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7月23日説教(郡上八幡伝道所)説教のポイント

「種まきの人、キリスト」

聖書 マタイによる福音書第1324-30

                         伝道師 三輪恵愛


イエス様は、「たとえ話の天才である」という言葉を聞いたことがあります。深く、広い、主の御心が記されてある、この聖書のなかにあって、福音書において語られるイエス様の喩え話は、わたしたちに隠されている神様の真理を、豊かに顕すものです。これに聞くとき、わたしたちも隠されていた真実に気づくことができるものです。

「喩え」と訳される「παραβολή」というギリシャ語は、そのまま英語でいうところの「喩え」、a parableの語源となりました。これは、理解を促すために、身近にあるものを用いて、説明することを意味します。喩えるとき、大切になるのは、なにを比較するのかを定めることです。語ろうとしている中心が定まっていてこそ、身近にあることを用いて比べるつながりが明らかになります。

たとえば、まさに喩え話ですが、蒸し暑い日に、「まるで蒸し風呂にいるようだ」と言ったとき、その話題の中心は、温度や湿度が高いということになります。ところが、その喩えを聞いた人が、「え、その蒸し風呂は広いの?」とか、「どんな匂いなの?」という質問がかえってきてしまっては、たとえの意図が果たせません。いやそうではなくて、「蒸し暑いことを言いたかったのですが」、と語ろうとする事柄の中心が、わからなくなってしまう。喩え話には、話題の中心を捉えることが大切になります。

①喩え話の説明があるなら、説明の必要はないのでは?いえ、さらに隠れている真実があります!

 イエス様が喩え話をもちいて福音の真理を語られるとき、聞く人たち、それはたいてい、聖書に登場する弟子たちであり、ファリサイ派の人達、そして今日のみ言葉では群衆です。さらには、聖書の御言葉に聞くわたしたちが含まれます。だから、わたしたちも、「なにが語られる中心となっているか」、これに意識して聞くことは、身近なものがなにを表しているかを理解するため、大切なことになります。

ところで、おおむね、イエス様は喩え話を語られた後、その理解は、聞き手にまかせます。ときには、それが理解できない人がおり、イエス様は理解されないままにされることもあります。

その点、今日のみ言葉は、喩え話のなかでも、比較的、分かりやすいところです。「毒麦のたとえ」と小見出しがつけられています。そして、「天の国は次のようにたとえられる」と言って、まず中心点は「天の国である」とはっきり告げられています。登場するのは、主人と僕たち。それから、眠っている間に毒麦を蒔いた敵。そして、麦と毒麦が収穫される日。一読するだけで、「天の国は、最後には、毒麦が刈り取られて、良い麦だけが残るのだな」と、ある程度、理解ができるようになっています。これの喩えが天の国を指しているのであれば、最後には、敵がどれほど悪いものを増やしても、ちゃんと取り除かれて、良い者だけが残る。天の国とはそういうところだ、という真理を示していることがわかります。

 さらに、イエス様は、親切なことに、このマタイ13章においては、すべての喩え話の説明をなさっています。他の箇所でいえば、第13章冒頭の「種を蒔く人の喩え」、それは、今日のみ言葉の上のところに、「種を蒔く人の説明」というところで説明されていました。また今日のみ言葉の毒麦については、1頁めくっていただいて、36節から、言葉一つひとつを丁寧に説明されています。つまり、ここを読めば、喩え話の意味がよくわかるようになっているわけです。説明を聞いていた弟子たちも良く分かったことでしょう。今日は、御心を知るために必要なところですから、喩えの説明のところも読んでおきたいと思います。3643節です。それから、イエスは群衆を後に残して家にお入りになった。すると、弟子たちがそばに寄って来て、「畑の毒麦のたとえを説明してください」と言った。イエスはお答えになった。「良い種を蒔く者は人の子、畑は世界、良い種は御国の子ら、毒麦は悪い者の子らである。毒麦を蒔いた敵は悪魔、刈り入れは世の終わりのことで、刈り入れる者は天使たちである。だから、毒麦が集められて火で焼かれるように、世の終わりにもそうなるのだ。人の子は天使たちを遣わし、つまずきとなるものすべてと不法を行う者どもを自分の国から集めさせ、燃え盛る炉の中に投げ込ませるのである。彼らは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。そのとき、正しい人々はその父の国で太陽のように輝く。耳のある者は聞きなさい。」

 イエス様が、弟子たちに丁寧に、喩え話の説明をしているところは、一つには、弟子たちの理解を助けているということが言えます。あるいは、伝道における師匠として、喩え話の極意を伝授し、弟子たちが伝道に赴くときに、うまい喩えで真理を示すようにと、訓練を施しているようにも思えるところです。

