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7月5日祈祷会 ヨシュア記第二二章16~34節


「 帰属を保ちながらの分離は多様性を生む 」

(導入)神様の約束のとおり、ヨルダン川の西側にも住むべき土地を得たイスラエルの全部族でした。そこには、功労者であるカレブや、指導者ヨシュアへの、部族全体からの配慮も見られ、共同体が全体的として互いに支え合っている姿が示されていました。今日のところも、共同体全体がお互いに配慮しあっているという点が、引き続きテーマに含まれています。

①共同体の帰属意識は全体の益になる。個別主義ではなく全体を考えること

第二十二章の途中からでしたので、前半のあらすじを簡単にお知らせします。1頁戻ってください。第二十二章は小見出しのとおり、「ヨルダン川東岸諸部族の帰還」です。つまり、東側にすでに土地を得ていたルベン、ガド、マナセの半部族が東に帰っていくときの出来事ということになります。このルベン、ガド、マナセの半部族は、すでにこれまでも何度か触れてきたように、ヨルダン川を渡る前に東側に土地を与えられていました。そして、彼らは残りの諸部族にも無事に土地が与えられるまで、最後まで行動を共にしたわけです。一つに、それは約束をしていたからということがあります。まず、もう一度、1頁めくって第222節をみてください。「あなたたちは、主の僕モーセが命じたことをことごとく守っただけではなく、わたしが命じたすべてのことにも聞き従った。」これは全体的なことを言っているところですし、またモーセとルベン、ガド、マナセの半部族がかつて具体的に約束していたことも含んでいます。それは民数記32章に記されています。今日は他にも開くところがいくつかあるのでここでは開きません、要点だけ聞いてください。民数記32章はルベン、ガド、マナセの半部族が土地を得た直後のことですが、ここでモーセとの間に、「ちゃんとあなたがたは、ほかの諸部族にも土地が与えられるまで、一緒に西側に渡り、最後まで共にいなさい」、「はい、わかりました。彼らと共にいます」。そういう約束でした。この約束を守って、最後まで行動を共にしました。

わたしたちが、自分はなにに属しているのか。ということを考えたときに、いろいろと属している母体について考えることです。日本人であること、県民であること、市民であること、町内会、会社、団体。そしてなによりわたしたちは、神の民、天の御国にいるものとされています。これはいわば、共同体の帰属意識というものです。そこで大切なことは、共同体、共に生きるということは、自分さえよければいいということではないということです。当然と言えば当然ですが、ときとして、属している母体との距離が遠くなると、存外、そういった帰属している母体への意識が、薄くなることがあります。

ここで、ルベン、ガド、マナセの半部族が行動を最後まで共にしたことは、一つには、約束を守ったということがあります。彼らはその約束を、単純に「責任において」果たしたのでしょうか。それもあります。もう一つ、わたしたちはイスラエルの一員である、という帰属意識も含められます。彼らルベン、ガド、マナセの半部族が、もし行動を共にしなければ、12分の2.5が分離するわけですから、イスラエル全体の戦う力は大きく損なわれたことでしょう。しかも、ルベンとガドは大きい部族であったということです。もし、万一、イスラエルの全体が損なわれることがあれば、つまりヨルダン川を渡ったあとで、母体がなくなったりすれば、ルベン、ガド、マナセの半部族は、いったいなにに属していたのか、わからなくなり、再び流浪の民になっていたことでしょう。ここには、責任というよりも、自分たちが属するもののために最後まで行動することが、自分のためでもあることが示されます。

