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6月28日祈祷会 ヨシュア記第十九章49節~二十章

「 赦しと裁きのはざまに 」

 前週では、長きにわたるヨルダン川の西側での戦いが終わり、いよいよ約束の地の配分にはいったところをみました。アロンの息子である祭司エルアザルと、モーセの後継者ヨシュアの二人によって残りの9つと半分の部族に土地がわけられていきます。それにさきだって、まずカレブに対して土地が与えられました。カレブにも土地がすでに約束されておりました。彼は主なる神様に全幅の信頼を置いていましたので、正当な恵みとして土地を求めます。こうして、個人であるカレブへの正当な土地が分け与えられてから、部族ごとへの配分が進められて行きました。

 今日は、その分配の最後のところである第19章の終わりのところ、そして第20章をみていきます。今日読んだ、19章の終わりのところで配分が終わります。そして第二十章では、逃れの町の制定について触れられていました。これらの関連に目を留めながら御心を訊ねていきたいと思います。

①ヨシュアへの土地の配分が最後。カレブに始まってヨシュアに終わる

 先週見た第十四章が土地の配分の序章だということに触れました。そこでカレブから配分が始まりました。そこへいくと、今日のところ、ヨシュア個人への土地の配分で終わっています。この二人は、いわば主従以上の盟友関係にありますが、土地の配分がカレブに始まりヨシュアに終わるとは、なかなか感慨深いものです。

さて、ヨシュア個人への土地配分ですべてが完了した意味を考えていきます。49節には「自分たちの土地からヌンの子、ヨシュアに嗣業の土地を贈った」、また50節には「主の命令にしたがって」とありました。ここには、一度、部族に配分されたなかから、あらためてヨシュアに贈る共同体の配慮の姿が描かれます。それが主の御命令でもあって、またヨシュアも求めていたということでした。ヨシュアは決して土地の配分を我慢していたわけではありません。しかし自分がまず配分を公平に裁く職務に在る以上、自分のことは最後に回し、まず共同体に仕えることを優先した姿があります。また共同体もそれに信頼し、いますべてが終わって、彼らの持ち分からヨシュアに贈っています。この共同体の分かち合いの姿は、後の教会の姿にも遺されるものです。主の御言葉にしたがって、共同体が恵みを分かち合うところ、新約聖書から見ておきたいと思います。使徒言行録第243節—47節(新217p)をお開きください。

すべての人に恐れが生じた。使徒たちによって多くの不思議な業をしるしが行われていたのである。信者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし、財産や持ち物を売り、おのおの必要に応じて、皆がそれを分け合った。そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた。こうして、主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである。

約束の土地の配分にしても、使徒言行録の時代の持ち物にしても、共通するところは、わたしたちに与えられているものは、すべて神様からの賜り物であるということです。もちろん、わたしたちには一度恵みとして与えられたものを自由に裁量して、また生活の糧や将来の蓄えにすることを委ねられています。教会に分かち合いの豊さが御言葉によって語られ続けることは、わたしたちが、与えられた恵みを共に神様から頂いていることを確かめるという点において、大切な教えだと言えます。この考え方は限りなくかつての社会主義的な考え方に近いですが、神様に与えられたものを分かち合う喜びという点で、単純に公平さを追い求めるのではないところが、大きな違いだと言えるでしょう。つまりいただく感謝と、分かち合う喜びが、なによりの賜物であるということだと思います。

こうしてヨシュアにも土地が無事に配分されました。彼が、まず共同体の全体の利益に仕えた姿は、のちのイエス・キリストに顕れる、姿の予型、あらかじめ告げ知らせる姿にも思えます。おもえば、イエス様も世界に仕えるために来られたと明言しておりました。ここは聖書開きませんが、マタイによる福音書第2028節にはこのように言われていました。「人の子は、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来た」

なによりもイエス様が共同体、つまりは教会、また教会を通して、世に仕えるために来たと言われます。ヨシュアもまた、神に役目を与えられ召されたものとして、共同体に仕える姿を示しています。さきのヨシュアの土地が部族から贈られて、分かち合いがあったことを合わせて考えますと、イスラエルの共同体に、わたしたち教会が見るべき、主の民としての姿がここにも示されているようです。役目を与えられた人は全体に仕え、また全体は役目の人に配慮して、支え合う。これらのことが主の御命令によってなされていく。神のもとに共に生きる姿がここに見えるようです。

②「逃れの町」、赦しと事実の解明。共同体のために必要なこと。

さてこうして土地の配分がおわったイスラエルです。一件落着といきたいところですが、もう一つ、あらかじめ神様から、約束の土地に入ったらこうしなさい、と言われていた約束がありました。それが第二十章に記される、「逃れの町」の制定です。これはいったいどういった町なのか。ヨシュア記に入るまえにすでに神様から指示が出されているところを確かめたいと思います。民数記35:9-34(旧276p)をお開けください。ここは長い文章を用いて、「逃れの町」とはなんなのかを記しています。すべてを読むことはできませんので、あらすじだけ説明します。「逃れの町」に逃げ込むのは誰か。それは、あやまって人を殺してしまった人が逃げる町です。律法では十戒にあるように、殺人は絶対に赦されざる行為でした。死を以て報いなければならなかったものです。ところが、現実の社会でも「過失致死」という言葉があるように、律法においても「故意」、つまりやろうとしてやったのかどうか、が問題となりました。20節から24節を読みます。

