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7月12日祈祷会 ヨシュア記第二三章

「 主が先立つ信仰の戦い 」

 ヨシュア記も終わりに近づいてきました。モーセの後を継いだリーダー、ヨシュアの名前をとった、彼の生涯を描いたとも言えるヨシュア記です。彼の人生の終わりが、第23章に記され、次の第24章が最後の章になります。

 一読してお気づきのように、この第23章までのところで、イスラエルがカナンに定住する旅は一つの区切りを迎えました。主なる神様が、とても弱弱しい民であったイスラエルをエジプトの奴隷の家から救い出し、約束の地まで導く旅は、各部族に嗣業の土地が分配されたことで、いったんの区切りがつけられます。これにて、イスラエルの救いの旅路は終わったかのように思えます。

 ところが、今日も読んでいたところどころに、どうもすべてが完結したようには思えないところがありました。たとえば7節「あなたたちのうちに今なお残っているこれらの国民と交わり、その神々の名を唱えたり、誓ったりしてはならない。それらにひれ伏し拝んではならない。」とありました。「おや?すべての異民族を追い出したのではないのかな」と思われるかもしれません。じつは、14章から21章にかけての各部族への土地の分配のところどころに、異民族がイスラエルの部族のなかに残って、あたかも混血、あるいは同居するようにして、とどまりつづけたという短い文章があります。一か所だけ確認のために、あけておきます。ヨシュア記第169-10節(旧365p)をお開きください。これはヨセフからマナセとエフライムに分かれたうちのエフライム族への土地の分配に関わるところです。お読みします。「このほか、マナセの人々の嗣業の土地の中にもエフライムの人々に配分された町町とそれに属する村があった。彼らがゲゼルに住むカナン人を追い出さなかったので、カナン人はエフライムと共にそこに住んで今日に至っている。ただし、彼らは強制労働に服している」。これと似たような表現がそれぞれの部族への土地の分配の、終わりのところに、但し書きのようにして遺されています。じつは、完全に、先に住んでいた民族を追い出したわけではなかったのです。

 ところで、わたしたちは聖書のなかにところどころ、「土地の占領」、あるいは、「先に住んでいた民族を追い出す」、という穏やかではない表現を聴くとき、これまでの歴史のなかにあった、先住民族を追い出して、あとからきた人々が定住する悲劇を思い浮かべるかもしれません。ここが一つの、イスラエル民族のカナン定住の物語を読むときの留意点になります。カナンに住んでいた人を追い出す、というところを、安易に、先住民族を追い出して自分たちの土地にすること、表面的な理解で終わってしまうと、そういった行為の正当化に安易につながり、危険です。

なんども繰り返しますが、イスラエルの救いの旅は、十戒にもあるように、「奴隷の家から主なる神様がイスラエルを救いだし、神様を礼拝する民へと新しくしていく」、目的を持つ旅でした。いうなれば、すべての信仰者が、この旅路を、実際の信仰の日々のなかにあって、歩むということです。論点は、土地の侵略し定住すること、ではなく、神様が約束されるところに導かれて、神様を礼拝し続けるものとされる。そこには、今日は一緒に取り扱いたいと思っている、改革派の信仰理解からいくと、イスラエルの救いの旅は、「新生」あたらしく生まれること、「聖化」聖なる民として継続的に神様のほうを向いていくこと、その過程だと読み取ることができます。

わたしたちの救いのために、約束の土地、信仰者として生きる立ち位置が与えられたあと、なお残る信仰の戦いがあります。たとえば、それは、キリストのものとされたあとも、わたしたちの心の中になおのこる、「キリスト以外を主とする偶像崇拝の過ち」を示している、そのようにこの第23章を読むと意味がいっそう深まっていきます。

①ヨシュア、死に際しての信仰の証し。経験に裏打ちされた後代への忠告

14節には「わたしは今、この世のすべての者がたどるべき道を行こうとしている。」とありました。ここでヨシュアは死を覚悟しています。いわばヨシュアは遺言を語っていると言えます。人は死に際して、遺言に真理を語るとよく言われるものです。ヨシュアは死にのぞんで、信仰的な人生経験に裏打ちされた真実の言葉を語っています。

1節には「多くの日を重ね、老人となった」ともありました。聖書が信仰の書物である理由、様々なことから言えます。そのうちの一つには、そこに収められる信仰者の証言は、信仰的体験に基づいている、ということがあります。いわば「証し」の書物です。それは、なんの証しであるかというと、「キリストの証し(ヨハネ5:39)」に集中していくものでしょう。ヨシュアはもちろんキリストという言葉は用いません。しかし、彼が遺言しようとしていることは、とくにキリストの信仰に生きるわたしたちにとって、「キリストのみを主と仰ぎ、主が先立つ信仰の戦いを戦うこと」を証ししているに等しいものです。それはまず、ヨシュアが、「主なる神様を愛しなさい」と語っているところにあらわれています。

わたしたちが神様をどうすれば愛することができるのか。神様は目には見えないお方です。主なる神様が、具体的に生涯の信仰の歩みの中で、どのようにわたしたちの人生とともに歩んで、戦ってくださり、愛を示されるのか。それは、主なる神様の愛が顕れたイエス・キリストのお姿によるものでしょう。11節には「だから、あなたたちも心を込めて、あなたたちの神、主を愛しなさい」とヨシュアはいいます。この言葉と関連が深いところを、一つ開けておきたいと思います。ヨハネによる福音書第1415節以下(197p)をお開きください。ここは、イエス様が神と人が愛し合う関係だということを、聖霊の働きをめぐって語っておられるところです。ここではとくに21節をまず読んでおきます。「わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現す。(ヨハネ14:21)」、この関係です。「愛」と言いますと、日本語ではいろいろと意味が様々にある言葉ですが、聖書が使っている「愛」と訳される「アガペー」は、慈しむこと。あわれむこと。大切なものとして考えることです。ヨシュアが遺言としてしっかりと語っておきたいことは、「神様がまず約束の土地まで導いてくださったでしょう、だからこれからもその神様お一人を愛していきなさい」ということです。これを、わたしたちキリストによって信仰を得ているものは、イエス・キリストのお姿を通して、主なる神様を一層、愛し続ける信仰に導かれているということです。そこで神が顕れるということなのです。