ルベン、ガド、マナセは先に土地を約束されました。つまり、先に恵みを得たわけです。そして、共同体全体にも、同じ恵みがいきわたるように最後まで共に行動しました。これは共同体全体、お互いのためであるということがわかります。新しい神のイスラエルである教会にもしばしば、同じような事例が起きます。それは共同体における行き過ぎた個人主義に端を発します。パウロが手紙を送った諸教会でも、いろいろ問題がおこっていました。ことの大小にかかわらず、同じことは共同体で常に起きています。もちろん、それぞれ置かれた立場の違いも、同時に考えられなければなりません。なにがなんでも、すべてが公平というと、それは共同体として機能しません。共同体としての公平は、変わりゆく状況のなかでつねに新しく吟味されながら、対応されていくべきです。なにか一つのことを共同で行っていこうというとき、すでに得ている恵みに安堵して「全体のことは関係ありません」という立場になると、それは共同体全体の命を危うくすることになります。この点、ルベン、ガド、マナセの半部族が最後まで一緒にいたことは、たんに約束に律儀にしたがっただけではなく、帰属する母体が事業を完遂し、さらに発展すること、つまり彼らのためにも、それは必要だったことになります。

②「神様はご存じです」という平安。疑いは晴れて、さらなる結束へ

こうして、無事に東に帰っていったルベン、ガド、マナセの半部族です。ところがここで事件が起きます。それは、今日読んだところの直前に記されていました。簡単に言うと、彼らが戻った土地で、祭壇を築き、礼拝を始めたというのです。このことを問題視した西側の諸部族は、ピネハスを頭にして、調査するためのグループを送りました。そして、ここで比較されているのが、17節にある「ペオルでの罪」というものです。17かつてペオルで犯したあの罪は、我々にとってささいなことであっただろうか。あのとき、主の共同体に災害がくだり、今日に至ってもまだ清められていないではないか。」調査団とも言えるピネハスという人物をリーダーにしたこのグループは、簡単に言えば、「あの人たちは主なる神に反逆しようとしているのではないか?」という疑いを持っています。

さてここで言われているペオルでの罪。これはどういったものであったか、本当に同一か、それとも違うのか?確認が必要なので、聖書を開けておきましょう。民数記第251-5節(旧257p)を開いてください。

イスラエルがシティムに滞在していたとき、民はモアブの娘たちに従って背信の行為をし始めた。娘たちは自分たちの神々に犠牲をささげるときに民を招き、民はその食事に加わって娘たちの神々を拝んだ。イスラエルはこうして、ペオルのバアルを慕ったので、主はイスラエルに対して憤られた。主はモーセに言われた。「民の長たちをことごとく捕らえ、主の御前で彼らを処刑し、白日の下にさらしなさい。そうすれば、主の憤りはイスラエルから去るであろう。」モーセはイスラエルの裁判人たちに言った。「おのおの、自分の配下で、ペオルのバアルを慕った者を殺しなさい。」

お読みになって、何が違うか、わかったでしょうか。「神々」「バアル」という言葉がありました。そうです、ここで彼らがやっていることは、明白な偶像礼拝です。さあ、そこを踏まえたうえで、どうぞ今日の所に戻ってください。ルベン、ガド、マナセの半部族の願いはどういうものでしょうか。24節を見てください。「わたしたちがこのことをしたのは、一つの心配があったからです。すなわち、後日、あなたたちの子供がわたしたちの子供に向かい、『あなたたちはイスラエルの神、主と何の関係もない。ルベンとガドの人々よ。主はヨルダン川をわたしたちとあなたたちとの境とされた。あなたたちには、主の割り当てはない』と言って、あなたたちの子供がわたしたちの子供に主を畏れることをやめさせるかもしれません。」

東側の彼らが心配しているのは、まさにさきほどから触れているイスラエルへの帰属意識です。わたしたちは西側の諸部族と同じ、主なる神様を礼拝する同じ民ですと。それを、子どもの世代にも、ちゃんと申し開きできるように、礼拝する場所を引き継いでいく。これが目的だったのです。

その申し開きのときに語っている言葉には、じつに信仰的なことが語られています。ここには、旧約聖書に良く見られる大切な事柄がありますので少し丁寧に見ます。22「神よ、主なる神よ。神よ、主なる神よ。神はご存じです。イスラエルもわかってください」

