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7月19日祈祷会 ヨシュア記第二四章14-33節

「 契約は時に応じて新しくされていく 」

(導入)この第24章でヨシュア記は閉じられることになります。書物の名前のとおり、ヨシュアの事績を通して、イスラエルの約束の地への定住が記された書物でした。これまでのところで、モーセの従者として召し出され、約束の地へ最後まで導くヨシュアのなすべき勤めはほとんど、果たされました。最後に残ったものが、このシケムという土地において、主なる神とイスラエルの民との契約を結ばせることでした。契約ということで旧約聖書を考えると、アブラハムの契約からはじまり、すでに神と民の契約は結ばれています。ですから、最後のヨシュアの契約に関わる務めは、神と人との間に立って、いわば仲保者として契約を新しくすることと言えます。これは、旧新約聖書、全体から考えれば、主イエス・キリストが御体をもって新しい契約を結ばれたことの予め示されている形、「予型」と言えるものです。

①神と人との「契約」。それは、信仰の在り方を考えるときの大切な要素

ここで、「神と人の契約」について、旧約聖書ぜんたいから考えられることに触れてから本文に入りたいと思います。

1)さきほども触れました。まずはじめの契約は、神様とアブラハム契約です。これは創世記第17章に詳しく記されます。今日は読むいとまがないので、口頭での紹介にとどめます。アブラハムが神様の導きと祝福を信じることで契約が結ばれました。「信じることで義とされる」、それは神様からの一方的な恵みであるとされます。

2)つぎにシナイ契約です。出エジプト記第19章ほか、いくつかのところで、シナイ山における神の顕現、御自身の姿を顕された出来事が記されます。このとき、十戒をはじめとして、恵みに応え、祝福を選び取るための律法が与えらました。

3)それから、ダビデ契約があります。これは、サムエル記下第7章で、預言者ナタンを通してダビデに与えられた契約です。ダビデの王座と子孫は後々まで祝福されるというものです。ある神学者によれば、アブラハム契約で約束された子孫繁栄が、ダビデにおいて成就した、と見ることが出来るともいわれます。

旧約聖書での契約について、主だったところをご紹介しました。ではこのシケムの契約は、どういう位置づけがされるか、という点です。それははじめの方でも触れたように、すでに結ばれている、ここではとくにシナイの山での契約が新しくされる、契約更新の出来事と言うことができます。

契約を更新するにあたり、神様は独特の仕方を取ります。それは、まず神の恩恵の歴史を振り返ることから始めていることです。それは第24章では1~13節に記されていました。今日は、この章の後半に焦点を合わせたいので輪読から外しました。あらすじがわかれば充分な内容になっています。そのあらすじは、創世記に始まってヨシュア記のこの時点までにおける、神様の恵みの御業についてのものです。つまり、かつて神がどれだけイスラエルに恵みを賜ったか、そのことが思い起こさせるために綴られているものです。そして、その救ってくださった神様との契約を、保たれている状態で、新しくしますか?という選択が、いまイスラエルの民にヨシュアを通して、示されていることになります。

神様と人の契約がどのように新しくされるかを理解するために、ここで「契約」という言葉の源にも触れておきたいと思います。「契約」はヘブライ語で“ベリート”といいます。そして、「契約を結ぶ」と訳される言葉は、直訳すると、意味は「契約を切る」という言葉になります。それは、契約を結ぶときに、食事をしながら、食材を切り分けて、目上の人から格下の人に与えるという古い慣習から来ていると言われています。また、契約の際に、動物の肉が切り裂かれたことも関係しているようです。

“ベリート”の語源から考えると、目上の人が格下と契約を結ぶということは、格下のものにとってはまたとない恵みです。なぜならば、それ以後、主人となったものから守られることになるからです。その人の所有となって、命を保障されるからである。契約を結びかわす主人と仕えるものが、食事を分かち合い、目上から取り分けて目下に与えるという仕方は、その契約関係を行為でシンボル化したものであると言えます。

