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6月18日説教(郡上八幡伝道所)説教のポイント

「神様の大切な宝も」

聖書 出エジプト記第19章1節~8a節

             伝道師 三輪恵愛

「  神様の大切な宝物  」

 わたしたちキリスト者にとりまして、与えられていますこの聖書。これは、日本キリスト教会の信仰の告白にもありますように、旧約、新約の両方があって、神の言である聖書です。そういったなかで、じっさいにわたしたちにとり、新約聖書にくらべると、旧約聖書のほうが、より難しいという印象があるかもしれません。その理由の一つに、主なる神様と導き出された民、イスラエルの関係をどのように読み取って行けば良いのか、という問いがあるかと思います。わたしたちは日本人でありますから、イスラエル人、しかも古代世界に生きた人々との接点をどのように見出すか。これは聖書を身近に感じるために、考えておかなければならないことかもしれません。

今日は、出エジプト記より御言葉が与えられました。出エジプト記のおおむねのあらすじは、神様がイスラエルの民をエジプトから救いだし、約束の地に導き出すというものです。さて、この旅路が、わたしたちにとってはどのように関係していくのか、です。一つの読み方のポイントに、わたしたちは、新しく創造されたイスラエルの民、すなわち主なる神様から選ばれた礼拝する民として、いまも旅路を続けていると捉えるものがあります。その自己認識のもとに、かつて主なる神様はイスラエルの民をどのように導かれたのか。そこから、神と礼拝する民のあるべき関係を知っていく、というものです。

そのように考えると、この出エジプト記。大半はエジプトを脱出したあとの荒野の旅路の記録が記されます。この記録が示しているものは、荒野の旅路のなかで、主なる神様はイスラエルを礼拝する民になるように、養い、導いていることです。神様は、イスラエルを礼拝する群れへと新しく創りかえようとなさっておられるのです。出エジプト記では、イスラエルの民は、苦しくなっては不平をぶつぶつ言い、モーセが離れれば偶像を拝むような民でした。その民を、手塩にかけて育てていく主なる神の姿があります。同じ主なる神様が、いまもわたしたちを礼拝する民へと新しくしてくださっている。そのように考えれば、出エジプト記をはじめ旧約聖書の内容が、わたしたちに身近なものとして、立ち上がってくるでありましょう。

そういったなかで今日の御言葉でわたしたちの目を引くのは、神様はこの民を「宝の民」と呼んでいるところです。その神様に導かれ、いまもわたしたち、礼拝を奉げる民とされています。「あなたたちは、わたしにとって宝の民だよ」、この言葉は、わたしたちにもまた言われている言葉として聞いて良い言葉であります。神様にとっての宝物。なんと嬉しい言葉かと思います。本当にこの御言葉をわたしたちへのものとするため、御言葉を読み深めていきたいと思います。

①神の無条件の選び。貧弱だったからこそ、つまりこちらからなにも条件を出せないからこそ選ばれた!

この第19章は、あの大切な十戒を民に授与されるときの始まりにあたります。じつに、19章から24章までが、一つのまとまりをもつ記事です。シナイの山における、神様が姿を顕す場面、顕現ともいいますが、そうして神様がお姿を顕す。そして、モーセを仲立ちとしての契約が結ばれます。つまり十戒の授与です。それから律法の朗読。そして与えられた民が感謝して、ともに食事を楽しむ。これらは、わたしたちがいまささげている礼拝の原型と言われます。ですから今日の御言葉は、礼拝のはじまりにあたります。先週、報告しましたように、翌月より、礼拝の招きの詞を新しく加えることにしました。これは、なぜそうするかと言いますと、わたしたちが好きな時に集まりささげるものが礼拝ではなく、まず主なる神様からの選びがあり、神の言葉によって招かれて、礼拝する民へと主日ごとに新しくされるということです。ここも聖書的な根拠の一つと言えるでしょう。

こうして礼拝を奉げる民へと招かれた、このイスラエルの民でした。まず確かめておきたいことは、エジプトからイスラエルの民が導き出されたことについてです。なぜ、主なる神は、エジプトからイスラエルの人々を助け出したのでしょうか。イスラエルの人々になにか特別なことがあったのでしょうか。たしかに特別な理由がありました。しかしそれはイスラエルの人々が他の民族より素晴らしかったからではありません。むしろ逆です。あまりにも弱弱しかったから選ばれました。そのことについて、今日の所とおなじように、イスラエルの民を救って、宝の民だと言っておられる神様の御言葉を開いておきたいと思います。申命記第76-8(292p)をお開きください。(朗読)

今の御言葉が語るとおりです。どうぞ出エジプト記にお戻りください。イスラエルの人々にはなにも誇れるものはありませんでした。この「宝の民」という言葉を巡って語られていること、それは、イスラエルの民、すなわち礼拝する民として新しくされるものたちが、どうして救われるのか、であります。それは、罪の奴隷の家に囚われてしまうほどに、まことに貧弱、罪にたいして弱いからだと、いうことであります。したがって、救われる側の人間には、救いに相応しいほどの、なにか誇れるような条件は、まったくないのです。これがイスラエルの人々にみる、神の救いの真実です。