②「主、御自身が戦われる戦い」、ヨシュア自身がまったく栄光を主に帰している

 ヨシュアは主なる神様を愛し、全幅の信頼を寄せて、イスラエルの戦いを戦いぬいた人でした。ヨシュア自身が優秀な指導者であったことは、疑いの余地はないでしょう。若かりし頃は、モーセの従者としていろいろと傍らで学びながら、力量を培っていたはずです。ですから、このたびのカナンへの定住が成功したことは、人間的な価値観からすれば、ヨシュアの指導によるものと受け取れなくもありません。ところが、ヨシュア本人が、絶対にそう言いません。3節には「あなたたちの神、主は御自らあなたたちのために戦ってくださった」、また10節には「あなたたちの神、主が約束されたとおり御自らあなたたちのために戦ってくださるからである」とあります。徹底的に、この戦い、すなわちわたしたちにしてみれば、信仰の戦いは、神様が戦ってくださるものであるということ、それをヨシュアは徹底して語るのです。

 この、自分自身の力で救われるのではなく、神様の一方的な恵みによって救われるということを考えたとき、わたしたちは、今日、一緒に考えたいところ、改革派が大切にしてきた立場も重んじたいところです。それは、人間だけの力では、どうにも信仰は養われることはないし、それは人間的努力によるのではなく、神様ご自身、言い換えれば、神様の今働かれるお姿、聖霊によるという理解です。

 わたしたち自身の力で救われるのではないということに関連して、6節には、「だから、右にも左にもそれることなく、モーセの教えの書に書かれてあることをことごとく忠実に守りなさい」という言葉があります。ここで「モーセの教えの書」と言われるものは、十戒を中心としたモーセ五書と言われる律法集のことです。律法からそれることなく歩むことで「主ご自身があなたたちのために戦ってくださる」ということです。

 「右にも左にもそれることなく」、このようなまっすぐした信仰の強さが備わっていれば、どんなにか素晴らしいことかと思います。このような強い信仰を持ちたいと願うことがあるでしょう。ところが、律法と人間の罪の関係を考えるとき、残念ながら人間には律法を完全に守ることは出来ない、ということが合わせて結論とされています。人間が律法によっては救われないと言われているところを、一か所、あけておきたいと思います。ガラテヤの信徒への手紙第310-11節(新345p)です。お読みします。「律法の実行に頼るものはだれでも、呪われています。『律法の書に書かれているすべての事を絶えず守らないものは、皆、呪われている』と書いてあるからです。律法によってはだれも神の御前で義とされないことは、明らかです。なぜなら、『正しい人は信仰によって生きる』からです」それでは、ヨシュアがここで「右にも左にもそれることなく、モーセの教えの書に書かれていることをことごとく忠実に守りなさい」という言葉と、矛盾するのではないか、と思われるかもしれません。旧約聖書のみで考えれば、そうかもしれません。しかし、律法によって明らかにされる人間の不完全さのゆえに、わたしたちには救い主イエス・キリストがおられることを、ここで思い起こすことが出来るのです。あらゆる誘惑に打ち勝つイエス・キリストのお姿は、とうていわたしたちが及ぶところではありません。四十日の荒れ野での誘惑、またゲッセマネでの祈りなどに顕れる、主なる神に信頼して、世の誘惑、罪に打ち勝つお方は、イエス・キリストのみであるということです。

いま、わたしたちにとって主、御自ら戦われるとき、それは聖霊の力となってわたしたちと結合するものです。さきほど、神と人が愛し合うところで、ヨハネによる福音書第14章をあけました。ここの、15-17節に、「弁護者」、すなわちこれは聖霊のことですが、これを父からも、またイエス・キリストからも送ると言ってくださいます。神と人が愛し合うところにあらわれるもの。それがすなわち聖霊の働きであって、これによって、わたしたちは神以外のものに頼って、自分自身の力で、なにごとも乗り切ろうとする生き方から解放され、イエス・キリストを主と崇める信仰へと導かれることになります。

ヨシュアの告別の言葉を巡って、主ご自身が戦われる信仰の戦いに聞いてきました。これは、言い換えれば、主なる神様に全幅の信頼を寄せて、歩むべき人生を歩みとおした信仰者の言葉でした。この言葉を聞きながら、イスラエルの全会衆は、この土地になお残る、他の神々を拝む人たちに与することなく、ただ主なる神様を信頼し、礼拝する歩みを続けることを、あらためて固く、心に決めたことでしょう。カナンの土地になお残る異教の人たちの存在、他の神々などを礼拝しようとすることは、信仰的な見方をすれば、救われたあとも、わたしたちが戦っていかなければならない、主なる神様以外のものを神としてしまう、信仰の戦いであるということです。わたしたちもまた、ヨシュアの臨終に際して遺言されたこれらの証しから、わたしたちの信仰の戦いには、つねに聖霊によって働く、神ご自身が、まず戦ってくださること、そしてそれは十字架によってすでに勝利が確定していることに安堵しつつ、「右にも左にもそれることなく」「心を込めて、わたしたちの神、主を愛する信仰が与えられるよう」に、祈り願っていきたいと思います。いよいよ、来週、第24章をもってヨシュア記が閉じられることになります。今日はここまでといたします。

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