5月21日説教のポイント
「像にも供物にも頼らせず」
聖書 使徒言行録第17章22~34節
伝道師 三輪恵愛
①パウロの「憤り」。それにも関わらず、宣教のためにアテネの人たちと対話する姿。
キリストが天に昇られたあと、歩み始めたばかりのキリストの教会は、二つの面における対話を委ねられました。一つはユダヤ教的な神理解にたいして、もう一つはギリシャ的な神理解に対して。アテネは当時のヘレニズム世界にあって、商業や政治の中心は他の都市に移ったあとも、思想、宗教、哲学の学府でした。聖書が伝えるところのパウロのアテネにおける伝道は、キリストの福音が人間の理性に拒否される「失敗」であったかもしれません。「それでパウロはその場を立ち去った(33節)。ところが、それはその後の、ユダヤ的神理解を持たない異邦人伝道のなかで語られるべき、神の本質について豊かな示唆を遺しました。伝道は対話によって進められます。ここでパウロが示す、アテネの人々の学識や理性に訴える忍耐強い対話の姿勢は、決して無駄になったわけではありません。アテネ伝道は、大きな成功の中の「小さな失敗」であったに過ぎないのです。
②神殿と偶像にみる「限定化」の問題。御心に沿って無限の神様を知るために。
神によって創造されたもの、すなわち様々な民族、季節の移り変わり、人が住める場所(26節)などによって、わたしたちは神の全能を知ることができます。パウロは、多くの神の御業によって創造されたものを知っているアテネの人々の理性に語りかけます。「なぜ、全能の神様の御業が明らかなのに、刻んだ像や神殿、ささげものに神様を限定しようとするのですか?」。神様は創造主であるご自分を表すために、被造物をご支配なさいます。それらを用いて被造物である人間が神の全能を顕すことなど、不可能です。不可能なことを追求しなくても、像にも供物にも頼ることなく、神様はわたしたちの近くにおられるかた(27節)であることを知ることができるのです。
③もっとも神様が御自身の全能を顕されたところ、罪びとを赦すキリストの復活!
パウロは福音を語るにあたり、イエス・キリストの十字架と復活に徹底しました。アテネの人たちに理性を持って語りかけるのも、すべては最大の目的である「神はこの方を死者の中から復活させた」事実を証しするためです。人間の領域では測り知ることの出来ない神の奇跡であればこそ、この一人のお方に結ばれる深い意義が確かな真実とされるのです。多くの人は理性を超えた言葉にあざ笑って立ち去りました。しかし34節によれば、アレオパゴスの議員ディオニシオ、またダマリスなど、残された者もおりました。神がわたしたちの理性では測ることの出来ないお方だからこそ、イエス・キリストにのみ頼る信仰に導かれた人たちです。わたしたちもまた、そのようにして一切の被造物に頼らず、ただキリストのみによって神を知り、神のものとされた祝福された民なのです!
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