« 6月25日説教のポイント | トップページ | 6月28日祈祷会 ヨシュア記第十九章49節~二十章 »

6月25日説教(郡上八幡伝道所)説教のポイント

「死も生も、キリストと共に」

聖書 ローマの信徒への手紙第6章1節~節

             伝道師 三輪恵愛

 新約聖書におさめられている27つの書物を、書かれてある体裁をもとに分けるとすれば、4つになると思われます。4つの福音書、聖霊の働きを記す使徒言行録、手紙、そして黙示録です。このうち、分量だけで考えれば、手紙が最大のものと言えます。このことは、キリストの教会が歩み始めた直後の、伝道が置かれた状況を示しています。手紙がなぜ教会にむけて送られたのか。それは、キリストの福音を伝えるにあたり、それぞれの教会では具体的な様々な問題もまた、生じたということです。そこには、パウロをはじめとした手紙の差出人が注ぐ、それぞれの教会の問題を見つめるまなざしがあり、イエス・キリストの福音によって、それをどのように解決し、信仰的な理解に広げていくか。いわば、手紙が書き記されていくことで、聖霊が、差出人を通して語ろうとした、福音を理解する道標が残されていったということです。

 今日の御言葉は、ローマの信徒への手紙からのものですが、建設された当初から、ローマの教会もまた数々の問題を抱えておりました。パウロは、具体的にその問題に答え、信仰的に教えをほどこすなかで、福音とは何かを、書き記すものとされていきます。それでは、今日の御言葉から読み取れる、パウロが解決し、新しい信仰的理解へと導きたいと願っているものはなんでしょうか。それは、8節「キリストと共に死に、キリストとともに生きる」ということになるでしょう。そしてそのことを、わたしたちに施される洗礼を、どのように考えるか、によって明らかにしていこうとしています。

①ユダヤ教からキリスト者になった人たちの洗礼に対する誤解

 さてパウロは、まず自ら問題提起するように、「罪と洗礼」について取り上げます。これは第5章からの流れを受けてのことでした。パウロはこの手紙において、「信仰によって義とされる」、すなわち、キリストを信じることであらゆる罪が赦される、ということを一貫して説いて来ました。そして、キリストを信じるものについては、律法を守ることで救われるのではない、と説きます。

 ところがそこに一つの議論が提起されました。それは、「キリストを信じることで赦される恵みが与えられるのならば、ますます罪を犯して、恵みを増やしたらいいのではないか」というものです。屁理屈にも聴こえるような、おかしな論法です。罪を赦され、救われるためにキリストを信じる。それなのに、赦される恵みを増やすために、もっと罪の中にいる。理屈がおかしいことはわかるのですが、たしかに多くを赦されれば、多くを愛するように、さんざん罪を犯せば、赦されたときに恵みは大きいという理論がなりたつのかもしれません。

 そこでパウロは、この第6章において、3節「あなたがたは知らないのですか」と、いささか激しい語調で、その誤解を指摘します。それはなにか、それが、3節より取り扱われる、「洗礼」です。

 パウロに対して、「罪をたくさん犯せば、赦される恵みが増えるんじゃないか」という理屈は、あながち、単なる揚げ足取りのような不真面目な屁理屈とは、言えないものがあります。それにはローマの教会の成立事情が多少関わってきます。ローマの教会がどういうものであったか。当時のローマ帝国の状況と、ローマ教会に関係する文書などから、ローマの信徒は、ユダヤ人と異邦人がともに生きる群れであったのではないかということです。

 そうすると、このユダヤ人と異邦人のあいだには、それまでユダヤ教的な背景で生きて来た人たちの、旧約聖書からのキリスト理解と、まったくそれを持たない異邦人の間に、様々な異なる認識による問題が起きたことが窺がえます。

 この洗礼と、罪と、キリストがどのように理解されるべきなのか。そこにも認識が異なるゆえの問題が生じたでしょう。パウロは明確に、古いユダヤ教的な洗礼理解を相手にしています。それはなにか、旧約聖書の律法にもあるように、罪の汚れは、水のなかで洗い流すことによって清められる。そして、汚れれば、また清めればよい。つまり、罪の汚れという霊的な概念を、肉体の汚れが水によって洗い落とされるような考え方をしていたということです。ですから、罪のなかにとどまっていれば、清められる恵みがますのではないか、という議論が生じる余地があったのです。

