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5月24日祈祷会 ヨシュア記第8章

「 赦されて、また歩み出す 」

 

第七章において、手ひどい敗北を味わったイスラエルの民です。原因の一つは、アカンという人が、たった一人ではありますが、主の言いつけを守らなかったことによるものでした。しかしそれだけではなく、神様は、その敗北はひいては指導者ヨシュアと全イスラエルに帰すると言われました。エリコを落とした勝利に気を良くしたのでしょう、アイの街に攻め込むに当たっては、相手を侮り、また戦いの前に、主なる神様の御言葉に聞くときを持ちませんでした。これらすべてを含めて、今一度、主なる神様はヨシュアと全イスラエルに、このカナンへの旅路とはどういうものか、思い起こさせます。この旅路は、奴隷の家、エジプトから解放されて、救いに至る道筋であったということです。

 これを読むわたしたちの立場も、あらためて思い起こすことにいたしましょう。イスラエルの歴史が、なぜ事細かに成功も失敗も記されているのか。それは、わたしたちもまた信仰を保ちながら、救いを信じて歩む中で、成功も失敗も味わい、繰り返すからです。そして、その繰り返しのなかで、神様は確かに御言葉をもってわたしたちを養い、新しい律法の光を照らし、神様へと向き直る機会を示してくださるからです。この神と人との交わりのなかに、神の御言葉であるイエス・キリストが仲立ちをしてくださっています。わたしたちは、この旧約聖書をイスラエルの歴史として読むだけでなく、わたしたちが信仰によって少しずつではありながら清められていき、約束の日を迎えるための手引きとして読むことが出来る幸いにあります。Tissotjoshua

 そこを踏まえたうえで、今日読みます第八章は、第七章では失敗したアイという町の攻略と、そのあとの、エバル山という山での律法の朗読が語られます。すなわち、失敗のあとの成功と、礼拝する姿が描かれます。成功だけに終わらず、礼拝するところまで含めているところが、この 第八章の見るべきところです。さてどのように、ヨシュアとイスラエルは神様に導かれていくのか、失敗のあとに再起する姿に注目しつつ読んでいきたいと思います。

①神の赦しの宣告こそが、罪のなかにある人を立ちあがらせる!

1節、2節には、まず神様の言葉が語られます。ここのところ、第七章とも大きく違うところです。第七章では神様が語る前から、イスラエルは行動を起こしてしまいました。第八章では、イスラエル全体の罪の責任を感じ、失意のうちにあるヨシュアを赦しの宣告によって、奮い立たせる言葉から始まります。

 ここで主なる神様の配慮に満ちた言葉から知らされることは、まことの赦しと励ましの言葉は、神より語られるということです。「恐れてはならない。おののいてはならない」。これは、かつて神様がモーセに何度も語られた言葉と同じですし、ヨシュアにもたびたび語ってきた言葉でした。単なる「元気を出しなさい」という励ましではなく、ヨシュアに与えられた使命をも思い起こさせています。すなわち、それはモーセの跡継ぎとして、イスラエルを導く立場にあるということです。

 ところで、わたしたちは、人に罪の赦しの宣告をされる、イエス様の御言葉も同時に思い起こしたいものです。一つ、新約聖書のイエス様の赦しの宣告を開けておきたいと思います。マルコ2:9-11(63p)です。

 中風の人に『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて、床を担いで歩け』と言うのと、どちらが易しいか。人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」そして、中風の人に言われた。「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい。」

 イスラエルの旅路は、救いへと至る道を示すものだということでした。そのなかで、わたしたちの本当の救いである、神ご自身が語る赦しの宣告は、再び立ち上がるためになくてはならないものです。人間がいくら言葉を尽くして慰め励ましても、最後に必要なことは、十字架に保障されている神の赦しの宣告となります。「恐れてはならない、おののいてはならない」とヨシュアに言われる神様は、過ちを犯したからといって、イスラエルを決してお見捨てにはならず、再び進むようにと導かれます。

