという方法をおとりになります。神のもとに生かされている共通認識をもつ複数のなかに、個別の一人の居場所を設けてくださるのです。したがってこの十二個の石を見るものは、「わたしたちは十二部族が集まっている一つとされた群れである」という意識も合わせて思い起こします。

キリストの教会も一つでありながら、一人でも多くの人が救いに与るようにと、神はじつに十二部族以上に豊かな多様性を与えてくださいました。東西の教会があり、プロテスタント教会が起こされ、そのなかに多くの教派があります。歴史を振り返れば、確かに分裂したいきさつには不幸な出来事が多々起こされました。しかし本来、教会の多様性は分裂が目的ではありません。多様性と一致を保つ「キリストの一つの御身体としての教会」という、救いの御業の現実的な姿を示すためです。

子どもたちは十二個の石を見て、「ああ、うちの部族の石もあった」と言ったことでしょう。これと同じように、それぞれの教会は救いの御業に仕えるなかで、それぞれの働きの証しを残します。本日の祈祷会での祈りの課題は「召天者と遺族を覚えて」です。さきのイースター礼拝のあとには墓地礼拝をささげました。ここでわたしたちは先達が与えられた馳せ場を走り終えて天に帰られたことを思い起こしました。そのことがまた、わたしたちもこれからの歩みの方向を確かめる良い機会となります。

神に召された共同体は、数え切れない召された信徒によって、救いの御業の記憶を継承していきます。これらの働きの証しを見る時、わたしたちもまたかの日の十二個これを見た子どもたちのように、「ああ、これはうちの教会の歴史だ」と成り立ちに気づかされ、自分の存在を共同体に結びつけ、群れの一員であることを確かめることになります。

②主からモーセ、そしてヨシュアへ、教える主体は主の御言葉

さて、第四章をお読みになって、あることにお気づきなった方がおられるのではないでしょうか。それは、1節から9節のところと、10節以降の部分が少し時間的に逆になっている点です。ヨシュア記に限らず、旧約聖書は出来事の時間的な前後関係が、意図をもって変えられていることがよくあります。これは、聖書の言葉が単に古い順番に無意味に記録されたものではなく、神学的な意図をもって編集された証しです。ただの記録ではなく、後の世において、共同体が礼拝において聖書を読むときに、伝えられるべきことが確かに読み取れるようにするための配慮である。

ヨシュア記第四章においては、1節~9節は、イスラエルの全部族がヨルダン川の渡河をすっかり終えたあとのことを伝えています。すなわち「十二個の石を拾ってきて置くこと」です。救いの御業を後の世代に伝えることが第四章の主題でした。ですからここでは、さきに主題を提示するために時間的には後に起きたことを先に語ったうえで、もとの時間に戻っている描き方をしています。つぎの部分、10節から18節に至るなかではまず、新しい土地にもう入ったという緊張感が伝わってきます。エリコに進むということは、これから新しい土地での抵抗があり、戦いがあるということでもあります。十二部族のなかから、ルベンとガド、それにマナセの部族のうち、半数が編成されて、さきにエリコに進軍していきました。間髪を置かずに次の行動に移っています。この戦いの準備は第五章以降の予兆でもあります。

さてヨシュアにとって、このヨルダン川の渡河という大事業は、彼が共同体の指導者とされてからの初めての任務でした。言うなれば“若葉マーク”がまだついているようなときに、この大きな仕事を任されたのです。しかしヨシュアは首尾よく果たすことができました。それはなぜでしょうか。ヨシュア自身も、共同体のなかで教育されてきた人です。若いころに指導者の後継と目されてからは、先代のモーセから指導を受けてきました。10節「すべてモーセがヨシュアに命じたとおりである」、12節「モーセがかつて告げたとおり」、14節「かれらはモーセを敬ったように」。ヨシュア記には、これからもしばしばモーセの名前が登場します。そのとき「ヨシュアもモーセの言葉にしたがった」という意味のことが記されていることがあります。共同体は、なんの関わりのない人が突然選ばれてそれを導くという仕方を取りません。入念に教育を施され、また事業に召されたあとにも教育は続いていきます。さらに教育を施すものも神に選ばれ、共同体との大切なつながりを保ちます。神が全体を統べ治めておられる共同体の教育は、後の世代に豊かな実りをもたらします。15節と16節にあるように、ヨシュアは神の言葉にしたがい、祭司たちを川から引き揚げさせて、ついにヨルダン川渡河のすべてを完了させました。先代のモーセがヨシュアを教え導いたのでありますが、ひいては、主なる神に召し出されたモーセと、そのモーセに教えられたヨシュアを、神ご自身が共同体に遣わし、救いのために整えられたということになります。