 それをパウロは否定し、キリストによって新しくされた洗礼ついて説きます。それが4節「わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。」、すなわちイエス・キリストの信仰に生きるものとされる、見えるしるし、洗礼は、罪の汚れをたびたび洗い清めるものではなく、「イエス・キリストと一緒に葬られることなのだ」というのです。

 現代、キリストの教会には様々な教派があり、聖書理解の豊かさを形成しています。洗礼に対する考え方が多種多様であることも、それと同じです。洗礼の仕方にもいろいろありますが、なかには、全身をどっぷり水に浸かって、行うものもあります。この仕方が、もっともここでパウロが指摘する、「キリストと共に葬られる」という考え方にそったものなのでしょう。それぞれの教派に、それぞれの神学的理解がありますので、これが絶対ということはありません。大切なことは、「キリストとともに、葬られた」、ということです。

 ある神学校の教授が、講義の最中に、講義をうけている神学生にたいして、「このなかで死んだことがある人手をあげなさい」と問いかけたそうです。神学生たちは、顔を見合わせるだけで、手をあげることができません。「いったいこの教授はなにを言い出すのだ、死んだら、いまここにいないじゃないか」。なにかの冗談だと思ったのでしょう。すると教授は、「君たちは洗礼をうけたのだろう!じゃあ、一回、死んで葬られているのだ。そのことがわからなければ、キリストの復活を説教することはできないぞ!」、と真剣に語ったということです。

 ローマの教会が洗礼に対する理解において、いろいろ混乱が生じていたのも、じつにこの点においてでした。つまり、「わたしたちは洗礼において一度、死んでいる」、だからこそ、罪の清めのために、みそぎのように何度も何度も、洗礼を受けるのではなく、ただ一度きり、キリストと共に死に、葬られたうえで、復活にあずかり、新しい生を生きるものとされる。それが、パウロが4節でかたる理解です。

②霊的に「死ぬ」ことでキリストと共に復活する恵み

 さきほど語った、神学校の教授と神学生たちのやりとりや、ローマ教会の人たちが戸惑っていることの理由は、「キリストと共に死ぬ」ということを、肉体的な死と混同したところにあります。パウロは、決してここで、「死ぬ」という言葉を、肉体的な意味で用いているのではなく、いうなれば霊的な意味で語ります。そこで4節の後半では「それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです」。このように続け、キリストによって新しくされた洗礼の理解を、思い起こさせようとします。

 洗礼は教会における厳かな儀式です。こんにち、キリスト教を信じる人の数が伸び悩むなかで、洗礼式が執り行われる機会が少なくなりました。だからこそと言いますか、なおさら洗礼式が尊いものに感じられます。そこでは、見守る会衆一同が、新しく家族に加わる兄弟姉妹を見つめながら、自らもかつてそのようにして、神様のものとされたことを思い起こす。そういった喜びを分かち合う貴重な機会です。

このような特別な洗礼において、5節でパウロは「その復活の姿にもあやかれるでしょう」という言い方をします。言い得て妙な訳し方だと思います。「あやかる」、あらためて日本語の辞書をひいてみました。「幸福な姿、めでたい姿に感化されて、同じようにされる」という意味だそうです。もともとのギリシャ語の言葉の意味も、ほぼこれにちかいものです。みるべきところは、まったく同じコピーではなく、似たものとされる。さきほどは、神学校の教授に「あなたがたは一回死んでいるでしょう?」と言われ、びっくりした神学生たちのことを紹介しました。彼らは、肉体の死を考えました。しかし、パウロは「復活の姿にもあやかれるでしょう」、まったく同じということではなく、罪の死というものについて、洗礼によって一回死んだものとされ、新しく復活して生きることができるでしょう。と語っているのです。

③新しい命のなかで十字架を負いつつ、神様へ応答していく生

 こうして、古い自分が十字架にキリストと共につけられ、罪から支配されていたものが死んで、キリストの復活とともに、新しい生き方へと変わっていく。これが、洗礼のまことの意味だとパウロは語ってきました。これは、肉体的な死をさすのではなく、霊的な死を指すということも、なるほど理解できることです。

 なお残る問いは、しかし、イエス・キリストが死んだのは、十字架ではないか。わたしたちは洗礼式で、水を頭にかけられるか、せいぜい言っても、全身を水に浸かるだけのこと、これでキリストの、あの苦しみの十字架の死と同じと言えるのかどうか。と言うものです。イエス・キリストの十字架のご受難のありがたさを考えると、たしかにあまりにも、洗礼におけるわたしたちの死は、いくら霊的な死であるからといって、かけはなれているのではないかと思われるのです。