 いずれにしても、今日のみ言葉のたとえの意味は、この説明のところで明らかにされています。そうなると、説教者、つまり今日の礼拝でいえば、わたしはこれ以上、なにを語りましょうか、ということになってしまいます。そうすると、「どうぞ、この喩え話は、イエス様ご自身が説明しているので、そちらをご参照ください」ということで、説教が終わってしまうのでしょうか。

 そうではありません。喩えと、喩えの説明を良く読んでみると、それでもなお、イエス様は、大事な点において、隠したままにしておいてあるところが残っています。さらには、この第13章全体において、それぞれの喩え話の関係ということで考えると、なおわたしたちが聞くべき、真理が隠されているのです。

②それでは、まだイエス様が説明されていないところはどこか?「育つままにしておきなさい」

 さて、たとえの意味が説明されているところをお読みになって、どの点が、まだ説明されていないか、お気づきになられたでしょうか。それは、282930節が言うところの、僕が、毒麦を抜きましょうか?と言ったところで、主人が、「良い麦も抜くといけないから、育つままにしておきなさい」と応えているところです。なぜ主人は僕たちに抜かせなかったか。それは、「良い麦も一緒に抜くかもしれないから」と、答えます。ここにいちおうの答えはあります。ところが「良い麦も抜いてしまうかもしれないこと」について、イエス様がのちほど説明されるところにおいては、なぜ、毒麦を抜こうとすると、良い麦も抜くことがあり得るのか、そのことには触れられていません。なぜ僕たちは、毒麦を抜こうとすると、良い麦も抜いてしまうことになるのでしょうか。またそれが示していることは、具体的には、どこで、なにを行うことになるのでしょうか。

 まず、毒麦を抜こうとすると、良い麦も一緒に抜いてしまうことになる、そのことについてみてみます。この喩え話を聞いているのは、群衆です。労働をしながら日常を生活している人たちでした。イエス様は、喩え話がわかりやすいように、彼らの生活の現場にあるものを用いて喩え話をなさいます。この点も、喩え話の天才といわれるゆえんかもしれません。

 群衆の多くは、農業に携わる人たちが多かったと思われるなかで、良い麦のなかに生えた毒麦を見つけ出して、抜くことが、難しいことは、いつも体験していること、共感できる事柄であったのでしょう。毒麦と言われる植物は実在するもので、見た目が麦をそっくりです。日本にも帰化しており、全国に分布していると言われます。この毒麦のやっかいなところは、見分けがつかないだけでなく、発育時期も麦とほぼ同じで、同じ所に生えると根っこが絡み合い、引き離すことが難しいと言われています。ですから、喩え話のなかで主人がいう、「いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない」という言葉は、喩え話を聞いている群衆には、説明をせずとも、納得できる事柄だったのでしょう。

 そうすると、ここでは、僕たちには、毒麦が良い麦と見分けがつかないことが問題となっていることが分かってまいります。つまり僕たちは、主人が『敵の仕業だ』と言ったとき、見分けがつかないにも関わらず『行って、抜き集めておきましょうか』と言います。しかし彼らが、良い麦と毒麦の見分けを明確につけながら、抜くことができるかどうかは、書かれていません。むしろ、主人が『麦も一緒に抜いてはいけないから』というところに、僕には、良い麦のなかから毒麦だけを選別して、予め抜く、ということが出来ないことが、暗にしめされていることがわかります。

③天の国にむけて教会が歩む中で、種を蒔き、良い実を結ばせてくださるのはキリスト御自身

 ここまで、24節から30節の喩え話と、その説明である36節から43節を見比べることによって、さらに隠されているものを訊ねつつ、御言葉にきいてきました。すなわち、イエス・キリストが示そうとしていることに、僕には、どれが良い麦で、どれが毒麦か、見分けることが出来ないということも含まれているということです。

 喩え話には、一つの中心点があることを見定めるということについて、はじめのほうで触れました。すでに見てきたように、中心点は、24節「天の国は次のようにたとえられる」と言われているとおりです。僕には、見分けがつかないというところに、「天の国」という言葉を付け加えれば、「天の国においては、イエス・キリストが蒔いた良い種と、悪い種は、僕、つまりキリストに従うものたちには、見分けがつかない。ゆえに、悪い種が取り除かれるまで、そのままにしておきなさい」と語られていることがわかってきます。

 ところで、次に、この喩え話の中心点となっている「天の国」について考えてみます。福音書において、天の国、あるいは神の国が語られるとき、それは、神のご支配のもとに生きる人たちの群れを示されていることを、併せて思い起こすことです。とくに、マタイによる福音書は、教会の在り方について、強い関心が置かれている書物ですから、教会において神のご支配のもとに生きる人たちの集まりと捉えることができるでしょう。

