« 7月16日説教のポイント | トップページ | 7月19日祈祷会 ヨシュア記第二四章14-33節 »

7月16日説教(郡上八幡伝道所)説教のポイント

潤いは、雨のように、雪のように

聖書 イザヤ書第55章8-11節

             伝道師 三輪恵愛

 梅雨の季節もそろそろ終わりかと、思うのですが、いまだ雨が降る日が続いています。九州地方においては、記録的な豪雨による災害が発生し大きな被害が出ました。知らせが入るたびに胸をいためます。可能な限り支援が行き届くように祈り願わずにはおれません。雨の量がもう少し、わたしたちの手で制限できればと、思うところですが、自然にまつわることは神様の摂理によりますから、わたしたちにはどうすることも出来ないものがあります。また、雨がなければ、大地が潤うことがありません。しばらく県北のほうでは水不足に悩まされていたと聞いています。まとまった雨が降ることで農作物も育ち、水が満たされ、暑い夏も乗り切れるのではないかと思います。

 このように、天から頂く諸々のもの。今日の御言葉では、それは雨であり、雪であるということです。潤いをあたえるこれらのものが、天より降り、恵みをもたらしていく。その情景が語られます。わたしたちの思いを遥かにこえて、主なる神様が降らせるべきときに、降らせてくださる。それは天から与えられるものだということです。

 さてこの天という言葉ですが、ヘブライ語でシャンマーと言います。これは単数形ですが、聖書にこの天という言葉が用いられるとき、これは必ず複数形になって用いられます。シャンマイーム。天を複数形で現すことが日本語にはありませんので、「天」という言葉を用いるよりほかりません。「天天」とか「天たち」、という風に他の名詞のように複数を表すことができないわけです。この天がいくつもあるというには、イスラエルの人々の独特の天に対する感覚です。それはどういうものかというと、「天がいくつもおりかさなったもの」、として考えていたということです。天を見上げたとき、雨や雪が降って来るところ、はるか遠く。わたしたちの見えないところに、神様は確かにおられる。それは、天の天をつきぬけた、遥か高い所、そこに神様はおられる。

 このように感じていた古代の信仰者たちの感覚にならい、わたしたちも今日の御言葉を、わたしたちの思いをはるかに超えた、高いところにおられる神様に思いをいたしながら聞いてまいります。

 イザヤ書は古来より、礼拝で良く好んで読まれたところと言われます。イザヤという預言者自身が多くの人たちに神より預かった言葉を語った人でした。書物になってからも、イザヤの言葉は集える会衆に向けて語られるわけです。したがって、神様が語りかける人たちにたいして、「あなた」ではなく、「あなたたち」と呼びかけます。そこには会衆が集められて、ともに聴いていることが含まれています。

 いま、この礼拝において、わたしたちは同じ一つの神様に礼拝をささげています。この礼拝のなかで向き合っている神様は、一人ひとりがそれぞれ別々の神様を礼拝しているのではありません。わたしたち一人ひとりが、同じ一人の神様を見上げています。

 今日の御言葉のなかには、8節と9節に、「あなたたちの道とは異なる」また「思いとは異なる」と書かれていました。これは、わたしたちには、与えられているそれぞれの道や、思いがあるということです。

 わたしたち、それぞれに与えられている道や思い。これは、たとえ近い関係にある人だとしても、それぞれの道や思いは、一人ひとりのものですから、わたしたちに、他の誰かの道や思いを、完全に知ることはできません。ときには、わたしたち自身の道や思いですら、わからなくなってしまうことがあります。

 このようなわたしたちの思いや道と、わたしの道や思いは異なると、神様は語られます。天のはるか高くにおられる神様が、それぞれの道や思いを眺めておられる。古代人は、わたしたち以上に、それを現実的なものとして感じていたことでしょう。高いところから、下をながめると、下から見上げた景色はずいぶん違うものです。ちょっと高いところに登っただけでも、それぞれの道が、どのように走っていて、どこにつながっているのか、良く見えます。あの郡上八幡城に登ったときも、下の道がどのようにつながっているのか、見ることができました。一人ひとりの道や思いを、天のはるか高いところから眺める神様。一人ひとりの道や思いを、ご存じであり、そのどれとも異なり、はるかに高いと言われます。

