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7月26日祈祷会 士師記第二章6-3節

「 必ず救いに至る裁き 」

 ヨシュア記が終わり、士師記に入っていきます。書物の区切りをもったところで、あらためて、旧約聖書39の書物について、概ねの区分とそれぞれの書物の役割に触れておきたいと思います。旧約聖書は大きく三つに分けることができます。トーラーと呼ばれる律法。これは創世記から申命記にあたります。それから、 ケスビームと呼ばれる詩編、箴言、コヘレトの言葉、ヨブ記などの諸々の詩や知恵の書物。そして、ネビイームと呼ばれる預言書です。すでに読んだヨシュア記と、これから入っていきます士師記は、その預言書のなかでも、預言書の前の部分という意味で、前預言書と分類されます。

①ヨシュア記➡士師記、歴史のなかで予め語られる救いの御業

「え?ヨシュア記と士師記は預言書なの?預言書と言えば、イザヤ書以下、預言者の名前がついた書物では?」と思われるかもしれません。たしかに、ヨシュア記をわたしたちはよんできましたが、預言者が登場していたわけではありませんでした。これから士師記を読んでいっても、イザヤ書やエレミヤ書と呼ばれる預言書と比べて、預言者と言われる人たちが主だった活躍をする書物ではありません。

では、なぜ「前預言書」と呼ばれるのか。それは、すでになんどか触れて来たように、ヨシュア記以降のイスラエルの歴史は、神様が人間を救われる御業の記録でもあることが関わってきます。つまり、ヨシュア記以降の歴史のなかに、必ず救いの約束を果たされる主の御業が中心に置かれているからです。

旧約聖書における救いの歴史の捉え方は、過去におきた出来事の単純な記録というだけではなく、将来、神様が救おうとされるすべての信仰者の身の上に、いつか起こり得ることを予め語っている言葉というものがあります。ですから、ヨシュア記から列王記下までのイスラエルの歴史を綴った書物は、預言者の名前がついていなくても、広い意味で、神様の救いの御業を、歴史を通して予め語る、預言者そのものと考えることができます。過去の出来事を通して、将来に約束されている救いの御業を予め語るとは、なんと聖書に満ちている知恵の深いことかと思います。

さて、ここまでのところは、口頭だけではなかなか説明が充分にいかないと思いますので、どうぞこちらの図を御覧ください(図1)。さきほど説明したことは、図にするとこういう分類になります。ヨシュア記が終わり、わたしたちはこれから士師記に入っていきます。書物としては、今から三千年以上の前の、イスラエルの大地で起きた出来事を記した歴史書の体裁をとっていますが、書かれてある内容は、主なる神様がどのようにして救いの御業を起こされるかを記したもの、いわば救いの約束の証しと言えます。

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旧約聖書における士師記の位置をある程度、明らかにしたうえで、次に士師記とはどういう書物なのか、確認しておきたいと思います。この「士師」という漢字。訓読みでは「つわもの」と「せんせい」を顕す文字です。これは、この士師記という書物が神様によって選ばれた指導者が、とくべつに「士師」という呼ばれ方をしていたことによります。この「士師」という言葉は、もともとヘブライ語では“שֹֽׁפְטִ֑ים”ショーフェティームと発音します。これは、“שָׁפַט”シャーファット:「裁く」、あるいは「治める」という意味の動詞が現在分詞となって、職業を現したものです。ここで思い起こしていただきたいのは、聖書において「裁き」は、本来、神様しかなし得ない業ではなかっただろうか?という問いかけです。その通りです。「裁き」は本来、神様にしかなし得ません。では、士師はなぜ、人間なのに「裁き」が行えるのか。それは、士師記を読んでいくとだんだんわかってきますが、士師記に登場する士師たちは、必ず神様によって立てられます。誰かを支配してやろうというような人間的な欲望や、あるいは、「わたしがやらねばだれがやる!」のような使命感だけでは、士師がたつことはありません。むしろ、士師記に登場する人物のなかには、「わたしには到底務まりません」と言いながら、神様に召されていく人や、「え、こんな人を神様は士師として用いるのか!」という人物もいます。まことに多種多様な人物が召されていきます。神様は、救いの御業を起こされるとき、いま、この瞬間も、人を召し上げて、用いるという仕方をお取りになります。その御心は、人の思いを遥かに超えております。教会においても、いろんな方々が、いろんな賜物を用いて、一つになりながら神様にお仕えするものです。そのなかで、わたしたち人間は、もちろん主体性や積極性をもって教会に仕えるものですが、さらにその上には、じつはわたしたちの意志をはるかに超えたところで働く、神様の召し出しが必ずあります。どのようにして、神様は、士師を用いられるのか、こういったところ、士師記を読む一つのポイントになると思います。ひるがえって、わたしたちも今、一人ひとりが、教会に召し出されていることの不思議さと確かさを感じていただければ、嬉しく思います。ちなみに余談のようになりますが、この「士師」という漢字の当て方は、日本語聖書が翻訳される前に、まず中国語の聖書が翻訳され、そのときにショーフェティームの意味に、この漢字を当てたということです。それは士師の二つの主な働きを示すためだとういうことです。それは、軍事行動と、裁判です。士師記を読んでいきますと、たしかに兵を率いる務めと、善し悪しを判断する裁判が、士師の務めであることがわかってまいります。

