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5月17日祈祷会 ヨシュア記第7章

「 神の憤りも救いのために 」

 ヨルダン川を渡ることに成功し、エリコの街を落としたイスラエルの民です。ここまでのところ大きな失敗もなく、歩んできました。ところが、ここ第七章では1節がまず章全体の主題を提示しているように、主なる神はイスラエルに対して憤りを発せられることになります。エリコの次にイスラエルが進んだところは、アイという町でした。ここでイスラエルは敗北を味わいます。エリコの大勝利のあとに挫折が待っておりました。それは、主なる神様が共におられることをやめたから起きたのでしょうか。それとも、明確な理由があったのでしょうか。こういった挫折の中に、イスラエルを通して学ぶべきことがありそうな気がします。

わたしたちの信仰生活の歩みも、いつも順風満帆というわけにはいきません。様々なことが起きていくなかで、ときに挫折を味わうことがあります。こういった経験は、ないに越したことはないのですけれども、存外、信仰の理解がより深められるときは、挫折の経験を味わったときかもしれません。こういったときに、落ち着いて理由を見定めてみますと、聖書が語っている信仰上の問題や罪の捉え方、そしてこの章が語るような「主なる神様の憤り」への理解が深まってまいります。神様は無意味に憤っているのではなく、わたしたちに人間の認識の誤りを正す憤りであるということです。

旧約聖書では、救いの道を示すときに、イスラエルの個と全の両面を用いて、人の心と信仰の養いの道を示すことがあります。したがって、ときにはイスラエル全体が、あたかも一人の個人の信仰の歩みの代表であるかのように、描かれていることもあります。ここ、第七章ではアカンという一人の人物の背きが語られますが、彼個人に対する裁きをもって、主なる神の怒りの意味を語っているのではないようです。この悲しい出来事によって、イスラエル全体が何を学んだか、を見出すことが大切になってまいります。ありがたいことに聖書は、わたしたちのかつての過ちに新しい意味を与えることがあります。あるいはこれからの歩みのなかで、過ちを犯すまえに、聖書に書かれる先人の歩みを用いて、予め危ういところに行くことを防いでくださることもあります。このような希望を期待しつつ、この第七章を見ていきたいと思います。

①個人の罪が全体の罪に広がる真実。共同体全体へのメッセージ。

1節はこの章の主題の提示です。新共同訳によりますと、小見出しは「アカンの罪」とあります。しかし、この小見出しに注目しますと、誤解を招く恐れがあるかもしれません。たしかにアカンという一人の男が、私利私欲に走って、主なる神様に捧げ尽くすことをしなかったことが大きな原因です。ちなみに、このアカンという名前は、「災い」という意味です。アカンがその名のとおり、災いを招いたのですが、1節がいうように、これはひいてはイスラエル全体の不誠実さが招いたことでもあります。この出来事には、ヨシュアにも責任がありました。そして共同体全体にも責任があったのです。1節では「主はそこで、イスラエルの人々に対して激しく憤られた」と記し、この章の出来事をアカンの責任だけにとどまらず、全体のこととして受け止めるものと語ります。

②ヨシュアの初めての挫折。成功のあとほど慎重になれるように神様に祈る大切さ。

では、アカンの明白な罪はわかったとして、ヨシュアとイスラエルの責任とは、どういったものなのでしょうか。それが、2~6節に記されております。言うなれば、ここで記されていることは、イスラエルの驕りです。と言いますのも、2~6節までは、主なる神様の指図がありません。ヨシュアがエリコの勝利に気を良くしておごり高ぶっていたとまでは言えないまでも、少なくとも、Disobedience_of_achan_1403335 これからアイに攻め込むのが御心に適うかどうか神の御心を問う、という慎重さは欠けております。加えて、そのヨシュアに全幅の信頼を寄せたのか、あるいは自信がついたのか、アイの街に偵察にいった人たちも、いいことを言っています。「取るに足らぬ相手ですから、全軍をつぎ込むことはありません」。エリコのときに、王たちの心が挫けてしまっている状況とは違い、ここではアイがいったいどういう状態なのか、詳しい報告がされていません。根拠がないのであります。ヨシュアは、この報告を信じました。その結果、敗北を味わいました。三千人のうちの三十六人が戦死したということです。人数の多寡で被害を測るわけではありませんが、それにしても、戦う前の意気込みはどこへやら、すっかり意気消沈しております。ヨルダン川を渡ったばかりのイスラエルは、まだまだ未熟だったと言わざるをえません。

