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5月31日祈祷会 ヨシュア記第九章

「 救いはあらゆる国々へ 」

次週に控えた聖霊降臨祭を前にして、わたしたちは祈りを合わせようとしています。そして、今日の御言葉も、神様の恵みによるものなのでしょう。期せずして、イスラエルと異邦人について考えさせられるところがあたりました。ぜひ今日は、聖霊によって異邦人への救いが開かれたことを覚えながら聖書の御言葉に与りたいと思っております。

ヨシュア記第九章が伝えるのは、とくに異邦人であるギブオン人の救いへの熱意としたたかさです。またヨシュアやイスラエル人に、したたかなギブオン人に一杯食わされたような落ち度があったようにも思えますが、これを敢えて主は黙して見守っておられます。ここでの異邦人、ギブオン人は主なる神の偉大な力を伝え聞いて、救いのために賢く振る舞いますが、それは第二章のラハブに通じるものがあります。ただし今回はさらに大きく、部族と周辺国家単位です。ギブオン人の救いを求める賢い様と、なぜ主なる神はそれを受け入れられたか、その点について、次週の聖霊降臨祭にもつながるところを見ていきたいと思います。

①反抗的な他民族に比べて、ギブオン人が図る救いのため賢い振る舞い(1-13節)

1-13節までのところには、ギブオン人が救われるために、4節にあるように「賢く立ち回った」様子が描かれております。1節にありますように、このとき、ヨルダン川西岸にいた「ヘト人、アモリ人、カナン人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人の王たち」は、集結して、イスラエルに戦いを挑もうとしています。これに反して、ギブオン人は救われたいと願い、「賢く立ち回ります」。

4bから6節までがギブオン人の考えた方法について書かれているところです。救いを選んだギブオン人の賢さがここに記されている。古びた格好で、ぼろぼろのパンを携えてきたということでした。本当は、ギブオン人は近く住んでいた部族でした。イスラエルに反抗している国々とおなじところに住んでいる人たちです。なぜ、近くにいるのに遠くの国から来たものと偽ったのでしょうか。その理由は24節であきらかにされます。さきに読んでおきます。彼らはヨシュアに答えた。「あなたの神、主がその僕モーセに、『この地方はすべてあなたたちに与える。土地の住民をすべて滅ぼせ』とお命じになったことが僕どもにはっきり伝わって来たので、あなたたちのゆえに命を失うのを非常に恐れ、このことをいたしました。「彼らは「土地の住民をすべて滅ぼせ」という主なる神様の御命令と、それを徹底して守ろうとするイスラエルを知っていました。近くに住んでいることを隠す必要がありました。

ところで、結局、このギブオン人の嘘はばれるのでありますが、重要なことは、イスラエルを欺き続けることではありませんでした。一次的にイスラエルを欺いてでも、6節にある「協定」を結んでおきたかったのです。ここでギブオン人にとって重要なことは、「神の御前における協定」を結ぶことでした。すなわちイスラエル人との個別の約束をするだけにとどまらず、神の御前に新しい約束を取り付けようとしたのでした。この協定という言葉、בְּרִית:ベリート、アブラハムやダビデを通して、主なる神様がイスラエルと結ぶ「契約」と同じ言葉です。当時の社会にあってこのベリートを神の御前に結ぶことは決定的なものがありました。現代的な感覚では、契約書に判をついて法的効力を持てば、違反すると罪に問われます。これと同様に、神の御前に一度契約を結んだ場合、これに反すれば、人ではなく神に反したことになります。ギブオン人は、とくに神の御前に忠実であるイスラエルとの協定であれば、彼らは決してそれに違反することはなく、保護してくれるだろうと、そこまで見込んだのでした。

②ギブオン人の賢さが勝った。ヨシュアたちの対応を見守っている神様。(14-20節)

さらにギブオン人が用意周到なことは、10節では彼らは、シホンとオグという申命記第二章、第三章に記される事柄は知っておきながら、エリコとアイについての戦い、最近のことは口にしません。ここで、エリコとアイのことに言及すれば、「なぜ、お前たちは遠くから来たはずなのに、そのことを知っているのだ」と疑われたことでしょう。結果として、ギブオン人の知恵が勝利します。イスラエルとの協定を引き出したのでした。1415節です。9:14 男たちは彼らの食糧を受け取ったが、主の指示を求めなかった。9:15 ヨシュアは彼らと和を講じ、命を保障する協定を結び、共同体の指導者たちもその誓いに加わった。

この「主の指示を求めなかった」という言葉は、第七章のアイではじめに敗北したときのことを思い出していただければと思います。大事なポイントです。あまりいい意味ではありません。異邦人が和を求めてきているのですから、主なる神様に判断を仰ぐ必要があったでしょう。しかしヨシュアは彼らの言うことを信じ、命を保証する協定を結びました。

やがて16節以降で、彼らが遠くから来たというのは真っ赤な嘘で、じつは滅ぼされるべきカナン人の一部族であったことが判明しました。わたしたち現代人の感覚ですと、「事前情報に重大な虚偽があったので契約は無効」と考えたいところです。18節、19節は、イスラエル共同体が「あの者たちは嘘つきではないか」と、非難するのですが、攻撃はしません。それほどに、神様の御前に契約を結んだということは重大なことでした。19節、20節はとくにヨシュアの判断が光るところです。指導者たちは皆、共同体全体に言った。「我々はイスラエルの神、主にかけて彼らに誓った。今、彼らに手をつけることはできない。9:20 我々のなすべきことはこうである。彼らを生かしておこう。彼らに誓った誓いのゆえに、御怒りが我々に下ることはないだろう。」