このことについて、同じように語っているところを、一か所、新約聖書からも読んでおきたいと思います。ローマの信徒への手紙第911節~18(286p)をお開きください。(朗読)

この、神様からまったく無条件に救いに選ばれるということについて、旧約聖書も新約聖書も一貫して説いております。わたしたち人間の側には、救われるための条件は一切、存在しないということです。このことを知って、わたしたちは不安に思うでしょうか。「わたしたちに救いのための条件がなければ、どうして救いの確信を得られるのだろうか。」というように。しかし、わたしたちの側に条件がなく、まったく神の選びにあるということは、わたしたちにとってありがたいことです。むしろ、救われるための、なにかしらの条件を提示されたほうが、たいへんだと思います。罪の赦しのために、これだけのことをしなさい。そのように言われた場合、わたしたちに果たしてそれを守り切ることが出来るでしょうか。よしんば、一つ、二つ、一年、二年、守り通せたとしても、最後までそれを貫き通すことが出来るかどうか。わたしたちの歩みには絶対、ということはありません。ですから、人間は救いのためになにも条件はあたえられていない、ということは、本当にありがたいことなのです。

②本当に条件提示はされていないのか。旧約では条件があったが、契約は新しくなった!

ここまでみたところで、「神様がわたしたちを救われるにあたり、条件がない」、そのことはわかりました。しかし、5節をよく読んでみますと、そこに書かれてあることは、条件が提示されているかのようにも受け取れます。5節「今、もしわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るならば、あなたたちはすべての民の間にあって、わたしの宝となる。世界はすべてわたしのものである」。条件が提示されているように受け取れるのは、「わたしの契約を守るならば」のところです。これが果たして、救いのための条件にあたるのかどうか。そのことを考えるために、そもそも神様と人々の契約はどういったものなのかみておきます。

旧約聖書は、神様が人々に賜る契約の歴史でもと言い換えることもできるでしょう。神様がアブラハムと結んだ、子孫は星の数ほどに増やす、というアブラハム契約から始まり、シナイ、ダビデをはじめ、いくつかの契約があります。この契約が示すものはいったいなんでしょうか。それは、神は人と契約によって特別な関係を結び、救いに導かれてゆくということです。そこへいくと、このシナイ山における契約、シナイ契約ともいわれますが旧約のなかでも重要な契約となる。それは、アブラハム契約などと比べたときに、どういった点で、重要なのかと言いますと、ここでは、十戒をはじめとする諸々の律法を守ることが、人間の側に果たすべき義務のように、条件として提示されているのです。

そうなりますと、やはり「今、もしわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るならば」と言われるように、とにかく律法に書かれてあることを守ること。これが、わたしたちの救いのための条件とされているように聞こえます。ところが、ここであわせて思い起こしたいことは、わたしたちは、神様から救われるために、信仰によって義とされる。すなわちキリストを信じることで救われているということも言われます。

結論からいえば、律法を守ることでは、人間は救われることはありません。このことについて、旧約聖書のイスラエルの民の歴史が、このことを証明しています。エジプトより救い出されたあとのイスラエルの民の歴史は、じつに、律法を守ることでは救われないことを伝えるものです。カナンの土地に定住したイスラエルは、やがてダビデ王朝となっていきますが、このダビデ王朝が、つねに律法を守る民であったか、というとそうではありません。5節のように「わたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るのならば」といいますが、守れなかったのです。ダビデ王朝は滅亡し、バビロン捕囚、ふたたび、エジプトの奴隷の民とされていた頃と同じように、捕らわれの身となってしまいます。やはり人間の側から主なる神に完全になることは出来ない。これが、旧約聖書が語ろうとしている、律法のまえに顕れる、人間の罪にたいする弱さゆえの限界です。

しかしながら、人間の罪に対する無力が極まったところで、神様と人との契約は究極の形へと新しくされていきます。つまり、契約が新しくされたことで、もはや人間は律法を守ることで救われるのではなく、やがて与えられる救い主によって、救われるとの契約が結ばれます。このことについて、旧約聖書と新約聖書をしっかりと結びつける大切な箇所を開いておきたいと思います。バビロン捕囚のころに語られた、エレミヤ書第3131-34節(旧1237P)をお開きください。(朗読)

「来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである」。この新しい契約が、イエス・キリストの到来によって満たされました。すなわちそれは、どうしても律法を守り切ることが出来ない、神様の前に完全になれない弱さを持つ人間。そうであればこそ、イエス・キリストが人の弱さを知ってくださるお方として、与えられました。神様と、人間のあいだに、イエス・キリストが執り成し、仲立ちをしてくださるからこそ、わたしたちは新しいイスラエル、神の民とされております。この「新しい契約」について、新約聖書も開いておきましょう。ルカによる福音書第2219-20(154p)をお開き下さい。(朗読)

