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6月7日祈祷会 ヨシュア記第十章

「 信仰の戦いに先立たれる神 」

 第九章では、ギブオン人は主なる神様の御前に進み出て、イスラエルと協定を結びました。エリコ、アイと戦続きだったイスラエルの歩みのなかで、主の礼拝に新しい民が加わったのです。しかも、ギブオン人は異邦人でした。神様が「救いを求める異邦人」にも道を示されるお姿、新約聖書に顕れていく異邦人への救いの兆しがすでにあったことの証しと言えるでしょう。聖書に豊かに蓄えられている神様のご真実は、わたしたち人間が理解できるように、少しずつ啓かれていく仕方を取ります。神学的な言い方で、これを「啓示」と言います。英語ではリベレーション、ラテン語では revēlre 「ベールを取る」から来た言葉で すが、覆いが少しずつ取り除かれて、真実が明らかにされていく様子を示します。このように、聖書は、新約聖書と旧約聖書を交互に参照しながら読み深めることで、神様の御心は明らかにされていきます。

今日も、新約聖書をところどころ参照しながら、読み進めていきたいと思っています。この第十章では、ギブオン人がイスラエルと協定を結んだことを受けて起きた出来事が記されています。このことについて、エルサレムの王アドニ・ツェデクがまず反応を示します。彼は他の王たちを誘って、ギブオンの住民たちを撃とうとします。第九章では、イスラエルはギブオン人の命を救うという協定を結びました。彼らを保護する責任が生じたわけです。しかもそれは主なる神様の御前で結ばれたものでした。こうして、協定を結んだ住民を保護するため、イスラエルは五人の王たちと戦うことになります。

聖書における戦いの描写について、前回も申し上げました。読み方を間違えると戦争の肯定につながりかねません。ですから、なにがイスラエルの救いにおける神様の証しとして、本質であるかを訊ねていくことが大切になってまいります。まず、五人の王たちがとった判断はどうだったのか。また、彼らとの戦さのなかで、神様はなにをしておられるか、その点を中心にご一緒に読み深めていきたいと思います。

①王たちは既得権を守ろうとする。「王」と「住民」Hippolyte_flandrinmelchizedek_offerの対比のなかで考える「王」の存在

第十章のことの発端を作ったのは、エルサレムの王アドニ・ツェデクという王でした。ヨシュア記からさらに古く遡りますと、エルサレムはアブラハムの頃にすでにあった町でした。創世記第二十二章でアブラハムがイサクをささげたモリヤの山は、エルサレムにありました。いまもエルサレムでは「ここがモリヤの山です」と紹介されています。またさらにさかのぼると、同じく創世記第十五章では、アブラハムを祝福するメルキゼデクという王が登場します。ここは聖書を開けておきたいと思います。創世記第十四章18-20節(旧18p)を開けてください。

いと高き神の祭司であったサレムの王メルキゼデクも、パンとぶどう酒を持って来た。彼はアブラムを祝福して言った。「天地の造り主、いと高き神にアブラムは祝福されますように。敵はあなたの手に渡された。いと高き神が讃えられますように。」アブラムはすべての物の十分の一を彼に贈った。

このサレムという町がやがてエルサレムと呼ばれるようになりました。すこし、このあたりは大事な言葉なので、成り立ちを見ていきます。もともとサレムは、「שָׁלַםシャーラーム」、「完全にする、平和にする」という意味の動詞から来た地名でした。そして、シャーラームが呼びかける形に変化すると、シャロームになります。これは現代のイスラエルでも使われる、「平和がありますように」という挨拶です。ではエル・サレムとなれば、どういう意味になるか。エルはヘブライ語で、神様という意味でした。ですから、エルサレムは「神様の平和」という意味になります。ちなみに、イスラム教徒の挨拶である「アッサラーム・アレイクム:あなたの上に平和がありますように」の「サラーム」は、シャロームと同じ源を持ちます。平和があるように、との挨拶は、世界中の願いとなっていったと言えると思います。