このように考えると、ここシケムの契約においては、食事の風景はありませんが、1~13節のながい分量をさいてアブラハムからはじめて、エジプト脱出まで触れている意味は、「主なる神様は、ここまでわたしたちを恵んでくださったお方なのである」ということを思い起こさせることにあたります。

②神様の恵みが見えにくくなっている世の中で、自らの口で信仰を告白する大切さ

こうして、それだけ恵んでくださった神様が、契約を新しくしようと言って下さいますので、「さあ、結びましょう」と言いたいところです。主なる神様に守られるわけですから、イスラエルの民にとってはまたとない恩恵です。ところがヨシュアは14節、15節で、他の神々に仕えることがありえると、異教の神を礼拝する過ちの可能性について触れています。これは、どういう意味があるのでしょうか。

それは、主なる神様との契約にもとにいても、実際のところ、民には他の神々にも仕える、いわば自由があるということです。ヨシュアは、契約を守る道には、自らの心からの応答によって、主に仕え、礼拝をささげていくか、それとも、応答することなく、他の神ではないものを神と考えて、その道を歩むのか。両方の歩み方を示したうえで、真心から、主なる神様に仕える、自発的、積極的な信仰の応答になるかどうか、その点を示していると言えます。

ここから神様から与えられている一方的な恵みに関わる今日的な課題を考えてみたいと思います。1~13節まで、まず神様がなにをしてくださったのかが思い起こされました。ひるがえって、わたしたちも日々の生活のなかで、お祈りなどでも、「~~について感謝いたします」と祈られると思います。今日、この日、どれほど神様が恵みを与えてくださっているか、御業を数えるようにして確かめることです。

ところで、そこにおける課題は、いま人間中心の世の中に暮らすなかで、神より賜る恵みが本当に見えにくくなっていることです。便利な社会は、その便利はいったいどこから来たのか。世の中が便利になっていくということは、恩恵を受けるものと、その源との距離を開かせる一方だと言えます。たとえば、自然の賜物を考えたとき、食卓に並ぶまでどれほどの神の恵みに与らなければならないか、見えにくい世の中になってきています。わたしが一年半くらしたアジア学院においては、毎日、無農薬の有機農業にたずさわることで、苦労するなかでどれほど神様の恵みがありがたいものか、身をもって体験しました。もちろんこれは、ほんの一例に過ぎません。魂の救いということを考えても、刹那的な慰めものに満ち満ちている現代では、神の救いの恵みが、人間中心の社会のなかで、見えにくくなっています。

では、わたしたちは、ここの箇所に記されるイスラエルの民の答え方から、なにを見いだすかということになります。ヨシュアに、「あなたたちは主に仕えるか?礼拝するか?」と問われた民は、自らの口で応答しています。16節「主を捨てて、ほかの神々に仕えることなど、するはずがありません」、21節「わたしたちは主を礼拝します。」、24節「わたしたちの神、主にわたしたちは仕え、その声に聞き従います」。この信仰の告白が契約を新しくする証しとなりました。わたしたちも、主の食卓に招かれるときなど、特別な礼拝をささげるときは、日本キリスト教会信仰の告白や、使徒信条、ニカイア信条を用いて信仰を告白します。信仰を自らの言葉で告白していく。これは、わたしたちが主体的、積極的にすることができる、神への応答です。くり返し、繰り返し、告白することで、神様の恵みが見えにくくなっている世の中にあっても、わたしたちは霊的なまなざしを養われ、主なる神こそが、真実の恵みを与えて下さる方であることを、確かめます。こうして、神の民は、はっきりと公に、ともに信仰を証ししながら、契約のもとに置かれていることを思い起こします。いまでもそのようにして、信仰を新しくする仕方が礼拝において脈々と受け継がれています。

③見える形として、契約の証しが残されていく。それは私たちが思い起こすために

ここまで、契約は、神様からの一方的な恵みを覚えて思い起こし、民がそれに答えて、神に仕えて、礼拝いたしますと応答することで結ばれるという点を見て来ました。ですから、シケムの契約も、完全に主なる神様が主体となっている契約の更新の場面です。