イエス・キリストが十字架において肉を裂かれ、血を流されたからこそ、罪の前に貧弱なわたしたちは神様のまえに救いを得ることとなりました。この新しい契約は、むしろ罪の前に弱弱しい民であればこそ、結ばれたのです。イエス・キリストの仲立で、わたしたちは、神様にとって大切な宝の民とされたと言えるでしょう。慈しみ、憐みを受けるわたしたち。なにも誇るものがないからこそ、キリストにおすがりするほか、生きる道がないからこそ、そんな民を、神様は宝物だと言ってくださるのです。この十全に示された救い。なんたる恵みでしょうか。

③わたしたちが示していくのは、キリストゆえに聖なる者とされる姿

 このように大切な宝の民とされているわたしたちを集める神様は、6節にありますように、「祭司の王国、聖なる国民」となるのだ、とそのように言われます。「祭司の王国、聖なる国民」、ありがたいお言葉ではあるものの、とてもそのようなものとは、なりえないのではないかと思ってしまうかもしれません。さきほど見て来た申命記でも貧弱な民とありました。また新しい契約であるキリストが与えられたことを考えても、「聖なる国民」と言われるには、あまりにも恐れ多いことではないかと。

しかし、神様はわたしたちを「宝物」だと言ってくださるのです。とても大事な、高価なもの、特別なもの、またとないもの、それが神様の宝物であるわたしたちです。神様の宝物とされている以上、わたしたちの側にはたとえ誇るものがなかったとしても、そのたじろぐような思いを遥かに超えて、神様は導きのなかで、わたしたちを宝物のように磨き上げるのです。

はじめに触れたように、旧約聖書、とくにこの出エジプト記では、エジプトから救い出された民は、なかなか神様の言うことを聞けない民であった。それが、荒野の旅路のなかで、懇ろに養われいくうちに、礼拝をささげる民として、磨かれていきました。はじめは、石ころかどうかもわからない鈍い光しかもたなかった民が、やがて、主なる神こそ、わたしたちの神様、と声高らかに褒めたたえる民とされていったのです。

このように、教会の歩みもはじめはたどたどしいものであったのが、神様が宝物のように、大切に、信仰に磨きをかけてくださったからこそ、今は世に在って、隠しようのない主のご栄光を光らせる、宝物となっているのです。今の世にあって、教会に顕れる神の栄光の業は、やはり輝いています。わたしたちは、あまりにも近くにいすぎるがゆえに、その輝きに慣れ過ぎてわからなくなっているのかもしれない。しかしどのような小さな群れであっても、主なる神様の招きの声に聞き従い、世俗のなかから歩み出し、御前に進み出て、罪を認め、赦しを告げられ、神の言葉を聞くことをなによりも喜びとする。そして日々の生活のなかでも、キリストを証しするものとして、世に仕えます。世間にあって、神様の宝物である教会の業は、まばゆい光を放ちます。隠そうとしても、宝石が光を放つように、ほかの人からは輝きに見えるのです。このように、たしかにここで言われるように、世の中にあって罪を執り成す祭司の王国、聖なる民とされていること、礼拝において、よく語られ、わたしたちは、そのように磨かれているのだということ、感謝しつつ信じるべきでありましょう。

貧弱な民だからこそ、神様はわたしたちを宝物だとしてくれました。誇ることはなにもありません。だからこそ、イエス・キリストゆえの宝の輝きが、わたしたちの弱さのなかに光を放ちます。そんなわたしたちだからこそ、神様にとってはいつまでも手元に置いて、大切にしておきたい愛する宝物なのです。「あなたたちはすべての民の間にあってわたしの宝となる」とイスラエルに向けて語られた言葉、イエス・キリストのゆえに、わたしたちにとっても真実の御言葉であります。父、子、聖霊の御名によって、アーメン。

 祈りをいたします。「あなたはすべての民の間にあってわたしの宝となる」、救われるために、なにもこちらからは差し出すものはないにも関わらず、キリストのゆえに、あなたの宝の民としてくださる御言葉のかたじけなさを思い、感謝に心は溢れます。罪のまえにはまことに無力なわたくしたちです。どうして、宝物だと言ってくださるのか、ただ神様の深い愛に与るよりほかありません。この喜びと感謝ゆえに、御言葉に委ねつつ、「祭司の王国、聖なる国民としての歩みに導かれたいと存じます。わたしたちの弱さの中に、神のまばゆいばかりの栄光の輝きを放たれる主よ、どうぞますますわたしたちの信仰を、御言葉によって磨き上げて、二つとない宝物としてくださいますように。永遠に主なる神様との仲立ちをしてくださる、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

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