 パウロはそこで、わたしたちが古い自分をキリストと共に十字架にかけ、新しい生を与えられ、復活したものとして生きることはどういうことか語ります。それが1011節です。もう一度、お読みします。

 キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、生きておられるのは、神に対して生きておられるのです。このように、あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい。

 とくにこの、「神に対して生きる」これが、キリストの死と復活にあやかって、新しくされたものの、歩みだと語るのです。たしかにキリストは神に対して生きられた方です。十字架のうえまで神に対して従順であられました。罪びとを愛し、赦しへと招き、奇跡の業で癒し続けた、神に等しきお方です。このキリストの、神に対して生きる姿。いかな、わたしたちが洗礼によってキリストにあやかる、似たようなものとされるとはいえ、それはあまりにも荷が重いのではないか。そんなキリストに近い者になれるのか、どうか。

 そこで思い起こしたいのは、なぜわたしたちには、罪の死を覚えるにあたり、洗礼であって、キリストの十字架ではないのか、ということなのです。キリストの十字架と共に死ななければ、わたしたちの罪はなくならないのではないか。それは、一見、イエス様にたいして、真摯で誠実な思いなのかもしれません。ところが、捉えようによっては、僭越な考え方にもなってしまうかもしれないのです。それはどういうことか。罪に対する神の怒りがあらわれた十字架は、本来、わたしたちがとても背負いきることが出来ないということ。だからこそ、イエス・キリストは、わたしたちの代わりに十字架を背負ってくださった、ということです。

 わたしたちにとって赦されていること、それは、キリストの十字架の死を、洗礼によって、わたしのものとし、新しい命へと生かされている現実をただ恵みとしていただくことのみです。もう本物の十字架のような恐ろしいものに、釘付けにされなくても、キリストと共にいることによって、もう罪に死ぬことは、なくなったのです。

 では、わたしたちは洗礼を受けたことによって、新しくされて、まったく罪を犯さないものとなったのか。そうではありません。誤った洗礼理解のなかに、洗礼を受けるものは、信仰の強い、罪を犯さない人のみだとか、洗礼を受けた以上、絶対に罪を犯してはならない。というもの、たびたび聴くことがあります。もちろん、罪を犯さないようにすることは大切なことです。しかし、それが目的なのではなく、11節にあるように、洗礼のほんとうの福音的な理解は、「キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい」ということです。

 私自身を振り返っても、洗礼、そして信仰告白と導かれながら、どれほどそのあとの歩みのなかで、神様の御心に沿わない生き方があったかと思います。いまでも悔い改めること、おびただしいものがあります。それは、わたしだけでなく、キリストと共に生きるすべての信仰者の切実な生き方なのだと思います。洗礼を受けたからといって、聖人君主になれるわけではない。では、洗礼によってキリストとともに死に、生きるとはどういうことか。それは、古い自分がすでに十字架において死んでいることを、いつも思い起こしながら、人生において与えらえた、わたしたちそれぞれの十字架を背負いながら、神に対して生きていくことでありましょう。

 これまでも何度か語り、これからも語ります。罪という言葉の意味、それは神様に対して的が外れている、という意味でした。洗礼によってキリストの死にあやかるまでは、自分の罪を一人で抱え、一人でどうしようもなかったところが、いまや、キリストと共に死に、復活にあやかって、神に対して生きるものとされている、この新しい生の現実。ときに、与えられた自分の十字架の重さを知るときがあったとしても、キリストが共に十字架にかかってくださったからこそ、もはや、罪の死はそこにはないということ。7節にあるように、「死んだ者は、罪から解放されています」。

 すでにわたしたちは、洗礼において一度死に、キリストと共に復活し、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きるものとされました。洗礼のゆえにキリストと結ばれている、この幸いを喜びつつ、恵みに応えながら日々を歩んでいく。これがわたしたちにすでに与えられている新しい命です。父、子、聖霊の御名によって、アーメン。

« 6月25日説教のポイント | トップページ | 6月28日祈祷会 ヨシュア記第十九章49節~二十章 »

コメント

この記事へのコメントは終了しました。

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 6月25日説教(郡上八幡伝道所)説教のポイント:

« 6月25日説教のポイント | トップページ | 6月28日祈祷会 ヨシュア記第十九章49節~二十章 »

フォト

カテゴリー

写真館

  • 201312hp_2
    多田牧師「今月の言葉」に掲載したアルバムです。(アルバム画面左上のブログ・アドレスをクリックしてブログに戻れます。)
無料ブログはココログ