そして、これはヨシュアにとってははじめての挫折であり、また試練でもありました。彼はイスラエルの指導者として、神に問わず、エリコの成功体験だけで、次のことに取り掛かりました。これは一般的にも言えることですが、信仰者の日頃の慎重さは、常に祈ることによると思います。世俗の言葉では「人事を尽くして天命を待つ」というものがありますが、信仰者でいえば、「神に祈りつつ、人事を尽くす」という順番になるのかもしれません。どんな人であっても成功のあとは、自信過剰になりやすいものです。そういうときは、神の御前にとくに慎重に祈って、焦ってことを起こすよりも、神の言葉を待つ平安を持ちたいものであります。

敗北があって、ヨシュアははじめて祈りました。7節から9節にかけてのヨシュアの祈りは悲哀に満ち、すっかり怖気づいています。かの日、荒れ野でイスラエルが旅に疲れ、「エジプトの肉鍋が恋しい」と泣いた叫びを彷彿とさせます。しかしヨシュアは、ただ泣き言をいうわけではありません。挫折を味わって目が覚めたのか、主なる神に信頼を寄せて、御心を訊ねます。「あなたは、御自分の偉大な御名のゆえに、何をしてくださるのですか」。挫折のなかにあるヨシュアのこの祈りは、わたしたちには新鮮に聞こえないでしょうか。「わたしたちはなにをすればいいのですか」ではなく、「あなたは何をしてくださるのですか」という祈りです。ここがやはりヨシュアの信仰の見るべきところかもしれません。神の御手がまず事を起こすことを確信しています。

そこで主なる神様がお示しになった方法は、今回の敗北の原因を、曖昧にするのではなく、完全に特定させ、事実をはっきりさせる仕方でした。神様は14節に示される仕方を提示します。この選び方は興味深いものがあります。少しずつ絞りこむ方法です。一説には、これはウリムとトムミム(Ex28:30)という、祭司のエフォドという祭服に取り付けられていた、占い石を使ったのではないかと言われます。サイコロを振るような感覚です。旧約聖書の神学では、このように人間の恣意性を排除したところに、神の意志が働くという理解がありました。

ともあれ、このように原因を追究し、明らかにするところには意味があります。なにかの試練が生じたときに、それはいったいなぜ起きたのか。そのことを、主の御名によって、あきらかにしていくこと。出来事を大きくまとめて曖昧なままで原因を受け取るのではなく、出来得る限り、何が悪かったのか、を追求する姿勢がここに示されます。この点、原因が曖昧なままにされると、将来に活かすことが難しくなりますし、いったいなにが悪かったのかが、わからずじまいで、せっかくの立ち帰りの機会を逃すことになります。

③人を欺くのではなく聖霊なる神を欺く罪、もっとも深刻な罪。

こうして、ついにアカンという一人の男が原因であったことが明らかにされました。16節~26節のところです。ぴたりと当てられたのですから、もはや言い逃れはできません。アカンは歩み出ます。このときの、ヨシュアの語りかけにも見るべきものがあります。19節「わたしの子よ、イスラエルの神、主に栄光を帰し、主をほめたたえ、あなたが何をしたのか包み隠さずわたしに告げなさい」。すなわち、この罪は人に対する罪であるよりも、主なる神の御前に告白するべき罪であることをアカンと、そしてイスラエルの全会衆に意識させているわけです。