ところが、このエルサレムの王は、その名に反して、平和を願いません。アドニ・ツェデクという名前の王様です。ここでも、この名前の意味は、聖書でも良く出て来る大切な言葉なので、見ておきます。もうお気づきの方もいるかもしれません。聖書でツェデクと言えば、口語訳では「義」と訳された言葉、新共同訳では「恵みの御業」とも訳されますが、あのツェダカーのことです。アドニはなんでしょうか。これは旧約聖書で「主」と訳されている言葉です。旧約のイスラエルの民は、十戒の第三戒「主の名をみだりに唱えてはならない」を頑なに守るため、ヤハウェという神様の御名前を唱えず、一般名詞の「ご主人様」を顕す、「アドナイ」という言葉で、神様に呼びかけていました。「ヤハウェ」という御名前がすべて「アドナイ」で置き換わってしまったため、ほんとの神様の御名前の呼び方がわからなくなったほどです。それはさておき、「アドナイ」は「主」という意味、そうすると、アドニ・ツェデクは「主の義」あるいは「主の恵み」と訳されるほどです。

なんでそんな素晴らしい名前を持っているのに、イスラエルに反抗したのだろうと思われるかもしれません。一つの理由には、ツェデクという名前は、さきほど創世記第十四章で触れました、メルキゼデク以来の称号になってしまったのではないかということがあります。メルキゼデクの名前も詳しくみると、メルキは「王」という意味で、ツェデクが「義」、つまり「義の王」となりますが、彼以来、エルサレムを治める王は、ツェデクの称号を引き継ぐようになったのではないかということです。

もう一つに考えられることは、アドニ・ツェデクがその名に反して、人間的に王の立場に固執したということでしょう。ここは単純に考えて、名前の通りに「主の義」を重んじるのではなく、彼は個人的に王という立場に支配されたということです。なぜ、そう言えるかと言いますと、彼は、その他の四人の王に誘いをかけて、ギブオン人を撃とうと画策しています。王の立場を守るために、それまで同じ地にあって生きて来た住民にたいして、矢を引こうとするのです。ここで、第一節では「ギブオンの住民」と書いてあるところがポイントです。アドニ・ツェデクは王という立場によって、他の王たちに声をかけ、住民を撃とうとするのです。

②救いを求める声に必ず耳を傾けられる神 

 ギブオン人へ五人の王が同盟を組んで攻撃を仕掛ける。これは数に頼んでの攻撃で、ギブオン人は一気に窮地に立たされることになりました。五人の王が5節にあるように「その全軍勢は連合して攻め上り、ギブオンに向かって陣を敷き、戦いを仕掛けた」というのです。

 ここで6節のギブオン人が語る言葉は、見るべきものがあります。「あなたの僕から手を引かず、早く上って来て、わたしたちを救い、助けてください」。彼らは、窮地に立たされても、イスラエルと協定を結んだことを悔やんではいません。思えば、神の御前にあってイスラエルと協定を結ぶために知恵を尽くした彼らでした。主なる神への畏れと信頼ということでは、強い思いがすでにあったと思われます。彼らの救いへの叫びともとれる言葉から、窮地に陥ったときに、救いを求める相手は誰か、それは契約を必ず守ってくださる主なる神様であることを思い起こします。

Img_0_m ギブオン人の救いを求める願いは速やかに聞き届けられ、主の御命じによりヨシュアが率いるイスラエルのすべての勇士が出陣しました。このように、主なる神様が契約を忘れる方ではなく、必ず救ってくださるところ、わたしたちイエス・キリストによって救われたものにとって感謝とともに見ておきたいところを、新約聖書から引いておきたいと思います。イエス様が救い主として誕生される直前のところです。ルカによる福音書第一章67節から、洗礼者ヨハネの父ザカリヤの口がほどけて語った言葉です(新102p)。73-79節を読みます。

これは我らの父アブラハムに立てられた誓い。こうして我らは、敵の手から救われ、恐れなく主に仕える、生涯、主の御前に清く正しく。幼子よ、お前はいと高き方の預言者と呼ばれる。主に先立って行き、その道を整え、主の民に罪の赦しによる救いを知らせるからである。これは我らの神の憐みの心による。この憐みによって、高い所からあけぼのの光が我らを訪れ、暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、我らの歩みを平和の道に導く。