③「これは何の意味があるのですか」問いは理解のはじめ

最後の部分、19節以降に入ります。さきにも触れたように、共同体の教育の大切な遺産は、共同体のアイデンティティを継承することでした。「なんのためにこの群れは起こされ、何を目指しており、どうしていくべきか」これら共同体の本質と言えるものを継承することが、共同体全体の命を継いでいきます。ですから共同体の成り立ちを覚えることをおざなりにすると、群れは消えてしまいます。そのためにわたしたちキリストの教会も、古いイスラエルの民が神から教えてくださった大切な仕方を継承しました。それは、「神の救いを記念する」ということです。ヨシュア記第四章では、ヨルダン川を渡るにあたり、神の奇跡によって川底があらわにされ全員が無事に渡れたことがそれにあたります。また、十二の石が置かれていた場所は神の言葉を担いだ祭司たちが、まず川のながれのなかに先頭をきって入り、全員が無事に渡り終えるまでしっかり立ち続けた場所であるということも含まれます。

 共同体の新しい世代を教育するための有効な方法は問答です。問いをかけて、それに答える。この繰り返しが、一回や二回、聞いただけでは理解できない、深い御業の意義を、少しずつ若い世代の意識に浸透させていくことになります。イスラエルがかつてそうであったように、キリストの教会も信仰を説いて聞かせるにあたり、問答をとくに重んじてきました。先日の説教では、疑い深いトマスにもイエス様が丁寧に教えられたように、問いをもつことは理解のために不可欠です。わたしたちが大切にしている問答といえば、ハイデルベルク信仰問答、ウェストミンスター教理問答、日本キリスト教会小信仰問答があげられます。これら問いと答えを繰り返す中で、新しい世代は、共同体の成り立ちと将来を理解していきます。

「これらの石は何を意味するのですか」、そのように子どもたちに問いをもたせ、十二の石を指さしながら、教えていきます。これは、神から与えられた義務ということにとどまらず、ひいては、子どもたちの命に関わる、神の知恵です。

23節では、「あなたたちの神、主は、あなたたちが渡りきるまで、あなたたちのためにヨルダンの水を涸らしてくださった。それはちょうど、我々が葦の海を渡りきるまで、あなたたち神、主が我々のために海の水を涸らしてくださったのと同じである。」このとき、教えているのは、葦の海を渡ったことを知る世代であって、教えられている世代は、葦の海も、ヨルダンの川も、実際には知らない子どもたちです。しかしのちの子どもたちは、「三世代まえ、四世代まえがそのようにして主なる神に救われたのだなあ」と、ここギルガルに集ったことでしょう。そこで十二個の石を前にして、「主の御手の強さ」を知り、神を敬う心を育てたことでしょう。

しるしを見て主の救いを思い起こす仕方は、わたしたちキリストの教会にもいくつか継承されています。ここは新約聖書を開いておきましょう。コリントの信徒への手紙一第十一章23節~26節(新314)。イエス様ご自身が、使徒パウロを通して御自身の十字架における肉と血を、パンとぶどう酒によって思い起こさせ、契約は新しくされたことを記念する仕方を教えてくださいました。わたしは子どものころ、主の食卓に集まりパンとぶどう酒を分かち合う大人の信徒をみて「これはいったいなにをやっているのだろう、パンは美味しいのかな、ぶどう酒はどんな味かな」と興味津々だったことを思い出します。牧師が、また長老が、この記念の祝宴の意味を教えてくださるうちに、イエス様の十字架の死と復活による救いの意味が少しずつわかってきました。このようにして、群れ全体で、救いの意味を次の世代に継承していくこと。その相応しい仕方まで、主なる神はわたしたちに与えてくださいます。

二週にわたって、ヨルダン川の渡河をみてきました。前編の第三章では「主の御言葉が先に立ち、共同体を導くこと」、後編の第四章では「共同体の救いを教え伝えること」についてみてきました。次週は、カナンの土地に慣れていく共同体の姿、そしてまるで補足するように記されている「主の軍の将軍」との不思議な出来事についてみていきます。

« 4月23日説教(郡上八幡伝道所)のポイント | トップページ | 4月30日説教のポイント »

コメント

この記事へのコメントは終了しました。

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 4月26日祈祷会 ヨシュア記第4章:

« 4月23日説教(郡上八幡伝道所)のポイント | トップページ | 4月30日説教のポイント »

フォト

カテゴリー

写真館

  • 201312hp_2
    多田牧師「今月の言葉」に掲載したアルバムです。(アルバム画面左上のブログ・アドレスをクリックしてブログに戻れます。)
無料ブログはココログ