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6月21日祈祷会 ヨシュア記第十四章

「 救いを大胆に求めよう 」

 第十四章は、第二十一章まで続く、約束の土地の分配についての長い記事の、序文です。1節「イスラエルの人々が、カナンの土地で嗣業の土地として受け継いだのは、次のとおりである」と語られる、「次のとおり」は、この十四章から二十一章の分配全体を指しています。その分配にあたって、祭司エルアザルとヨシュアがくじを使って割り当てたということでした。小見出しにあるように、「ヨルダン川の西側」、1節から5節までが、序文の前半。そして、後半は、一番はじめに分配が行われたのが、カレブという人物であったということです

 

 今日は、第二十一章まで続いて行く土地の分配のはじまりにあって、あらためて12部族の成り立ちと、この章に登場するヨシュア、エルアザル、カレブの出自を確かめ、そこに見られるそれぞれの務めに含まれる意味を訊ねます。またカレブという人物がなぜ、個人的にまっさきに土地の分配に与ったのか、彼の生涯に関わるところを見ながら、主に約束を願い求める姿についてみていきたいと思います。

 土地の分配が十二部族になされていきます。先週見ましたように、ルベン族、ガド族、マナセの半部族には、ヨルダン川の東側に土地が与えられていました。残りの九つと半分の部族には、西側の土地が分け与えられていきます。

 

 この十二部族、もともとはヤコブの十二人の息子たちから始まる部族です。どうぞ、こちらの図をごらんください。(別表)。ヤコブには、二人の正妻、それから二人の傍女がいました。御覧のとおりですが、ヤコブは四人の女性との間に十二人の息子を設けます。この兄弟のなかで、ヨセフは、エジプトで身を立てました。その息子たち、マナセとエフライムが部族を形成します。それだと十三部族になるのではないかと思われますが、レビ族がもっぱら祭儀に仕える部族として、土地の分配からは外されることとなりました。

 

 この下の図が示すように、レビ族から、イスラエルの人々を霊的に指導する役割を担うものとして、モーセとアロンの兄弟が生まれます。さらに、アロンには何人かの息子が与えられました。ところが、長男アビブと次男ナダブは、荒野の旅路のなかで、律法に違反したかどで命を落としてしまいました。この当時の祭儀に仕えるものへの厳しい戒めが窺がえます。ですから、このヨシュア記第十四章で、ヨシュアと一緒に土地の分配の務めにあたったのは、三男のエルアザルでした。「神はたすけたまえり」という意味の名前です。一緒にここで、ヨシュアとカレブの出自も見ておきましょう。ヨシュアはエフライム族の出身です。またカレブは、ユダ族の出身です。先週は、ダビデ王朝の領土についても言及しました。さきに南ユダ王国の土地を、つぎに北イスラエル王国の土地を征服したということでした。ここで、巻末の地図も一緒に見ておきたいと思います。地図番号の3「カナンへの定住」。ここに、それぞれの部族が与えられた土地が示されています。この地図でいえば、南ユダ王国は、ユダ族とベニヤミン族の土地から成り立ちます。残りの北側の領土が、のちの北イスラエル王国の領土になりました。

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 以上が、十二部族の成り立ちと土地の分配の関係です。この十二部族の土地の分配方法について、気になる言葉がありました。2節の「くじ」で決めたということです。覚えておられるでしょうか、第七章でアカンという人が、ささげるべきものをくすねるという事件がおきました。このとき、咎人のアカンを探し出すために用いられた方法も、同じ「くじ」であったと言われます。この当時の「くじ」と言われるものは、ウリムとトムミムという白と黒の石であったと言います。旧約の時代、人間の恣意性を一切排除したところに、神の意志が働くという考え方がありました。このクジで神様の御心をたずねるという仕方は、使徒言行録の時代まで残っていたことが聖書に記されています。この「くじ」というものをどう考えるについて、一つの考え方が示されているので、開けておきたいと思います。使徒言行録第一章、26節(新214p)をお開き下さい。ここは、裏切り者のユダが欠けて十一人になった使徒に、新たに一人加えるにあたり、人を選ぶところです。26節を読みます。

 

二人のことでくじを引くと、マティアに当たったので、この人が十一人の使徒の仲間に加えられることになった。

 

 このように、「くじ」によってマティアが選ばれました。では、「くじ」で神様のみ旨をたずね、物事を決めるのは教会のやり方なのかといいますと、そうとも言えません。むしろ今は、聖霊の助けをいただきながら、祈りつつ、み旨を教会全体で考えていくことが適切でしょう。なぜならば、このマティアの選出のあとに、聖霊が降り、以後、使徒たちは聖霊に導かれながら教会の歩みを定めていくからです。古い時代、「くじ」は神様のみ旨をたずねる仕方として認められているものでしたが、いまや聖霊の時代となり、より、神様が示してくださる知恵を祈りもとめながら、話し合いによって定めていくことへ、新しくされていったと受け取ることが出来ると思います。わたしたち長老主義をとる教会も、小会においてまず祈り、合議したうえで物事を進める伝統を重んじているものです。

