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6月14日祈祷会 ヨシュア記第十三章

「 世代を超えて導かれる主 」

 前回の第十章では、協定を結んだギブオン人がイスラエルに助けを求めるところが記されていました。エルサレムの王アドニ・ツェデクがイスラエルに反旗を翻し、ほかの四人の王を焚き付けてギブオン人を討とうとしたからです。主なる神様はその助けを聞き届け、戦いに先立ち、ギブオン人を助けました。そして五人の王はかえってうち滅ぼされることになりました。

 今日は、十章の後半から十二章までのところは簡単に見るだけにとどめ、第十三章から見ていきたいと思います。その理由は、それらの章で伝えようとしているテーマが似ていることによります。要点を抑えれば概ねご理解いただけるところです。まず十章と十一章の似ているところ、それは、カナンに先に住んでいた民族の王が、イスラエルに反抗して連合軍を形成し、イスラエルに戦いを挑むという話の流れです。異民族の連合軍にたいして神様はヨシュアを導き守り、見事、イスラエルは敵に打ち勝ちます。Joshuaoldtestament_1318225_inl

このように似たように思える戦の成り行きです。一点だけ異なるところがあるのでそこだけ、抑えておきましょう。それは、十章でイスラエルが勝って手に入れた土地と十一章のそれは、のちの時代の南北イスラエル王朝の版図を示しているという点です。

 聖書にはイスラエルの土地の名前がカタカナで示され、たくさん出て来るものですから、なかなかそこがどこなのかイメージしにくいところがあります。このヨシュア記の戦いのなかで示されている土地は、十章ではのちの南ユダ王国、十一章で勝ち得た土地はのちの北イスラエル王国だということで理解してよいと思います。のちのユダヤ人にとっては、こういった地名が出て来たとき、そこはどこなのかすぐわかったでしょう。十章、十一章を読んだときに、ダビデの南北王朝の領土が、だいたいこの頃に基礎づけられたんだなと、頭に地図を思い浮かべながら、理解したのかもしれません。

次に第十二章の要点です。小見出しにあるように、ヨルダン川の東側と西側のそれぞれで征服された王たちの名前が列挙されています。1節から6節までの前半が東側にあたるところの説明になっています。2節に「アモリ人の王シホン」、4節に「バシャンの王オグ」とあります。これは、ヨルダン川を渡る前、まだモーセが存命だった頃にすでにうち滅ぼされた王たちです。申命記第一章、第二章に登場する王たちです。次に、ヨルダン川の西側、すなわちヨシュア記の第三章でヨルダン川を渡ったあとに、神様に導かれたイスラエルが征服した王たちが、7節から24節のところに並べ挙げられているとおりです。前半の東側の王と違うのは数です。東側では二名の王でしたが、西側では最後に合計数が書かれています。31名。圧倒的な数の王とヨシュア率いるイスラエルは戦い、勝利してきました。モーセの頃はもっぱらカナンまで移動すること、荒野の旅路をへてヨルダン川までたどり着きました。一方で、ヨシュアの頃は戦いつづきであったと、この違いが見て取れます。

人生のほとんどをカナンの地での戦いに身を置いたヨシュアでした。かつては若者であったヨシュアも老境の域に差し掛かっております。そして、第十三章がはじまっていきます。

 

①次の代へと引き継がれていく教会の役目

1節から7節まで、ながい言葉で主がヨシュアに語っておられます。出だしはこうでした。「あなたは年を重ねて、老人となったが、占領すべき土地はまだたくさん残っている」。このように主なる神様が、ヨシュアに語られるのはなぜでしょうか。「ヨシュアよ、まだ、あなたの仕事はたくさん残っていますよ、もっと働きなさい」と叱咤激励されているのでしょうか。

そのように取ることも出来ると思います。6節には、残された土地を並べ挙げたうえで、「わたしは、イスラエルの人々のために、彼らすべてを追い払う」と御語りになります。これまでと同様です。「雄々しくあれ、わたしはあなたとともにいる」とヨシュアにたびたび語られた神様でした。ここまでの勝ち戦、主なる神様がいたからこそ、進めて来られたものです。「これからも、イスラエルのためにわたしはともにいて戦う」と示されている。そのように考えれば、ヨシュアにとっても心強い限り、わたしの務めはまだまだこれから、と奮起したかもしれません。

