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6月4日説教(郡上八幡伝道所)説教のポイント

「主の名を呼ぼう!」

聖書 使徒言行録第2章14節~21節

             伝道師 三輪恵愛

 ペンテコステ、おめでとうございます。教会でお祝いする三つの祝祭のうちの一つ、このペンテコステを、皆様とともにお祝い出来、嬉しく思います。ペンテコステは弟子たちに霊がそそがれ、教会が歩みはじめたときのことを思いおこす日です。遠い日に、エルサレムの都で弟子たちに注がれた聖霊は、やがてイエス・キリストの福音を世界中に宣べて伝えいく、教会の命そのものとなっていきました。この夕べ、エルサレムの都から遠く離れたここ、郡上八Pas28_seireikourin 幡伝道所でも、主の名が呼ばれる礼拝がささげられ、キリストの語られることは、やはり神の奇跡と言わざるを得ません。

さて、一節冒頭にあるように、この日は五旬祭という、ユダヤの収穫祭であったということです。これは過ぎ越しの祭りから50日たった日、エルサレムに集まって、収穫の感謝をささげる祭りです。わたしたちは、いま、聖霊の働きによって、世界に多くの教会が建てられていったことをお祝いしております。これも、いうなれば、キリストの霊が注がれ、福音が世界中に拡がっている救いの実りと収穫をお祝いする祭りと言えるかもしれません。

 弟子たちに聖霊が注がれ、いろんな国々の言葉で神の偉大な業を語り始めたということです。その有様は、祭りにあつまっていた多くのひとを驚かせることとなりました。なかには、いやあ朝からぶどう酒を飲んで酔っ払っているのだろうと、あしざまに取る人もいたということです。そこでペトロは、声を張り上げ、説教をはじめました。彼は、世界中の国々の言葉で語り始めたことが、預言者ヨエルの預言の成就だと語ります。すなわち、この聖霊の注ぎによって始まった、この出来事が、ヨエルの預言の成就というのです。とくにその最後の言葉、「主の名を呼び求める者は、皆救われる」との言葉を聞き、わたしたちも「主の名を呼び求めるものでありたい」と願うものです。

①霊がいつ注がれるのか「終わりの時」。それはいつのこと?

 ヨエルの預言の成就の意味を考えるにあたり、いくつかの特徴的な言葉についてみてまいります。全体的に、このヨエル書から引用されている言葉は、将来のことをあらかじめ告げ知らせているように思えます。17節には「終わりの時に」、という言葉がありました。これは、すべてが「完成する日」とも訳すことが出来る言葉です。すなわち、すべてが完成する日に、すべての人に霊を注ぐ、これが、ヨエル書が語ろうとしていることの一つです。ペトロは、このヨエルの預言が、このペンテコステの朝に起きて、成就したというのです。それでは、ここで弟子たちに霊が注がれたのが完成の日だとするならば、それ以降の教会の歩みは、いったいどういうときのなかに置かれているのでしょうか。

そのことを知るために、まずイエス・キリストが神より遣わされて、救い主として地上に来られたことの意味を示しているところを読んでおきたいと思います。マルコによる福音書第115(61p)をお開き下さい。

「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」。

この言葉は、どうしてイエス・キリストが地上に来られたかを示す御言葉として、重要なものと言えます。ここに、福音が宣べ伝えられる目的が著されているからです。「時は満ち、神の国は近づいた」。神の国、すなわち、まったくすべてが神のご支配のもとに置かれている神の国が、この地上に近づいたということです。もう少し、厳密に元の言葉の意味を正確に言い表すと、神の国は「近づき続けている」と著したほうが良いかもしれません。神のまったくのご支配に置かれている神の国が、いま地上にも近づきつつある。そして、やがては神の国が完全に地上をご支配のもとにおく。そのために、イエス・キリストは福音を語られるということです。

