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5月3日祈祷会 ヨシュア記第5章

「 聖なるかな、主が来られる所 」

ヨルダン川を無事に東から西へ渡り、約束の地に入ったところです。今日はヨシュア記第五章を見てまいります。これからエリコの街に攻め込もうとする前の出来事が記されていました。この章は、あまり相互に関係がなさそうな三つの出来事が並べられているように思えます。まず「割礼」のこと、次に「過ぎ越しの祭り」のこと、最後に「主の軍の将軍」についてです。さて、この三つの出来事は関係のないことなのか、それとも関係を持っているのか、その点に心を留めながら読み深めていきたいと思います。

 

①荒れ野の旅での無割礼が意味するもの。

2節~8節が「割礼」について書かれているところでした。「割礼」と言いますと、これは主なる神が、イスラエルの民を祝福するしるしとして、アブラハムを通して与えられた決まりです。男性器の包皮を切り取るという行為です。ここは聖書を開けておきたいと思います。創世記第177節~11節のところです(旧21p)。

 

わたしは、あなたとの間に、また後に続く子孫との間に契約を立て、それを永遠の契約とする。そして、あなたとあなたの子孫の神となる。わたしは、あなたが滞在しているこのカナンのすべての土地を、あなたとその子孫に、永久の所有地として与える。わたしは彼らの神となる。神はまた、アブラハムに言われた。「だからあなたも、わたしの契約を守りなさい、あなたも後に続く子孫も。あなたたち、およびあなたの後に続く子孫と、わたしとの間で守るべき契約はこれである。すなわち、あなたたちの男子はすべて、割礼を受ける。包皮の部分を切り取りなさい。これが、わたしとあなたたちとの間の契約のしるしとなる。

 

神様から子孫を増やすという祝福を受けたアブラハムでしたが、そのしるしとして、子孫に割礼を施しなさいということでした。これ以来、アブラハムの子孫、すなわちイスラエルの男子には、契約のしるしとして割礼が施されるようになります。

ところが、アブラハムの時代から進み、エジプトを脱出したイスラエルの人々は、荒れ野の40年の旅路のなかで、割礼をされていない人々が出て来たということです。4節からは、なぜ割礼を施すことになったか理由が語られていました。「エジプトを出て来たすべての民、戦士である成人男子は皆、エジプトを出た後、途中の荒れ野で死んだ」ということです。まずここで問いが出てまいります。なぜ、戦士である成人男子は皆、エジプトを出た後、途中の荒れ野で死んだのでしょうか。聖書のいくつかの箇所でその理由が語られています。それらを要約しますと、荒れ野の旅路のなかで、約束の地へ必ず導くと言ってくださった主なる神様をないがしろにして、信頼せず、ヨルダン川を渡ることを恐れたからです。一つだけ、聖書を開いておきます。民数記第1429節から31節まで読みます(旧236p)。

 

お前たちは死体となってこの荒れ野に倒れるであろう。わたしに対して不平を言った者、つまり戸籍に登録をされた二十歳以上の者はだれ一人、わたしが手を上げて誓い、あなたたちを住まわせると言った土地に入ることはない。ただし、エフネの子カレブとヌンの子ヨシュアは別だ。お前たちは、子供たちが奪われると言ったが、わたしは彼らを導き入れ、彼らは、お前たちの拒んだ土地を知るようになる。

 

つまり、割礼をかつて施されていた男子は、主なる神様が共におられ、ヨルダン川を渡らせてくださる約束を信頼しなかったために、約束を目にすることがなかったということです。

ヨルダン川を渡るときに主を信頼した、この新しい世代の民に、ふたたび割礼を施すことから分かること、二つあげられます。一つは、そのときにアブラハムの契約はまだ生きており、子孫が神様のものとして祝福され続けていること。そしてもう一つ、約束の地をまえにして、かつては荒れ野の旅路にあって、主なる神を畏れなかった世代があったということを思い起こさせる必要があったということです。主が旅路に共にいてくださるかどうか、それを感じるために、わたしたちの側も、導いてくださる神様に対する畏れと崇敬の念が大切になります。神様に対する畏れがなくなってしまっては、決して共にいてくださる神様の導きと恵みに感謝することはできません。すべての日常が相対化されてしまい、なんだか日々の出来事が偶然の産物のように思えてきます。先日の説教でも触れました。もっとも信頼すべき共にいてくださるお方が、どなたであるか。このことを、畏れをもって感じていく。そのことが信仰の成長になっていきます。ところで、信仰の成長には過去のことを思い起こし、神様へと向き直ることが求められます。9節にはこのように書かれています。「主はヨシュアに言われた。『今日、わたしはあなたたちから、エジプトでの恥辱を取り除いた(ガラ)。』ここでの恥辱について、解釈の仕方がいろいろ分かれているようでした。そのなかで、約束の土地に入るまえにあらためて割礼を施したこととの関連でもっとも妥当だと考えられることは、神様ではないものに従っていたことを思い起こすことです。エジプトのファラオの奴隷であったこと、また荒れ野でも、主なる神様への畏れを忘れて、自分たちの生きたい方向に勝手に行ってしまったこと、いうなれば背きの罪の恥と考えるほうが、流れに沿っていると思います。