もう一つ言えることは、神様がご支配されようとする領域は、わたしたち限りのある人生の歩みをいくものにとって、世の終わりまで常に、残されているものだということです。

ここで、神様が言われる「約束の土地」、あるいは「嗣業の土地」が、わたしたちにとってはなにを意味するのか、を考えてみたいと思います。旧約聖書のみで読み取れば、「嗣業の土地」はまさしく「神様から譲られた土地」、具体的な領土です。聖書で示される嗣業の土地は、じっさいのパレスチナを指します。そのように考えたとき、これまでの歴史のなかでたびたび迫害され世界に散らされてきたユダヤ人は、20世紀のなかばに、ようやく約束の土地、現在のイスラエルを手に入れました。それは良いのですが、政治的な問題が残り、ほかのアラブの国々と戦争を繰り返してきたことです。「嗣業の土地は実際的な領土獲得のことを指している」このような理解は、わたしたちキリスト者にはできません。地上における実際の領土を切り取るために神様は進んでいかれるという理解になれば、たとえばかつての十字軍のようになってしまうでしょう。

ここでも、わたしたちが考えたいことは、神様が新約において示したもう、わたしたちが導かれてくところです。神様のご支配が至るところ、それは「神の国」でありましょう。新約聖書には「神の国」あるいは「天の国」という記述が多く記されます。それらに含められた意味は、広く深いものがあります。そのなかで、神様のご支配される「神の国」が、実際の領土のように見える形で「ここだ、あそこだ」と言えるようなものではないと言われるところを見ておきたいと思います。ルカによる福音書第1720,21節(新143p)をお開き下さい。

ファリサイ派の人々が、神の国はいつ来るのかと尋ねたので、イエスは答えて言われた。「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」

この御言葉は神の国とはどういうものか、分かりやすく示したものではないでしょうか。世俗における王国の定義は、領土を持つことがまず挙げられますが、神の国が示すものは、支配の主権がどこにあり、それに従う民がいるかどうか、このことが重要です。いまわたしたち、ここに集っておりますが、信仰を与えられ、イエス・キリストこそが、唯一の主と告白いたします。このような群れがいるところ、その交わりのなかに、領土としては見えないけれども、神の支配が及ぶところ、「神の国」があるということなのです。

さて、そのように考えれば、もうすこし範囲を広げて、教会ということで考えたとき、いかがでしょうか。岐阜教会、郡上八幡伝道所は、主なる神をあらゆる権威のうえに戴いていますから、「神の国」がすでに来ていると考えられるかもしれません。そうして、わたしたちは、いまも生きておられる主なる神様の導きにより、約束の土地へと向かっている最中にあるということです。そのなかで、わたしたちの限りのある人生の途中では、神の国の完成を見ることなく役目を終えることがあるかもしれません。これまでわたしたちの信仰の先輩方がそのようにして御国にお帰りになったように、その後の世代であるわたしたちには、「神の国」にまつわる役目が委ねられてきました。

ヨシュアに主は、「あなたは年を重ねて、老人となったが、占領すべき土地はまだたくさん残っている」。このように声をかけられる主は、忠実なる僕の一人、ヨシュアに、これからもわたしが常にイスラエルとともにおり、残りの約束の土地も与えるであろうと言われておられます。すべて完成させなければ、あなたの役目は終わらないとは言われないのです。このように、教会に委ねられた、神の国の到来を告げ知らせる役目、あるいは、神のご支配にある地上の神の国としての役割は、主が見届けてくださりながら、次の世代へと受け継がれていくということであります。

②教会の祭司職はいま、イエス・キリストが司っている

こうして残りの約束の土地に関しても、必ず与えると、ヨシュアと約束してくださった神様でした。8節以降には、イスラエルの部族のなかに、すでにヨルダン川を渡る前の東側の土地を与えられた部族が記されており、さらには、嗣業の土地を与えられない特別な部族に触れられています。東側に土地を得たのは、ルベン、ガド、そしてマナセの半部族でした。なぜ半部族と言うかと言いますと、マナセ族は二つに分けられて、半分は東に、半分は西に飛び地のようにして土地を与えられたからです。

 ルベンとガドの二部族の土地の分配については、すでにモーセによって安堵されていました。そこを開いておきたいと思います。民数記第3231-33(271p)をお開けください。