イエス様がお生まれになる直前のイスラエルは、苦難に満ちたものでした。その中にあって、旧約の救いの預言に堅く望みを置く民のなかで、救い主は確かにお生まれになったのです。わたしたちにとっての「救い」を考えても、この異邦人であるギブオン人のように、生活における窮地か、あるいは心の危うさか、さまざまな苦しい状況のなかにあって、そこから救われたいとの願いがあったと思います。そこに救い主は来てくださいました。ヨシュアという名前が「主は救い」という意味で、イエス様と同じ名前であることを考えても、ギブオン人の救いにおける旧約と新約の関係は深いと思います。

③主が先立って、今のわたしたちのために戦われる戦い、それは信仰の戦い

9節からは五人の王の連合軍と、ギブオン人の救出のために出陣したイスラエル軍の戦いの場面です。すでに見て来たように、旧約の戦いの場面は、わが国日本の書物で言えば、「太平記」や「信長公記」などの軍記物もかくや、ときとして克明に戦の推移を描きます。いま例にあげた、太平記や信長公記、ほかにもいろいろありますが、ああいった軍記物の成り立ちは、もともと先祖の武勲と正当性を主張するために記されたと言われます。あの勝ち戦は先祖の誰の貢献によるものかが問題とされます。その反面、旧約聖書で勝利するイスラエルの中心は誰か。それは主なる神様です。徹頭徹尾、戦いに先立たれるのは、神であるということ、旧約聖書に貫かれています。10節「主は彼らを混乱させ」、11節「主は天から大石を降らせた」。それは雹だったわけですが、その雹が降って来て撃たれた数は、剣によるもの、すなわち人間の兵士によるものより、数が多かったわけです。14節では、全体をまとめるように「主はイスラエルのために戦われたのである」と語られます。

さて、主が先立って進まれる旧約聖書の戦いをどのように受け取るべきか、エリコでも、アイでも触れて来ました。これは読み方のポイントです。わたしたちにとっての戦いとはなんなのか。それを考えることは大切です。実際に剣をとって戦うことでしょうか。そうではありません。いま、わたしたちに委ねられている戦いは、信仰の戦いです。確かにわたしたちの敵はいます。それは、人を真実の救いの道から引き離そうとする、諸々の力と言えるでしょう。

その一例として、本章のはじめに、アドニ・ツェデクは王として戦いを挑もうとしたことに触れました。為政者としての既得権益を守ろうとして、国家をわたくしする王の姿が重なります。現代はどうでありましょうか。イデオロギーの問題を教会で扱うことには慎重さを要しますが、それにしても、あきらかに現行政府のやり方は常軌を逸脱しています。法が高いレベルで蹂躙されています。「王が国をわたくしする」姿を重ならないでしょうか。こういった国家の在り方に対して、どのような態度を取るべきか、そのことも、聖書によって信仰を通して、ときとして、わたしたちは主により頼み、戦うことが求められているように思われます。わたしたちにとって、いまや戦いは信仰によるものというところ、一か所開いて、今日のまとめとしたいと思います。エフェソの信徒への手紙第612-17(359p)を開けてください。

わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。だから、邪悪な日によく抵抗し、すべてを成し遂げて、しっかりと立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。立って、真理を帯として腰に締め、正義を胸当てとして着け、平和の福音を告げる準備を履物としなさい。なおその上に、信仰を盾として取りなさい。それによって、悪い者の放つ火の矢をことごとく消すことができるのです。また、救いを兜としてかぶり、霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい。

Ephesians612 使徒パウロが言うように、わたしたちの戦いは、神様から与えられるいくつもの賜物によって、救いのため、福音のために、神様からの恵みから遠ざけようとしている諸々の力への霊的な戦いです。嬉しいことに、霊的な備えは、神様がすべて与えてくださいます。わたしたちはそれを身に着けて、十字架の勝利に委ねつつ、雄々しく歩めばよいのです。神様がまず先立って、勝利に導いてくださいます。

第十章の後半はイスラエルの勝利が語られ、またほかの土地との戦いも記されていきます。十章では、神様が先立つ戦いを「信仰の戦い」として理解することが示されました。同様のテーマになりますので、本日は割愛いたします。今後もヨシュア記を読み進めるなかで、戦いの描写では同様のテーマが繰り返されることがありますので、適宜、取捨選択しながら、新しいテーマを求めつつ先を急いでいきたいと考えております。本日はここまでといたします。

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