②「新しい世代」が神様に背く、信仰の継承のむずかしさ

士師記の初回ですから、だいぶ前置きを長くとりました。いよいよ今日のところに入っていきます。初回でありながら、第二章からのスタートになりました。理由があります。第一章、あとで、どうぞお家で目を通していただければと思います。ヨシュア記の流れとだいぶ重なるところがあります。その記し方は、まるで、ヨシュア記のダイジェストを記しているような、いわゆる「これまでのあらすじ」のような書かれ方です。こうして、士師記に入る前に、どういったことがヨシュア記に記されていたか、ある程度確かめたうえで、新しい時代に入る記し方をしています。わたしたちは、ヨシュア記を通して士師記に入りましたので、今回は割愛しました。

一点だけ、第一章に書かれており、またヨシュア記でも一つのポイントとなったこと、そして士師記に大いに関係があることを触れておきます。第一章に書かれてある一つのポイント。それは、約束の地に定住したけれど、もともと住んでいたカナンの人々やほかの異教の神々を拝んでいる人たちを完全に追い払わなかった、ということです。これが、士師記においては、あらゆる問題ごとの原因となってきます。つまり、イスラエルの人たちは、神様が約束されたとおり、カナンの地に定着した。けれども、異教の神々を拝む異邦人を完全に追い払わなかった。そのことが、異教の神々を拝んでしまう原因として残ってしまったということです。

ではこの原因が実際に具体的な問題として発生するのは、どういうときであったか、それを今日のみ言葉から見てみます。1012節にこう書かれていました。「その世代が皆絶えて先祖のもとに集められると、その後に、主を知らず、主がイスラエルに行われた御業も知らない別の世代が興った。イスラエルの人々は主の目に悪とされることを行い、バアルに仕えるものとなった。彼らは自分たちをエジプトの地から導き出した先祖の神、主を捨て、他の神々、周囲の国の神々に従い、これにひれ伏して、主を怒らせた。」この第二章は、淡々と書かれてはいるものの、ヨシュアがなくなってから、その次の世代が起こされるほどの時がた っています。一世代40年と考えてみれば、それほどの月日がたっています。そうすると、実際に神様の救いの御業を体験していない世代が起こされ、ここにあるように、他の神様を拝もうか、ということがはじまってまいります。これは、一つの真実を言い当てているようです。それは、信仰の継承のむずかしさです。救いの御業に触れたご本人は、生涯にわたって主と共に歩むことがあるけれど、それを次の新しい世代に伝えるには、ただ継承するだけではなかなかうまく信仰が伝わっていかないという現実を示しているようです。

 12節には、少し恐ろしい表現が書かれていました。「主を怒らせた」。主なる神様を捨てた新しい世代に対して、神様は怒られているとのこと、これはなかなか慄然とさせられます。教会全体で考えれば、なかなか新しい世代に信仰を継承することが難しい現実のなかで、「主を怒らせた」となると、他人事には思えず、ぐっとくるところです。士師記全体を通しても触れられ続ける、この現実について、まず広い所からその意味を確かめていきたいと思います。

 じつは、士師記には一つのパターンが繰り返し、繰り返し、出て来ます。どうぞこれを御覧ください(図2)。今日のみ言葉の中で、このサイクルを説明しようとすれば、こうなります。