 ガドとルベンの人々は答えて言った。「主が僕どもに語られたとおりにします。わたしたちは主の御前に武装して、カナンの土地に渡って行きますから、わたしたちの嗣業の所有地は、ヨルダン川のこちら側になりましょう。モーセは、ガドとルベンの人々、ヨセフの子であるマナセの半部族に、アモリ人の王シホンの王国、バシャン王オグの王国、すなわちその領内にある土地と町々、およびその周辺の町々を与えた。

 マナセの半部族もこれに加わりました。こういった次第で、約束通り、ルベンとガド、マナセの半部族はすでに東側に土地をもっていたのでした。したがって、西側に土地を与えられる約束をされているのは、12からひくこと2.5、残りの九つと半分の部族だったというわけです。

 そして最後に触れられる、嗣業の土地をもたない部族、これがレビ族でした。彼らは、もっぱら祭儀に仕えるための部族でした。彼らはイスラエルの歴史のなかで祭儀に仕える一族として、として位置づけられます。その祭儀のなかで得られるものが、彼らの生活を支えていたということです。したがって土地を持たなかったということです。

 ところで、このレビ族は、新約聖書にも出て来ること、覚えておいででしょうか。ルカによる福音書第十章、善いサマリア人のたとえのところで、追剥にあった人を見捨てる二人目の人が、レビびとだったといいます。イエス様の頃にはこのレビびと、形骸化した神殿祭儀に仕えるだけの役目になってしまっていたようです。たとえ神の礼拝に専従する聖別された仕事につかえていても、このイエス様のたとえが示すように、隣人を愛する心を失っては、ほんとうに助けを求めている人を見捨てる。そのような宗教的偽善を、イエス様は戒められているようです。

 さらにイエス・キリストの贖いの業は、レビ族のように神殿祭儀にもっぱら仕え、悔い改めのたびに犠牲を捧げ、罪の赦しを与えることはもう必要ないと言われます。すなわち、ただ一度限りの十字架の贖いによって、もう赦しは与えられているという、新しい契約を与えてくださっているのです。そこも聖書を開けておきましょう。ヘブライ人への手紙、第721節~25節です。

 この方は、誓いによって祭司となられたのです。神はこの方に対してこう言われました。「主は誓われ、その御心を変えられることはない。『あなたこそ、永遠に祭司である。』」このようにして、イエスはいっそう優れた契約の保証となられたのです。また、レビの系統の祭司たちの場合には、死というものがあるので、務めをいつまでも続けることができず、多くの人たちが祭司に任命されました。しかし、イエスは永遠に生きているので、変わることのない祭司職を持っておられるのです。それでまた、この方は常に生きていて、人々のために執り成しておられるので、御自分を通して神に近づく人たちを、完全に救うことがおできになります。

 ヨシュア記にお戻りください。最後の14節のところ、「主に燃やしてささげる献げ物が彼の嗣業であった」とあります。礼拝をつかさどり、神様に献げ物をすることが、レビ人の仕事でした。ところが、イエス・キリストが来られ、十字架によって一度きりの罪の贖いの業はすでに献げられました。ヘブライ人の手紙には「イエスは永遠に生きているので、変わることのない祭司職を持っておられる」という言葉がありました。ここから、わたしたちが捧げる礼拝には、永遠に生きておられる大祭司イエス・キリストがともにおられ、礼拝が聖なる神様に献げるために相応しいものとなるようにと導いてくださっていると理解することができます。

 ヨシュアは年を重ねて、次の世代へと約束の土地に向かうための務めを、引き継がせることになります。しかしそこには変わらぬ主なる神様の導きがありました。このように、イエス・キリストが永遠の大祭司として礼拝をつかさどってくださるからこそ、世代を超えても、神様に相応しい礼拝が形成され、約束の土地への旅路は守られていくことになります。日本キリスト教会の宣教の業、岐阜教会、郡上八幡伝道所の宣教の業もそうです。これからも百五十年、二百年と続いていくようにと、心から願っています。残された役目はどれほどあるのだろうと考えてしまうこともありますが、永遠に生きておられるイエス・キリストが必ず、次の世代を起こし、大祭司として礼拝の業を必ず導いてくださる。そのことに希望を抱きながら、神の国の広がりに喜びつつ、歩んでいきたいと願います。今日はここまでといたします。

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