もし、憎しみを込めて人を突くか、または、敵意を抱いて殴りつけるかして、人を死なせた場合、手出しをした者は必ず死刑に処せられる。彼は殺害者である。血の復讐をする者は、その殺害者に出会うとき殺すことができる。しかしもし、敵意もなく、思わず人を突くか、故意にではなく人に何かを投げつけるか、または人を殺せるほどの石を、よく見もせずに人の上に落とすかして、人を死なせた場合、その人がその敵でもなく、危害を加えようとしたのでもないときには、共同体はこれらの判例に基づいて、殺した当人と血の復讐をする者との間を裁かなければならない。

最後のところに、「共同体はこれらの判例に基づいて」とありました。敵意があるかないか、を問題にしている以上、危害を加えてしまった人、すなわち被告人には、弁明の場が与えられることとなりました。これを、すでに約束の土地に入るまえに、土地の配分が終わったら、すぐに定めなさいと予め言われていたのでした。どうぞヨシュア記にもどってください。

故意や敵意の有無を吟味すること、これは今の裁判を彷彿とさせる重要な事項です。先日も、「殺意の有無」が焦点となる事件が報道されていました。聖書が旧約の頃からすでに大切にしていたことは、この敵意、憎しみです。人間、やはり過ちを犯すわけですが、そこに「そんなつもりではなかった、まさかそんなことになるとは思わなかった」という失敗があります。一方、その過ちによって被害を被った人は、怒り心頭に達し、なんとかその被害を贖ってほしいと願います。双方の主張が対立してしまったとき、仲裁に入って、執り成す必要が出て来ます。とくに、共同体、共に生きる場合は、双方の主張を良く聴いて、判例に基づいて仲裁し、調停する人々の役目が求められます。ヨシュア記第二十章4節によれば、それは長老の職務であったということです。

今日は最後に、この復讐と赦し、仲裁についてどう考えるべきか、関連する御言葉をみながらまとめたいと思います。新約聖書で復讐について触れているところ、一つ見ておきます。ローマの信徒への手紙12:1819(新292p)をお開きください。

できれば、せめてあなたは、すべての人を平和に暮らしなさい。愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」と書いてあります。

これはパウロ個人の言葉ではなく、申命記32や詩編94の言葉の引用です。つまり、旧約でも新約でも、復讐は認めていないということになります。イエス様も「汝の敵を愛せ」と、わたしたちにはとても実行することが難しいことを御言葉で語りながら、十字架において「彼らを赦したまえ」と祈られました。敵をも愛する、このお姿にならって、憎しみが広がらないように努めることは、信仰者の召されたところだと言えます。

一方で、このヨシュア記の「逃れの町」が示していることは、ただ「過失の誤りは赦しなさい」と言っているわけではないことも覚えておきたいと思います。この逃れた人にも、果たすべき責務があります。それが4節「その町の長老たちの聞いている前でその訳を申し立てねばならない」、また6節「共同体の前に出て裁きを受ける」、そして民数記のほうでは、判例に基づいてという言葉もありました。つまり、やはり人に害を与えた人に対する真実は検められなければならない、ということです。

この七月の終わりに、近畿中会からの派遣ということで、日韓教会青少年交流ツアーに、教職として青年たちと一緒に韓国に行くことになりました。今回、青年たちに学びの場として与えらえられているものは、2014416日におきたセウォル号事件をめぐる韓国の教会でも問題です。犠牲になった高校生のなかで、クリスチャンも多くいたということです。そのご両親たちには、突然子供を亡くした深い悲しみが訪れました。当然、被害者としてどうしてあのような事件が起きたのか、政府の原因究明を強く求めたわけです。ところが、ある教会では、「イエス様は汝の敵を赦せといったではないか。あなたたちの息子娘は天国にいったのだから、これ以上政府を攻撃するのはやめなさい」という人たちがいたということです。あまりのショックに教会にいけなくなった被害者の親御さんたち。今回は、その人たちにあって、胸のうちを伺い、韓国の教会が抱える問題をわかちあうことが一つの目的になっています。

わたしは、やはり信仰者といえども、「信仰をもっているから、相手に復讐しない」ということを前面に立てて、真相をうやむやにすることには賛成できません。胸を痛めている人、傷ついている人は必ずいるわけです。事実を明らかにしなければ、事を起こしてしまった人にとっても、悔い改めの大切さ、神様の赦しの恵み、本当のありがたさがわからないままになってしまいます。。

共同体で起きうる問題ということで考えれば、なにか教会で問題が起きたとき、それは相手を責めることを目的とするのではなく、共同体全体の益とするために、可能な限り明らかにして、宣教を前身させるための糧として受け取りたいと思っています。きっとこのとき、「逃れの町」に逃れて来た人が、長老たちにわけを話したのでしょう。そして判例を積み重ねて、長老たちが神の知恵を仰ぎながら、祈って判断したことから、共同体には生活に即した具体的な対処法が、全体の知恵として蓄積されていったはずです。これは共同体の共有財産になったであろう。こうして、イスラエルが救いを告げ知らせる務めの知恵となっていったはずです。そのように考えたとき、この「逃れの町」の制定に見受けられる、主なる神様の深い知恵にも、畏れとともに、共同体全体の歩みを導かれる、きめ細やかな憐みを思い起こすものです。以上、ヨシュアに対する土地の配分から、共同体に仕える人と仕えられる人の互いに配慮する姿、また逃れの町をめぐる、共同体に与えられた知恵を、ヨシュア記第19章、第二十章からみてきました。今日は、これまでとします。

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