②神様に「ささげつくす:ヘーレム」、信仰の歩みの要点

 9節から29節のところに至るまでは、アイにおける実際の戦闘の経過が語られています。三万人のえりすぐりの勇者のなかから、さらに五千人が伏兵となって潜みます。陽動部隊である二万五千人は、アイの軍隊を欺くために、わざと敗走したように見せかけ、騙されたアイの軍隊はまんまとひっかかり、門を開けっぱなしにして追いかけていきます。もぬけの殻になった町のなかに本隊5千人がなだれこみ、勝敗は決しました。

 まるでこのあたりの描写は、戦争映画のワンシーンにでもなりそうなくらいに描かれています。また、あますところなく戦争の悲惨さをも描きます。すなわち、主なる神様の言いつけ通りに、「滅ぼし尽くす」ことが実行されているのであります。

 さてこの「滅ぼし尽くす」という行為、先週のエリコのところでは、時間の都合で詳しい説明を省きました。旧約聖書独特の思想、「ヘーレム:חרם」、聖なる絶滅ということで、新改訳聖書では「聖絶」という造語を用いて説明することもあるようです。英語のヘブライ語辞書では、”for dedication of what is banned” 奉献のための焼き尽くされたもの、と説明されていました。神様が律法のなかでたびたび言われる、焼き尽くすささげものと同じ意味です。

 この焼き尽くすささげものが、家畜などによる生贄だけではなく、町やそこに住む人々に適用されるところ、すなわちここ第八章のように、一つの街が滅ぼされるような場面を読んだとき、疑問を禁じえないのではないかと思います。どうして、このような惨いことが許されるのか!とりわけ戦争反対の立場から考えるとにわかに受け入れがたいものがあります。

 ここはぜひ、このヘーレムの意味と、イスラエルの旅がどういうものであったかということを、新約聖書の光に照らしつつ、併せて考えていただきたいと思います。手がかりの一つは、まえにも紹介しました。旧約聖書もイエス様の御言葉によって語られるべきものということです。この特殊な文脈にあっては、神様に捧げ尽くすことにアクセントが置かれているのであって、虐殺行為が奨励されているわけではありません。はっきり言えば、イエス様が言われた「あなたの敵を愛しなさい」が、律法を完成させるものとして優先されます。もう一つ、イスラエルの旅路は、救いの旅路でもありました。全イスラエルを一人の信仰者の歩みとして捉えれば、相応しくないものは、捧げ尽くされなければならないというものです。

 みなさまは、今月の福音時報はもうお読みになったでしょうか。志木北伝道所の牧師、三好明先生が、「相応しくないものを神様にささげる」というテーマで寄稿してくださいました。三好先生はわたしが神学生のときの校長先生であり、旧約関係の講義を長く施してくださいました。先生の聖書の読み解き方に、感化を受けることおびただしいものがありました。神学生のとき、先生が語られる、この「相応しく無い物をささげる」という言葉にも触れて、気持ちがとても救われたことを覚えています。

わたしたちの信仰の養いと救いへの旅路は、なんどなんども信仰的な失敗を重ねながらも、なおその神様の御前に相応しくないものをささげていく旅路であるものです。「洗礼を受けたのだから、もっと敬虔な信徒にならなければいけないのではないだろうか」、そのようにお考えになることは大変謙遜で素晴らしいことです。しかしどうしても、神の聖なるお姿のまえには、やはりわたしたちには相応しくないものが残るのであります。ですから、これらをすべてささげていくことが、わたしたちの歩みであります。神様から、相応しくないところを隠そうとして、アカンのように自分のものにして天幕の地下に隠そうとしていては、神様の御前に赦しの解放を味わうことはできません。相応しくないところも含めて、すべてをささげたからこそ、祝福を受けるのであります。

③「祝福と呪い、さあどっち?」の二択ではなく、わたしたちには祝福しかない!