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 10から12節が、他の神々に仕える「背反」、13,14節が苦境に立たされる「裁き」、この章の15節でははっきりしませんが、他の章でははっきりでてきます。いわばここが「悔い改め」、そして16節に士師を立てて「救済」が行われます。さらに、17節、18節と次のサイクルがまたはじまっていきます。いわば10節から18節のところは、これから士師記でなんども繰り返し語られる事がらを、あらかじめ紹介している部分。士師記の主題の提示の部分と言えます。

③主は「試される」、それは救うために必要なこと

 さて、こうやってサイクルがなんども繰り返される、と聞きますと、なんだかイスラエルの人たちは、学習能力がないのではないか、と感じられるかもしれません。たしかにそうかもしれません。なんども神様に背反しては、怒りを招いて苦境に立たされ、悔い改めて、救われる。そこで、立ち帰ったままでいればいいのに、また背いてしまう。どうして、イスラエルの民は、過ちを繰り返すのだろうか。客観的にみれば、こういった感想が聞こえてくるのも仕方のないことでしょう。

 どうして、同じことを繰り返すのか。それについては、これから士師記を読み進めるなかで皆様とご一緒に訊ねていきたいと思っています。そのうえで今日のみ言葉から言えることだけ、申し上げます。22節をご覧ください。「彼らによってイスラエルを試し、先祖が歩み続けたように主の道を歩み続けるかどうか見るためである。」とあります。ここに一つの、イスラエルの民が、何度も何度も、異教の神々を拝んでしまう罪を犯す、神様の側から垣間見る、理由がそこはかとなく示されています。

 まず「ためし」の言葉の意味から言えることがあります。「ためし」と聞くと、ためすわけですから、「試験」するような意味合いがあります。じつは、もともとの言葉には、「証しする」という意味も含まれています。ですから、神様の立場からすれば、イスラエルという一つの群れが、主なる神様の道を歩むことの証しとして考えているということが言えます。もうひとつの言葉「歩む続けるかどうか見る」の「見る」も意味が深い言葉です。旧約聖書ではたくさん出て来る頻出の動詞です、この「見る」。これは、ただ漠然と眺めるのではなく、「守る」、「保つ」「観察する」という意味合いが込められています。この意味領域の広さから言えることは、この22節が言わんとしていることは、ただ遠くから神様は眺めるのではなく、このイスラエルという群れが、信仰の歩みのなかで、どのように救いの証し人として相応しく歩んでいくだろうか、と、まるで親のようなまなざしで見つめ続けている、というように訳される一節なのです。

 なるほどそのように考えますと、たしかに士師記のなかで、イスラエルが背き、そのたびに神様は怒ります。しかしそのたびに、救いの御手を伸ばして、士師をたてて、救いを起こされる。そうして、新しい世代はまた信仰に立ち返るのです。

 さきほど、信仰の継承のむずかしさの現実についてふれました。このとき思うことは、新しい世代にとっても、ただ信仰を引き継ぐだけではなく、やはり信仰者一個人としての、主なる神様との救いに触れる瞬間が大切なことを思わされます。私自身、キリスト者の家庭の三代目ですが、ただ三代目ということで、いまの信仰が与えられたとは思っていません。むしろ、わたしは、多くの背きをいたしました。クリスチャンとしては、口にするのもはばかるような背信の行為を繰り返し、厳しい裁きをたびたび経験しました。そのつど、神様はわたしにとっての士師を遣わしてくださり、救われたことを思い起こします。やはり信仰の継承には、主なる神様の憐みに、自己の体験として、直接触れることが必要だと、わたしは思います。そして、その神様との出会いは、なんといっても教会という群れのなかで起こされるのだと思います。

 そう考えますと、士師記のなかで繰り返される、神様の厳しい裁きは、ただ裁いて終わりというのではなく、その先に続く、本当の救いのための、必要なことだということがわかってくると思います。福音書によれば、放蕩息子を迎える父のように、主なる神様は、遠くから駆け寄って来て抱きしめて立ち帰りを喜んでくださる方です。士師記における神様のお姿にも、怒りの向こう側には、「もどっておいで」という慈愛に満ちた姿が顕れてまいります。

 以上、今日のところは、イントロダクションという意味あいで、広く語りました。次週からは、各士師の活躍にも焦点を合わせながら、救いの御業を、士師を通して顕される、多様な仕方を見ていきたいと思います。今日はここまでにしたします。

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