したがって、このヨエルの預言が伝えようとしていることは、「終わりの時」が始まって、なお完成に向けて進んでいるということであります。たしかにこのペンコステの朝、ペトロをはじめ多くのキリストの弟子たちに聖霊が降りました。それでは、それが終わりの時、そのものであったかというと、そうではありません。現に、まだ世界の終わりは来ていないのであります。では、17節で言いたいことはなにか。それは、終わりの日にキリストが世界にこられたことで始まるならば、いまは、その完成にむけて、教会が歩んでいるということ、であります。つまり、終わりの時ははじまったけれども、今、教会は救いが完成される日に向けて歩んでいる、中間的な時間を過ごしているということです。

②弟子たちには「霊が注がれ」、語り始めているが、わたしたちには注がれているのか?

 このヨエル書の預言が語るように、弟子たちに霊が注がれ、4節には「一同は、聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話し出した」ということです。また同様に、17節と18節には、すべての人に霊が注がれることが記されます。

弟子たちに霊が注がれて、世界のあらゆる国々の言葉で、神の偉大な業が語られたことは、そのあとの教会の歩みが確かに証ししているとおりであります。エルサレムではじまった福音を宣べ伝える教会の業は、地中海沿岸に拡がり、ローマ帝国の国教となり、やがて世界中に広められていったことです。教会の歩みとともに、終わりの時にむけて、すべての人にキリストの福音を告げるため、聖霊は教会に注がれつづけました。

 ところで、このときに弟子たちに注がれた聖霊は、いま、わたしたちにも注がれているのでしょうか。もしそうだとすれば、それはどのようにして感じられるものなのでしょうか。

 まず、聖霊が賜物として与えられているということは、このあとに語られる、ペトロの説教のとおりであります。38節には、洗礼を受けることによって、神よりの賜物である聖霊が、すべての人に与えられると語られます。この神の約束は、果たされています。それでは、その聖霊によって、ではこの弟子たちのように、あらゆる国々の言葉で語ることが、聖霊の賜物を与えられている証しになるのでしょうか。そうとは限りません。このことについて、使徒パウロが語る、聖霊と賜物について語られている言葉を聞いておきたいと思います。第一コリント、12411節をお読みします。

 このように、聖霊は一つでありながら、賜物による働きはさまざまであるということです。たしかにそのとおりでありましょう。さきほどキリストの教会全体の歴史が、聖霊の導きによって世界に広がっていったことに触れました。そのなかにあって、教会にはさまざまな賜物がおおくの人に与えられ、じつに豊かな働きが教会でなされてきたことです。教会ではたしかに、ある人は語り、ある人は聴き、ある人は隣人を助ける働きに仕え、ある人は知識をもって物事を明らかにしていきます。たくさんの賜物があるなかで、福音のために仕えていくことが、聖霊が注がれているからこそ、出来うることであるということです。ヨエル書の17節には、「若者は幻を見、老人は夢を見る。」という心に残る言葉もありました。たしかに、それぞれが、これからの伝道に向けて、もっとも福音を拡げていきたい。そのためには、教会でこういうことをしたらいいのではないか。聖霊によって、将来の夢を大いに思い描き、それを分かち合って、実現に向けて、共に働いていく。これも、一つの教会の健やかな姿でありましょう。ここ、郡上八幡伝道所からの福音宣教にむけて、わたしたちはどのように幻を見て、夢を描いていきましょうか。思うだけで、胸がおどるようです。聖霊が喜んでいるようです。

③「主の名を呼び求める」、聖霊の注ぎはキリストを礼拝する民を救いへと導く

 ある人は語り、ある人は聴き、ある人は行動にうつしていく。一つの霊によって多くの賜物が活かされていくなかで、教会は広がっていきました。この教会の働きが目指すところは、ペトロが引用するヨエルの預言によれば、一点に集中していきます。それが21節の「主の名を呼び求める者は皆、救われる」ということです。