30節から35節の結びのところでは、アイへの勝利のあとに礼拝が捧げられます。さらっと書いてあるので、「そうなのか」と読み流してしまいそうです。さきほどはアイでの戦闘シーンが戦争映画みたいだと言いました。もし戦争映画の最後のシーンであれば、勝ち戦をお祝いして、飲めや歌えの大団円が描かれるところです。ところが、聖書ではそうではありません。勝ってなお、それは主なる神様がいてこその勝利、神様の御言葉を聴いたからこその勝利、栄光は、すべて主なる神様にささげられることが、ここでしっかり覚えられているのであります。

 最後まで主なる神様の御言葉にしたがって、今回のアイでの勝利を覚えるということ、それは31節に記される、祭壇の設け方が、申命記第27章のとおりになされていることからもわかります。聖書を開けておきたいと思います。申命記第27章、4から8節のところです(旧322p)。

あなたたちがヨルダン川を渡ったならば、わたしが今日命じるこれらの石をエバル山に立て、しっくいを塗り、またそこに、あなたの神、主のために祭壇を築きなさい。それは石の祭壇で、鉄の道具を当ててはならない。自然のままの石であなたの神、主の祭壇を築き、その上であなたの神、主に焼き尽くす献げ物をささげなさい。また、和解の献げ物を屠ってそれにあずかり、あなたの神、主の御前で喜び祝いなさい。あなたは石の上にこの律法の言葉をすべてはっきりと書き記しなさい。

このように、約束の地に入る前からすでにモーセに託されていた神の指示により、ヨシュアはそのとおりに、エバル山、またゲリジム山に全イスラエルを呼び集め、律法の朗読をします。34節からは、とくになぜ、ここで律法が朗読されたか、その意味をうかがうことができます。「ヨシュアは、律法の言葉すなわち祝福と呪いをことごとく、すべて律法の書に記されているとおりに読み上げた」。

律法によって、イスラエルの民Wakaremiti2 の前には祝福と呪いが置かれること、これは、創世記から申命記に至るモーセ五書のなかでたびたび語られてきました。神様がお与 えになる律法に従えば、それは祝福、逆らえば呪いということです。この「祝福か呪いか、さあ、どっち」というふうに、決断を迫られると苦しさを覚えます。わたしたちとしては、それはもちろん祝福を与えられたいのですが、それがなかなかできない、すなわち律法の通りにできない、自信のなさを感じることではないでしょうか。むしろ、ここで胸をはって自分に確信をもって「はい、わたしは律法を徹底的に守り祝福されます」と、言い張るほうが、難しいことです。

そこで見落としてはならないのは、33節、「それは主の僕モーセがかつて命じたように、イスラエルの民を祝福するためであった」。ということです。律法が語られるところ、目的は祝福にある、ということです。まず民を祝福する神が差し出してくださる恩寵がさきにあるということです。

山のうえで祝福を与えられる、と聞いて、新約聖書ではどこを思い出しましょうか。それはやはり、マタイ第5章から第7章の山上の説教でありましょう。まず出だしは、八つの祝福の言葉、真福八端とも言いますが、「幸いである」とイエス様がまずさきに祝福されることです。イエス様は、救いを求めるために謙遜に、心を貧しくし、柔和であることなど、救いに入れられたいと心から願うことが、神の国の民としての相応しいことであると言って、まず祝福をされます。

これと同じように、ヨシュア記第八章のイスラエルの民は、第七章での背きの罪から再び立ち上がり、主の御言葉に立ち返って、相応しくない物を捧げる歩みに導かれました。律法は祝福と呪いという、二つの道を示したうえで、「さあ、どっちを取る!?」と迫るようなリトマス試験紙のようなものではなく、祝福と呪いがあるなかで、わたしはあなたがたを必ず祝福へと招く、という約束であります。どちらか一方を示さなければ、もう一方の道が明らかにならない146326738940360734180_happiness_043のは、道理であります。しかし、御言葉に生きるものは、たびたびの失敗を重ねることはあっても、そのつど、主イエス・キリストの赦しの御言葉によって、立ち帰り、祝福の道を歩むように招かれているのであります。これは、罪のなかにわが身の相応しくない姿を知った人、魂を打ち砕かれた人にこそ与えられる、救われた確信であって、なににもまして素晴らしい賜物と言えます。

第八章によって、第七章のアカンの罪にはじまる一連の背きの出来事も、救いの旅路の歩みのために欠かせないものであったことが明らかになりました。エリコ、アイと二つの街では争ったイスラエルの民ですが、このあとは、対話することの大切さもまた学ぶこととなります。第九章では、異邦人との対話と寛容について語られることとなります。今日はここまでとします。

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