讃美歌21に残らなかった古い讃美歌に、1954年版の245番にこういう讃美歌がありました。「思い出もはずかしきかな、父のみもとをはなれきて、あとなきゆめのあとを追い、むなしき幸をたのしみぬ」。父なる神様ではなく、この世的な幸福を追い求めたころが、いまでは恥ずかしく思わされるという歌詞ですね。悔い改めるとき、「なぜ神様を忘れて、こういうことをしてしまったのか、口にしてしまったのか」と、はたと気づかされるときとは、そういう振る舞いに陥ってしまったわが身を振り返り、思わず赤面すらしてしまうときでもあります。しかしながら、信仰を深めるには、この瞬間がまことに大事になってまいります。それは、たしかに恥なのですが、この9節にあるように、神様はわたしたちがそれに気づいて身元に立ち返るとき、喜んで迎えてくださり、祝福して、恥を恥でなくしてくださるお方だということです。恥を取り去ってくださる。この聖書の御言葉なくしては、なかなか世俗の歩みで恥を思い起こして、歩みを正していくのは、難しい旅路になるでありましょう。聖書の御言葉は悔い改めを喜んでくださる主を語っています。ここでも、先祖の代は背いたイスラエルも、いまはヨルダン川を渡り、雄々しく歩み続けるという点で、祝福されております。

 

②かつての恥辱は取り去られた。堅い食べ物も食べられるようになる成長

「割礼」についてはひとまずここまでにして、次に進んでまいります。10節から12節は、カナンの地でのはじめての過越しの祭りがお祝いされたことが記されています。「その月の十四日」とあります。第四章にこのヨルダン川の渡河がいつのことだったか記されていました。4:19「第一の月」でした。イスラエルのカレンダーでは、ニサンの月と呼んで、いまの4月頃にあたります。今年はイースター、4月半ばとかなり遅い年となりました。イエス様の十字架と復活は過ぎ越しの祭りのさなかに起きたことでもありました。過ぎ越しの祭り、春のお祭り、ちょうど今頃のお祭りです。さて、関心を持ちたいところは、それをエリコの平野、つまりカナンの土地の産物で行い、それによって、天からの食べ物であったマナが降らなくなったということでした。マナは、不思議な食べ物でした。荒れ野の旅路のなかで、食物を調達するのも大変ななか、主なる神様は、ちゃんと旅路を全うできるように、大切なものを天からたえず送ってくださったということです。

一つには、ここからわたしたちの日々の糧も、祈るまえから恵みとともに与えてくださることを思い起こすということです。それ以上に、マナがなくなったということは、彼らは、約束の地に入り、充分に恵みによって雄々しくなり、自分の力で、その土地のものを収穫して咀嚼するようになったということです。そこからは、神様が赤ちゃんのような信仰薄いイスラエルにマナという優しい離乳食のような食べ物で養っていたころから、だいぶ成長してきたイスラエルの民の姿を見ることができます。信仰の養いと食べ物について、新約聖書で喩えとして用いられているところを見てみましょう。第一コリント第三章2節です(新302p)。

 

わたしはあなたがたに乳を飲ませて、固い食物は与えませんでした。まだ固い物を口にすることができなかったからです。いや、今でもできません。

 

ここでは、パウロはコリントの人たちが霊的に弱ってしまい誘惑をうけて教会が乱れていたとき、それを諭すために語っています。いつまでも柔らかいものを食べていても、信仰は強まらないよと。ヨシュア記に戻りますと、マナをただ与えられて生きていたイスラエルの民は、自ら地産のものを収穫して、食べるまでに成長しました。このように、主は養いのなかで、着実に御言葉を食べる人を成長させてくださるということです。このことを覚えておきたいと思います。

 

③「今、着いたばかりだ」生きて働く主の助け主

最後の箇所に入ります。13節~15節です。不思議な出来事でした。主の軍の将軍が登場し、ヨシュアに姿を顕します。いったい、この人は誰なのでしょうか。聖書のなかで、神様ご自身が姿を顕されるとき、臨在、あるいは啓示ともいますが、そこにも、段階が踏まえて書かれることがあります。そのとき、その時代、その場所に相応しい仕方をお選びになるからです。旧約聖書の時代に神様は、独特の仕方でたびたびお姿を人間に著されました。この多様性を逆手にとって、神は複数の存在だ、多神教だ、と神学論争を繰り広げても不毛です。ヘブライ語では、神という言葉を敢えて複数形にして、神の栄光のすばらしさを表現しているのですから、単なる現代的な感覚の単数か複数かという概念では説明しきれません。万軍の主、という言葉もあるように、数の多さは、偉大さの表現です。そこへいきますと、この主の軍の将軍も、エリコでの戦いを前にして、備えを万全にしてヨシュアとともにいてくださる、主なる神そのお方と受け取ってよいでありましょう。Josh_5_14_captain_of_the_hosts_1