ところで、はじめのほうでも触れたように、神と民の間にたって、双方の仲立ちをしているのがヨシュアです。これが彼の人生最後の務めになりました。25節では「その日、ヨシュアはシケムで民と契約を結び、彼らのために掟と法を定めた」、とありました。つまり、ヨシュアはここで、神と人の関係を良好にするために、間に立つ人、仲保者の役目を果たしていると言うことができます。

契約更新に際して、神と人の間にたつ、この仲保者の役目は欠かすことのできない存在です。契約という言葉の意味から考えても、恩恵を被る側と、被られる側のやりとりは、仲保者がいてこそ成立します。恩恵を受ける側は、まったくそれに見合うものをもち合わせません。恵みに応答する仕方を、受ける側に適切に伝えることが仲保者の役目となります。

そのように考えると、ここで神と人のあいだにたっているヨシュアの姿には、御自身をもって神と人の和解にむけて捧げた、イエス・キリストの姿がすでに見え始めていると言えます。これまで何度か、ふれてきました。これも「新約の兆し」と言えるところです。

古代の契約は、食事が切り分けられて、主人から目下のものへと与えられたことに端をはっすると紹介しました。そうであれば、イエス・キリストは、御自身そのものを切り裂かれるものとして、契約を新しくするために来られた方ということになります。主の食卓において記念される救いの出来事は、主ご自身が、裂かれる犠牲として、一方的に与えられたものであることが、ここでもわかってきます。

さらに27節では、石を置くということをして、見える証しとしていた。これも大切なことです。というのは、主の食卓において、わたしたちは、絶えることがない主の恵みを、パンが裂かれ、ぶどう酒が注がれるときに、それを実際に目で見ます。そして、わたしたちは主の十字架を思い起こします。シケムの契約では、1節~13節までのところで、「どのようにして救いを約束し果たしてくださるのか」が語られました。恵みを思い起こして、契約を改め、確信をもって新しい歩みを始めるという、本質的なところは古い昔から変わっていません。キリストは、そのご自身の犠牲をもって、十字架は一回限り、しかし思い起こす主の食卓は、永遠に教会とともに執り行われるように定めてくださいました。これによって、わたしたちは、主の恵みをいつも新しく思い起こし、確かなものとされます。

また、もう一つ、「石を置く」ところから言えることとして、わたしたちには、主を礼拝する見えるしるしとして、見える教会が置かれています。これも神様のたぐいなき恵みである。教会の建設ということを考えるとき、教会に招かれている主の家族、相互の交わりによる教会形成は、見えない教会のありかたです。一方で、見える形で、礼拝の場所を備えてくださったことにより、見える教会でもありえる。今日は、岐阜教会建設を記念して祈りを集めるように時が備えられました。主なる神様の熱情は、この岐阜の地に礎を置いてくださり、126年の岐阜教会の歴史を刻みました。どれほどの人がここにつながって、信仰を与えられ、いまも確かな信仰を引き継いでいるかを思うものです。イエス・キリストを仲保者として、神との契約を新たにしていく群れが、ここに生まれ、育まれ、未来にむけても、つぎつぎと主が御業を起こしてくださることです。この第24章で民が告白しているように、150年、200年、はてはイエス様がまた来られるその日まで、「私たちの神、主にわたしたちは仕え、その声に聞き従います」、そのように告白する群れであり続けたいと心より祈り願うものです。

以上、ヨシュア記が終わりました。次週からは士師記に入ります。士師記では、ヨシュアのような指導者が民を導く歴史が綴られており、やがては、民が王様を求めるようになるまでの、中間的な出来事が書かれています。そのなかで、約束の土地における信仰の戦いが、ヨシュアの死後のイスラエルの歩みでどのように進められていくのか、引き続き聖書にたずねていきたいと思います。今日はここまでといたします。

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