 この「主の名を呼ぶ」という言葉が、ヨエルの預言にあって、もともとどういう意味であったか、これも今日、見ておきたいところです。同様の表現がされているところに聞いてみましょう。創世記第十一章8節(旧15p)をお開けください。「アブラムは、そこからベテルの東の山へ移り、西にベテル、東にアイを望む所に天幕を張って、そこにも主の祭壇を築き、主0013 の御名を呼んだ。」

 この「主の御名を呼んだ」という表現は、このアブラハムのところ以降、いくつも出てまいります。すなわち、主なる神ヤハウェの御名前を呼んで礼拝をささげたということ、であります。ヨエルの預言についても、同様のことが言えます。「主の名を呼び求める者は救われる」、聖霊が注がれ、教会が建て上げられていくなかで、そこで礼拝する民が新しく創られていく。これこそ、ペトロがヨエルの預言を通して語ろうとしている、神が新しく創る、神の民でありました。

 聖霊降臨、ペンコテステのときにも語られる「主の名を呼ぶ」ということ。それは旧約の時代とともに見るとき、主なる神様に礼拝をささげる点で、同じでありますが、どなたのゆえにそれがすべての人にも許されるようになったか、ここに違いがあります。わたくしたちにとっては、それはイエス・キリストが、神と人のあいだにたってくださり、十字架における和解の取り次ぎをしてくださったからこそ、であります。おもえば、イエス様ご自身が、なによりも主なる神様の御名前を親しく呼ばれた方です。ゲッセマネにおいては「アッバ、父よ」、「お父ちゃん」と、神様を親しく呼びかけられた方でした。また使徒パウロは、キリストよりの聖なる霊があってこそ、わたしたちもまた、主なる神様を「アッバ、父よ」と名前を呼ぶことができると語ります。ここも開けておきましょう。ガラテヤの信徒への手紙第四章6節(新347p)です。「あなたがたが子であることは、神が『アッバ、父よ』と叫ぶ御子の霊を、わたしたちの心に送ってくださった事実からわかります」。

 主の名を呼ぶ、それも、キリストのゆえにわたしたちもまた神の子として、親しく主の名を呼ぶ礼拝へと招かれる。これが、イエス・キリストが十字架をもって、わたしたちのために執り成してくださった憐みに富み給う、奇跡の御業でありました。霊が賜物として与えられ、礼拝に招かれ、本来であれば、とても親しい関係にはおれない聖なる神様を、イエス・キリストのゆえに、親しくその名を呼ぶことが出来る。これこそ、わたしたち教会に招かれたものへの恵みであります。

 「主の名を呼び求める者は皆、救われる」、この言葉に至るヨエルの預言は、ペンテコステの朝、エルサレムで成し遂げられました。主は、このように、まことに約束されたことをことごとく果たされるお方であります。聖霊の働きのゆえに、わたしたちも、遠い日本にあって、主の名を呼び求める者とされました。この恵みを受けとり、さらにすべての人にお伝えするため、聖霊による幻と夢をいだきながら、共に主に御仕えしてゆこうではありませんか。父、子、聖霊の御名によってアーメン。

 祈りをいたします。約束されたことをことごとく果たされる主なる神よ、御子イエス・キリストのゆえに、あなたを父と呼ぶことが出来る幸いに感謝いたします。あなたが約束された聖霊が、かの日には弟子たちにおおいに注がれ、すべての代々の教会に注がれ、いまもわたしたちに注いでくださっていることを覚え、驚きとおもに感謝いたします。主の名を呼び求める人をさらに招くように、それがすべての人を愛したもう、主の御心であることを、確信いたします。どうぞ、いっそう賜物を霊によって注いでくださって、この地に在って、主の名を呼ぼうと声をかけるものとさせてください。どうぞ、賜物に相応しく、福音を語るものとして、導いてくださいますように。アッバ父よと、祈ることを教えたもう、御子イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

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