 すべての人の、道をしり、思いを知っている主なる神様であればこそ、「どの道や思いよりもはるかに高い」と、主が語られることは、なるほどその通りでしょう。たとえばこの礼拝を通して考えても、そう思わされます。今日、このようにして、お一人ひとりが神様に招かれて、礼拝をささげています。それぞれに、今日という日に向かう、一本の道がありました。いま、神様はそれを細い糸をより合わせるようにして、一つの群れとして交わりを与え、礼拝をささげるように導かれておられます。

 わたしたちは、それぞれの道を、それぞれの思いで歩んできたようだけれど、その遥か高いところの主の思いは、一つの群れに召し集めるために、計らっておられたということです。毎週日曜日、滞りなく礼拝が行われる恵みは、当たり前のことではなく、たしかに神様の御心がなければ、果たされないことです。天の遥か高みから一人ひとりの道や思いをご存じのうえで、御心をなさる神様は、たしかにわたしたちの思いを遥かに超えています。こうして、それぞれの道や思いから解き放たれて、いま、神様の道、神様の思いが示されるところに招かれました。それはここ礼拝です。礼拝では、主なる神様は、たえず聖書を通して御言葉を語られます。およそ御言葉なしに礼拝が行われることはありません。11節に「わたしの口からでるわたしの言葉」とありました。はるか高い思いを、わたしたちに知らせてくださるために、主なる神様は、わたしたちにもわかる言葉を語るお方です。

 この神の言葉がどのようなものか、これが10節で、雨と雪にたとえて語られています。天から降る、雨や雪を見上げるとき、現代人のわたしたちには、それは雲が雨や雪を生じさせて、降っているとわかってはいても、やはり天から降り注ぐものとしてとらえます。古代の信仰者たちは、雨や雪がふったあとに、大地が潤され、新しい命が芽吹く情景が、さながら、神の言葉を聞いた人が、新しい養いを受けることのようだと感じたことでしょう。

 イスラエルを旅しますと、国土の中部、地中海側には、穀倉地帯が広がっています。そこは緑に覆われて、日本のように美しい眺めです。ハイウェイから見ると、緑の草原が豊かに広がっていることがよくわかります。この穀倉地帯は、イズレル平野と名付けられています。意味は、「神が、種を蒔きたもう土地」。種まきのあと、天から雨がふってきて、一斉に、新しい芽が吹出す。その様子は、さながら神が天より種を蒔いて雨を降らせて、穀物を実らせたようだと。たとえ熟練の農夫が、穀物に関する知識があっても、最後の芽吹きのときには、天からの雨がなければ作物はそだちません。「神様がいてくださらなければ、実りはない」、畏れと感謝の気持ちをこめて、イズレル、「神が、種を蒔いた土地」と名付けたのです。

 わたしたちに、御言葉を聴かせてくださる神様。その御言葉も、大地を潤す雨や雪のように、一つの大切な目的をもって語られます。11節には天からの御言葉が「わたしが与えた使命を必ず果たす」と言われていました。その使命とは、渇いた大地を潤すように、御言葉によって、渇きを覚えたわたしたちの魂に潤いを与え、ふたたび、新しいものとなる、養いを与えることです。

 このイザヤ書は、長い時間をかけて語られてきたものと言われています。記されている歴史的な事柄から推測するに、いまの完全なかたちになるまで、短くても300年はかかっているようです。はじめイザヤという預言者個人が語り、そののちに、イザヤの弟子たちと言いましょうか、立場を同じくする人たちが、それに続いて神様から語られた言葉をつづっていきました。この第55章はイザヤ書でも終わりの方にあたります。これは、ダビデの王国がさんざんに滅ぼされバビロン帝国に連れていかれたあと、ふたたび解放されて、戻ってきたころの預言といわれます。