 

 どうぞヨシュア記にもどってください。以上ここまで、十二部族の土地の分配についての序文にあたるところを見てきました。つぎに、具体的に土地の分配に入っていきます。そこで、まず土地の分配をうけるのが、このカレブという人物であったということです。

 

 6節にあるように、カレブは大胆にも、自分から土地の分配を申し出ています。1頁めくって12節では彼はこう言います。「どうか主があの時約束してくださったこの山地をわたしにください」。どうでしょうか、土地の分配にあたって彼は自ら求めています。しかも、カレブはユダ族出身ですが、ユダ族にも、のちほど土地が与えられます。いうなれば、彼は個人的に土地を求めています。このカレブの求める姿が、欲深いものなのか、それとも、正当なものを神様にもとめる姿なのか、確かめたいところです。

 

 6節から9節を読みますと、カレブは自分の生涯にあった出来事を語りながら、主がモーセを通して、カレブの土地を約束したことを、主張しています。この出来事は記されているところを開いておきたいと思います。申命記第一章34-36節(旧281p)のところです。この少し前のところには、カデシュ・バルネアやアナク人など、カレブが求める地名と土地の人のことが記されています。そして、ヨシュアとカレブ以外の偵察にいった人たちは怖気づいたことも記されていました。そのうえで、カレブが主なる神様に認められているところです。

 

 主はあなたたちの不平の声を聞いて憤り、誓って言われた。「この悪い世代の人々のうちで、わたしが与えると先祖に誓った良い土地を見る者はない。ただし、エフネの子カレブは例外である。彼だけはそれを見るであろう。わたしは、彼が足を踏み入れた土地を彼に与え、その子孫のものとする。彼は主に従いとおしたからである。」

 

 このゆえに、カレブは正当に土地を求める権利を与えられたのでした。いうなれば、カレブは、ヨシュアとともに、主なる神様に信頼する心を失わず、正しく自ら見て来たところを報告し、約束の土地へ入る勇気を失わなかった、神様の御心にそう人物であったということがわかります。これほど強く主に信頼する心をもっていたカレブでしたから、主の約束が果たされることについても、強い信頼をもっていたということになります。

 

 さて、ここで、主に信頼する心には、どこまでも着き従っていくことだけではなく、主なる神様が与えると約束してくださるものは、大胆に受け取る姿も大切であることがわかってまいります。とくに考えるべきは、ヨシュア記は、イスラエルの共同体の姿から、神様に救われる群れとはどういうものかをたずねることが一つの大切な読み方でした。そのことを考えますと、主なる神様が与えると約束されたものを、神様に祈り求めることは、救いを確かなものとするために、正当なものであることがわかります。神様が救いに関わることで与えると言われるものについては、遠慮や斟酌は必要ないということになります。

 

なかなか、神様に大胆にも、「約束してくださったものを与えてください」と祈り願うことには、躊躇も覚えることかもしれませんが、このことは、新約聖書でも言われていることです。しかも、わたしたちには、このときカレブがヨシュアを仲立ちとして、嗣業の土地の分配を求めたように、神様には、イエス・キリストを仲立ちとして、救いの恵みを願い求めることが、奨励されています。そのことが明白に語られているところ、ヘブライ人への手紙第4章の14-16節(新405p)をお開きください。

 

 さて、わたしたちには、もろもろの天を通過された偉大な大祭司、神の子イエスが与えられているのですから、わたしたちの公に言い表している信仰をしっかり保とうではありませんか。この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。

 

 思えば、わたしたちの救いとは、わたしたちからなにか為した素晴らしい功績によって、いただくものではありませんでした。ここで言うところの「憐みを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただく」ことは、やはり祈り願ってはじめて、与えられるものだということを、あらためて覚えるものです。それはけっして、厚かましい願いではなく、むしろ主なる神様がそれを望んでおられることでした。どうにも、自らの力では救いを得ることができない人間。そのために、イエス・キリストが「わたしたちの弱さを知るお方」として、遣わされたわけです。ですから、カレブのように、神様が一度約束された「救いを与える」ということについては、「どうぞ約束を果たしてください、救いを、そして恵みを一層与えてください」と願うことは、イエス・キリストが仲立ちをしてくださっている以上、神様がお喜びになることでありましょう。

 

 こうしてカレブ、ヨシュアとともにもっとも主に信頼した一人の人の願いからはじまり、土地の分配がはじまっていきます。そして分配が終わったところで、ヨシュアの人生をかけての与えられた役目の終わりも見えてきます。ヨシュア記、後半に入ってきました。十二部族の分配のなかで、語られていることを、引き続きたずねていきたいと思います。今日はここまでといたします。

 

 

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