 教会では、生き方や考え方が違う人が多く集まり、キリストのみ言葉に聞き、救いに向けて、また宣教に向けて共に生きていくところです。その歩みのなかにあって、ときに様々な事柄について、善意についての考え方に違い、信仰の過ち、あるいは伝道における意見が衝突することも、しばしば起こり得ることです。それは、初代の教会から、絶えず起きたことなのでありましょう。

自ら、キリストに良い種を蒔かれたことを確信し、御言葉に活かされながら、主に従う僕たち。そのなかにあって、御言葉の捉え方、また行いが、異なるとき、しばしば御言葉の種を蒔かれた者同志のなかで、互いに信仰的に問題視することも起きたことでありましょう。今日の喩え話を用いれば、僕たちがいうわけです。「あの毒麦を抜きましょうか」と。

 そのようなことが教会で語られるとき、今日のみ言葉からわかる主なる神様の御心は、「毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。そのままにしておきなさい」ということなのです。わたしたち僕には、どれが良い麦で、どれが毒麦なのかわからないなかで、良い種を蒔き続けておられる、キリストのみが、毒麦のなかにあっても、良い麦が健やかに育っていることを、ご存じであるということです。

 わたしたちは、キリストのみ言葉を心の中にも蒔かれておりますから、そのみ言葉にきき、良いと思われることを行うものです。ときに教会のなかにあって、与えられた御言葉をもとに考え、行います。ときには、どう考えても、あの人の在り方は、しくない、教会に相応しくない。あの毒麦を抜いたほうが良いのではないかと考えることです。しかし、今日のみ言葉が語るとおり、そこで良い麦も一緒に抜くことになれば、キリストのみがご存じである、良い麦の成長を止めてしまい、ひいては教会全体にとって益とならないことが起こり得るということです。

 わたしはここで、一人の信仰の先輩から聞いたことを思い起こします。その方が仕えていた教会で、一人の信仰熱心な青年がいたそうです。その青年は教会のために仕え、尽くしていた人でした。ところが、あるとき、若さゆえに、大きな過ちを犯し、教会のなかで知れ渡ることとなりました。信徒のなかには、「信仰熱心であっても、いつは偽善だったのではないか。彼が教会につながりつづけることはいかがなものか」と、公然と言い放つ人もいたそうです。そのとき、その教会に仕えていた牧師は、その良心の呵責から、いたたまれなくなり、教会から離れようとしていた青年に、語ったそうです。「たとえ周りがあなたを教会から取り除こうとしても、絶対に離れてはならない。キリストが、あなたをこの過ちを通して、育てようとしておられる。御言葉を聴き続けなさい」と。青年自身が、自らを毒麦と捉えて、抜いてしまおうと考えていたところ、彼は教会に踏みとどまりました。その牧者の説教を通して、キリストの種は蒔かれ続け、彼は立ち帰り、いっそう教会に仕える人に変わっていったそうです。

 もしあのとき、その青年のことを毒麦と断じて、抜き放っていたならば。それと一緒に、その青年だけではなく、もしかしたら、続けて、その他の良い麦も、一緒に教会から、抜かれていたのではないかと思い巡らすものです。

 今日のみ言葉のとおりです。救いの御言葉の種を蒔き続けるお方は、ただキリストお一人のみなのです。わたしたちの心のなかにも、ときに毒麦のたねが蒔かれることがあるかもしれません。そのなかにあって、キリストは、御言葉の種を蒔き続け、願わくば、すべての人が、良い麦として、最後の刈り取りの日に、天の国で豊かな実りとして刈り取られるように。いろいろな方が集う教会にあって、種の蒔かれ方、育ち方、実の結び方は、まことに様々であることを思います。あの人には違う種が蒔かれているのではないだろうか、と考えることもありますが、わたしたちは毒麦を見分けて抜くことよりも、良い麦が健やかに実を結ぶことに目を向けていくことにいたしましょう。そうして、教会とは、いろんな人がたくさん集う、広いところであること、豊かな賜物が実りを結ぶ、地上における天の国であることが、世に示されていくでありましょう。キリストご自身が、刈り取りの日まで、御言葉によって、良い種を蒔き続けてくださいます。父、子、聖霊の御名によって、アーメン。

 祈りをいたします。一粒のからし種が大きな実を結ぶように、主よ、あなたが蒔かれる種は、大きな信仰の実を結びます。かつては小さな信仰であったものが、あなたが心を尽くして養ってくださいましたから、健やかに実ってまいりました。やがて刈り取りの日が来るまで、わたしたちは、ただ種まき人であるキリストに従って、刈り取ることではなく、種を蒔くことの御業に仕えていきたいと存じます。毒麦を見分けようとする裁きの心が生じるとき、どうぞ健やかな実りと待ち続ける、主の寛容と忍耐に与らせてください。そうして、かの日には、主よ、あなたと一緒に、良い実りを喜びとともに刈り取ることができますように。種を蒔き続けておられるお方、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

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