興味深いのは、ヨシュアと将軍のやりとりです。ヨシュアが「敵、味方か」と問いかけることにたいし、「いや。わたしは主の軍の将軍である。今、着いたところだ」。という表現です。かみあっているようで、なにか不思議な問答です。これはすなわち、ヨシュアは敵か味方かということを問うことにたいし、「どちらでもない、わたしはあなたの主、あなたが礼拝すべきものである」答えておられることです。そして、「今、着いたところだ」と言われるのは、今、ここにおいて、あなたと共にいるために来たということです。ここも、先日の説教とも深く関わるところです。今、共にいてくださるお方を身近に感じるためには、なによりも礼拝が大切になります。「ヨシュアは地にひれ伏して拝し」ました。もちろん、形をマネして礼拝でひれ伏すことまではしなくてよいのですが、やはり、神様に心から首を垂れる。あなたがわたしの主なる神と、心から思うところに信仰の成長もまた与えられるのでありましょう。

さて、わたしたち新約の時代、とくにプロテスタントの伝統に生きるものは、この礼拝、神の臨在を、どのように考えましょうか。それを紐解くにあたり、主の軍の将軍の言いつけに聞いてみましょう。「あなたの足から履物を脱げ。あなたの立っている場所は聖なる所である。」

ここを解釈して、ヨシュアがその時立っていた場所はどこだ、どこだと探して、その場所を聖地とし、礼拝はそこでしかできないとなると、神様の御言葉から離れることになりかねません。たいせつなのは、「あなたの立っている場所」つまり、いまわたしたちが現実に身を置いているところこそ、礼拝するときに大切な場所となるので、聖別されるべきだ、というのです。

わたしたちの立つところが神様をお迎えする場所とされるということについて、新約の御言葉に手がかりを求めてみましょう。再び第一コリント第三章16節、17節です(新302p)。

 

あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。神の神殿を壊す者がいれば、神はその人を滅ぼされるでしょう。神の神殿は聖なるものだからです。あなたがたはその神殿なのです。

 

このように、わたしたちが聖別されて神様を礼拝する主体とされていることを思い起こし、毎週の主日礼拝も重んじたいところです。

このように、第五章の3つの出来事を、それぞれ見てきました。なにか共通するところを見出すことが出来たでしょうか。そうですね、主なる神への畏れということを念頭に見た場合、関連を持っているということができるでしょう。それはどういうことか。第五章の1節に戻りましょう。さきほど2節から取り上げ始めました。1節に特別な意味がないので無視したのではありません。むしろ、この1節、この章の主題を提示しています。それは、異邦人の王たちが「心が挫けて」しまったということです。イスラエルのカナンへの侵入を受け入れざるを得ないところまで、迫られているということです。「心が挫けて」は「マーサス」という言葉で「心が溶ける」と言う意味だと、第二章のラハブのところでも意味を確認しました。主なる神への畏れのはじめは、まず自分が自分自身の王様であることをやめることです。荒れ野の四十年で死んでしまった人たちは、主を畏れず、カナンの民を恐れて、主なる神様への信頼を失ってしまいました。それはなによりの信仰の旅路で起きる悲しい出来事でした。

このヨシュア記第五章では、見えるしるし、割礼をもう一回施すことで、主なる神への畏れと信頼を失った頃があったと思い起こさせ、その恥をぬぐってくださるお方であることが示されています。そういった中で、主は、はじめは柔らかいマナで養ってくださいました。しかし、いまや旅路のなかで信仰は高められ、堅いものも食べられるように成長させられました。そのように養われたわたしたちのなかに、主なる神は、万軍の主として、宿ってくださいます。これは、いま、わたしたち、イエス様の復活のあとに生きるものにとっては、聖なる霊、聖霊が、助け主として与えられているということになります。そのための、この宿るところ、聖別されたわたしたち自身立っている場所、置かれている現実です。

ところで割礼の問題は、新約の時代にすぐに問題になりました。とくに使徒言行録第十五章では、会議の議題とされて、いったい異邦人伝道に割礼は必須なのか否かが問われましたが、ここで使徒たちは聖霊によって、聖別されたわたしたち自身がすでにしるしであるとさとり、割礼は必須ではないと結論したのであります。割礼ではなく主なる神様の新しい約束、イエス・キリストの十字架と復活にのみ重点を置くことに至った素晴らしい出来事でした。

このように、三つの出来事、新約の光に照らしつつ、主なる神様を、畏れをもってお迎えするという点において、関連しております。これが、エリコへ攻め込む直前、すなわち、わたしたちで言えば、信仰の戦いを始めるにあたって、入念に、主ご自身が共にいてくださることを教えてくださっております。次週は、エリコでの戦いになりますが、そのなかで、わたしたちは「信仰の戦い」という点から、聖書の御心をたずねたいと思っています。今日はここまでにいたします。

 

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