 この預言を聞いた人たちは、主なる神様から背いて、捕らわれの身となったことで打ちひしがれていました。これから、どのように国を建て直していこうか、困難がたちはだかります。なによりも、主なる神様に背いてしまったという自責の念が強かったことでしょう。そこで、この第55章は、小見出しにも「御言葉の力」とあるように、打ちひしがれている人たちに、神の言葉は、あなたたちの渇きを必ず潤し、必ず、使命を果たす、そのように言われるところなのです。

 主なる神様の御言葉をきくとき、わたしたちもまた、魂に渇きがあることを知るということ、これは大切なことです。わたしたちが、聖書のことを聞きたいから教会に聞きに来た、ということではありません。わたしたちのすべての道を知り、また思いをしっているからこそ、それぞれの道をより合わせるようにして、礼拝に導く神様。わたしたちの思いを遥かにこえて、わたしたちのなかのどこかにある、潤されなければならないところをご存じだから、雨や雪のように潤いある御言葉を語ってくださいます。

 それではどうして、主なる神様が、わたしたちが御言葉を求めている渇きを、わたしたち以上に知りえることがあるでしょうか。はるか高いところにおられる主なる神。わたしたちの道を知っているとはいっても、それは、高い所から眺めているから、遠くから知っているという意味ではないのか。地上の歩みは、天の高みとはぜんぜん違う、神様にしてみれば、きわめて世俗的な歩みであり、神様はそれをご存じなのかとわたしたちは感じるかもしれません。

 どのようにして、主なる神様はわたしたちの歩みを知っていてくださるのか。そこにおいてわたしたちは、「わたしの口から出るわたしの言葉」が、本当に、地上まで降りて来てくださったお方。わたしたち人間の歩みをつぶさに御覧になり、ともに歩んでくださり、主なる神様が与えた使命を成し遂げて、天に戻られたお方を思い起こします。人の体をとられた神の言葉、イエス・キリスト。わたしたちを友と呼んでくださるほどに、天から眺めるのではなく、地上において寄り添うように歩んでくださった方です。だからこそ、わたしたち一人ひとりの道も、思いもご存じであり、御言葉に聞くべき魂の渇きをしっていてくださる。いまや天にあって、わたしたちに必要な御言葉の潤いをご存じでいてくださるのです。そのみ言葉が、わたしたちに雨や雪のように降り注ぎ、潤いを魂にあたえてくださるのです。

 最後の11節では、神様が語られる言葉は、わたしたちの思いを遥かに超えて、必ず使命を果たすということでした。今日、ともにお聞きした御言葉も、雨や雪の潤いのように、わたしたちの魂の糧となり、相応しいときに芽を出し、生い茂ることでしょう。それは種まき人に種を与え、食べる人に糧を与えように。神様の口から出る生ける御言葉、イエス・キリストが、わたしたちの思い、道を遥かに超えて、御心を成し遂げてくださいます。父、子、聖霊の御名によって、アーメン。

 祈りをいたします。わたしたちよりもわたしたちのことをご存じである主なる神様。魂の渇きを自分自身が感じていない時も、相応しい御言葉を予めかたってくださり、飽くことも、欠けることもなく養ってくださることを知って感謝いたします。そのみ言葉が、わたしたちに信仰の実りを与え、また語るべき言葉すら与えてくださいます。どうぞ与えてくださった御言葉が、いよいよわたしたちのなかで糧となり、あたがご自身が果たされる使命を、わたしたちを用いて、成し遂げてくださいますように。主の御名によって祈ります。アーメン。

« 7月16日説教のポイント | トップページ | 7月19日祈祷会 ヨシュア記第二四章14-33節 »

コメント

この記事へのコメントは終了しました。

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 7月16日説教(郡上八幡伝道所)説教のポイント:

« 7月16日説教のポイント | トップページ | 7月19日祈祷会 ヨシュア記第二四章14-33節 »

フォト

カテゴリー

写真館

  • 201312hp_2
    多田牧師「今月の言葉」に掲載したアルバムです。(アルバム画面左上のブログ・アドレスをクリックしてブログに戻れます。)
無料ブログはココログ