つまり、ここの状況とは神様の御命令と、神様のまえに結んだ契約の内容が相反している状況が形成されてしまったことです。先に示されていた神様の御心は、「カナンの民を滅ぼし尽くせ」でした。後に結ばれたギブオン人との契約は、「彼らの命を保障する」ものでした。なんとしたことか、神様の契約にもこういった矛盾が生じることがあるのでしょうか。そうではないと思います。まず見るべきは、14節の「主の指示を求めなかった」という言葉についてです。これはたしかに、さきほど触れたように、第七章のアイでのこととも含めて考えれば、大切なときに主の指示を求めなかったという責任を問われる事がらかもしれません。しかしながら、ヨシュアの立場を弁護するとすれば、彼は、命を救ってくださいと言って、しかも遠くの国からわざわざ出かけてきた人々に対して、寛容な態度を取ったのでした。これをヨシュアの不注意として非難するのか、ギブオン人が救いを勝ち取るために知恵を尽くしたところを見るかは、意見の分かれるところかもしれません。第二章のラハブの一件ではどうでしたでしょうか。遊女ラハブも、一族の救いのために必死でした。危険を犯してエリコ王に嘘をついたことです。そのときにも申しました通り、ぜひ目的とそれによって実現したところを見たいと思います。結果として、イスラエルにとっても無益な殺生をせずに済み、ギブオン人は命を助けられて、奴隷ではありますが、共同体の一員となりました。その結果を考えると、主なる神様は、主の指示を求めなかったヨシュアの判断の下し方を、天から見守っていたのではないかと思われる節があります。たしかに言えることは、ギブオン人が救われることを、お認めになったことです。一件、神様のもともとお命じになったことと、あとに結ばれた協定のあいだに矛盾があるように思われますが、生きておられる神は、もっとも大事なことを優先されます。ここでは、団結してイスラエルに敵対する部族もあったなかで、命の救いを得るために知恵を尽くしたギブオン人への救いが優れたものとされたのでした。

③結果からみて、異邦人への救いの道が開かれている。新約の兆し。(21-27節)

 かくしてギブオン人は主の民の一員となりました。21-27節のとこです。しかも奴隷ではありながら、光栄ある祭壇に仕えるものとされました。呪われたうえでに「奴隷」と言うことですが、イスラエル共同体にあって奴隷は決して粗雑に扱われるものではありません。呪いという言葉は、אָרַר:アーラルという言葉で、神様に強く結びつくという意味も含められています。ギブオン人は神様の御手のうちに置かれ、祭壇に仕える異邦人として、イスラエル共同体のなかで生きることになります。

 最後に、こういった旧約聖書にあっても異邦人が救われていく出来事をどのように考えていくか、次の聖霊降臨祭を前にして分かち合っておきたいと思います。すなわち、この聖霊降臨によって、教会はユダヤ人のみの救いから、異邦人の救いに向けて、主の宣教を担うことになるからです。

旧約聖書を読み進んでいきますと、イザヤ書以降には、ユダヤ人以外の諸外国の民が、救われて主なる神様を礼拝する民とされる預言がされていきます。いくつかあるなかで、一つ、今日共にお読みするに相応しいところを紹介します。ゼカリヤ書第八章23節をお開きください。旧1488pです。万軍の主はこう言われる。その日、あらゆる言葉の国々の中から、十人の男が一人のユダの人の裾をつかんで言う。『あなたたちと共に行かせてほしい。我々は、神があなたたちと共におられると聞いたからだ。』。

神様を礼拝する民を見て、ほかの国々の人々もそれに集おうという姿です。そして新約聖書になりますと、異邦人への救いの道はさらに豊かになります。異邦人への救いにつきまして、イエス様は言われました。「すべての民をわたしの弟子にしなさい(マタイ2819)」「その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる(ルカ24:47)」。また聖霊降臨のあとに語られたペトロの説教にはこのような言葉がありました。「この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです(使徒2:39)」。旧約聖書では、イスラエル、すなわちユダヤ民族の救済が主たる目的とされていましたが、新約の時代になって以降、聖霊によって導かれる教会には、すべての国に救いを語るという使命が委ねられました。異邦人伝道への道筋が明らかになったのです。

思えばわたしたち日本人は異邦人の際たるものと言えるでしょう。新しくは北米の長老派、改革派の宣教師に負うところがあり、古くは、フランシスコ・シャビエールやルイス・フロイスなどイエズス会の宣教に負うところが大きいものです。彼らの宣教に懸ける熱意は、かつてはイスラエルを救い給う同じ主なる神様の宣教への熱意と源を同じくするものです。そして旧約聖書にも、救いは異邦人のみに向けられたものではないという使信がいつくも伝えらえているものです。ある神学者の方は、こういったものを「旧約に見る、新約の兆し」という表現をします。的を射た言い方だと思います。そういったことで本章は、救いはユダヤ人のみに向けられたものではないという、新約の兆しを伝えるところとなります。

さきほどギブオン人は奴隷となって主の祭壇の御用に仕えたということでした。これを否定的にとるか、それとも異邦人であるわたしたちが共感をもって受け取るかです。パウロは自分を「キリストの奴隷」と言いました。主なる神様の奴隷として、礼拝に仕えるものとしてイスラエル共同体の一員とされたのであれば、どうして悲しいことがあるでしょうか。わたしたちは、異邦人でありながら、こうして救われて主に仕えることとなった奴隷ということで、ギブオン人への始末を、共感を持って読んでいいと思います。本来はイスラエルのみが選ばれて救いわれるはずであったが、多くの異邦人の先達が、救いを得るにあたって必死でありました。やがて主の御心は聖霊によって明らかとなり、使徒たちの働きによって異邦人にも救いの道は開かれました。次の主日、こういったことも心に留めて、礼拝をささげたいと願うものです。

 

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