これはわたしたちが罪を考えるときも、大切な考え方になろうかと思います。世俗的な考えでいえば、罪というものは法律違反か、あるいは倫理に反した行いという認識になります。それによって、誰が被害を被ったか、あるいは社会の秩序が乱されたかということに論点が集中します。それはもちろん正しいことではありますが、一方で、法の網の目といいますか、それらにひっかからなければ、行ってもよいのか、という問題が残ります。信仰者は、そうではなく、主なる神の御前にいかがなものか、という視点で罪を考えます。ゆえに、ギリシャ語では罪を「ハマルティア」、「まとはずれ」という言葉で示し、正当ではない行い、あるいは考え方のあらゆるところを視野に入れます。

アカンは、ヨシュアのこの語りかけに答えました。「わたしは、確かにイスラエルの神、主に罪を犯しました」。罪の告白と裁きのときです。21節にあるように「見て、欲しくなって取りました」という動機でした。人間の心の弱さに、どれほど物欲が力をもって誘惑して来るかと知らされます。このように、人が心から罪を悔いて立ち帰りを求めるとき神の御前に立つこと、あるいは導き手がその人を神の御前に立たせることが大切なことです。「人に言われたから」、「ばれてしまったから」、人の目が問題なのではなく、不誠実さを一つひとつ吟味しながら、神様のほうへと向き直っていく。これもまた主なる神様が共にいてくださるからこそ与えられる恵みではないでしょうか。

アカンの罪の告白から考えられる、隠していたことが明らかになるということを、どのように受け取ることができるでしょうか。一つ、新約聖書から、人を欺くことには成功したけれども、神様を欺くことはできなかったという点で似たような事件がおきたところをあけてみたいと思います。使徒言行録第5章では、共に生きる共同体のなかで、自分たちの信仰深いという名声を得るために、神と人を欺こうとした夫婦の名前が残されています。1節~4節まで読んでおきます。

ところが、アナニアという男は、妻のサフィラと相談して土地を売り、妻も承知のうえで、代金をごまかし、その一部を持って来て使徒たちの足もとに置いた。すると、ペトロは言った。「アナニア、なぜ、あなたはサタンに心を奪われ、聖霊を欺いて、土地の代金をごまかしたのか。売らないでおけば、あなたのものだったし、また、売っても、その代金は自分の思いどおりになったのではないか。どうして、こんなことをする気になったのか。あなたは人間を欺いたのではなく、神を欺いたのだ。

彼らは、人を欺くことは簡単だと思ったのですが、その驕りのなかに、聖霊なる神を侮った罪が残りました。

わたしたちは、信仰の告白で、「聖霊は信仰と生活の誤りなき審判者である」と告白します。ここで聖霊がまるで生活の見張り役のような印象は持たないようにしたいと思います。そうではなく、あくまで聖霊は、わたしたちがより良いものへとされる、聖化ともいいますが、その道筋へと導くお方です。聖霊なる神を欺くと、その後の人生は、もう何を信じてよいのかわからない、常に自分にとって不確かなことしか起きないという、神から完全に離れる人生Crucifixionjesuschristmormon1しか残らないことになるでしょう。ですから神と自分自身を見失うことがないためにも、罪を自覚させられ、悔い改めることは、信仰者にとっては、まことに祝福されることだと言えます。

 アカンにくだった裁きはたいへん厳しいものであったかもしれません。たしかに旧約聖書だけで読むには、わたしたちが主の大いなる恵みと憐みを知るには限界があります。ここはとくにそういう箇所かもしれません。見るべきところは、主なる神様がここまで、信頼関係を裏切るということを重く受け止めておられるお方であるということです。だからこそ、神と人間の信頼関係を取り持ってくださる方が必要になります。罪に対する激しい憤りのために、十字架の執り成しを成し遂げてくださったイエス・キリストとのかけがえのないつながりに、わたしたち罪びとは、赦されている平安を感じてよいのであります。

裁きのあとには必ず赦しがあり、また一歩、聖なるものとされた確信という慰めがもたらされるものです。イスラエルもこのアカンの背きから多くを学び、また一歩、歩みを進めました。裁きのあとについての恵みについてのところは、次の第8章で語られることとなってまいります。今日はここまでといたします。

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