ここはヘブライ語原典も読んでおきます。

כב אֵל אֱלֹהִים יְהוָה אֵל אֱלֹהִים יְהוָה, הוּא יֹדֵעַ, וְיִשְׂרָאֵל הוּא יֵדָע: 

なぜにヘブライ語も紹介したかと言いますと、旧約聖書に出て来る大切な言葉、「ヤダー」が出て来るからです。この「ヤダー」という言葉。動詞です。単純な訳は「知る」です。しかし、それは単に知識として知っているということだけではなく、密接に、人格的に、心が通い合って知っていると言う意味です。新共同訳の「神はご存じです」と「イスラエルもわかってください」は、どちらもヤダーが使われていますが、活用が違います。厳密に訳せば、「神はこのことを知っておられる方、イスラエルよ、あなたがたも知ることになるだろう」、つまり、神様はわたしたちがなぜこうしたか、知っておられる方だから、あなたがたも、その理由を知ることになる、ということです。

ここに込められているのは、信仰的な立場です。神の御前に誠実ですし、そうだからこそ、自分たちの申し開きに曇りがありません。「神様はご存じである」ということ。このことがしっかりしていれば、たとえ疑いをかけられたとしても、やましいことがありませんから、申し開きができます。これはお互いに、信仰的な対話の鍵となることです。神の共同体は、同じ主なる神様を信じているという点で、同じ立場です。前半では、共同体が全体の利益のために、互いに配慮することについて触れました。基本的にやはり簡単に仲たがいしてはいけません。共同体全体の利益を考えて、もし自分とは理解が違うことをする人がいても、それは「なにか事情があるのではないか?」という冷静な受け止め方をしてから、それでも理解が出来なかった場合に、まず穏便に対話することが求められます。同じ主なる神様を仰いでいるならばなおのことです。

 結果として、この申し開きはピネハスたちの疑いを晴らすことになりました。30節、祭司ピネハス、共同体の指導者および同伴したイスラエルの部隊の長たちは、ルベン、ガド、マナセの人々の語る言葉を聞いて、良しとした。」

この「良し」としたという言葉は、あっさりと訳されているように思われます。もとの意味では「彼らの目、つまりピネハスたちの目に、美しかった」という意味です。この表現は、聖書の至るところでみられる表現です。とくに神様の御心に適うとき、「主の目に適って美しかった」という表現があります。旧約にとっての「美しさ」は、現代人の感覚における見た目の美しさだけではなく、ほかの事柄と調和している、あるいは本質からずれていない、という意味を含みます。共同体全体、または子孫のことを考えている美しさがあります。神様の御心に適うこと、それは全体的に美しいことである、ということです。かくして、ルベン、ガド、マナセの半部族が、東側に戻って礼拝を続ける場所を作ったことは、疑いを晴らしただけではなく、子どもたちの代にも、西側と東側の共同体としての絆を強く保つものとして、良いもの、美しいものとして、認められました。

③「わたしたちの間では主が神」、多様性を保ちながら一致するために

最後の34節にはこうありました。「ルベンとガドの人々はこの祭壇を、「わたしたちの間では主が神であることの証人」と名付けた。これまで、ヨシュア記のところどころで、ここぞというときには、神の言葉がヨシュアや、ほかの主だった人々に望んでいました。ところが、今日のところでは、主なる神様御自身の言葉がありません。主が、語られないときは、それは、見守っているとき、と捉えることができます。主が御言葉をもって直接に介入せずとも、彼らは信仰的な対話で、問題を解決するだろう。そのように思われるとき、天より彼らを信頼して見守っておられるような態度をお取りになります。ここで、ルベン、ガド、マナセの半部族と、ピネハスたち調査団が、緊張感ある対話から、互いの誤解を乗り越えて、一層信仰的に結束を強めたことは、まことに、主なる神が人々の間におられてこそ、つまり同じお方を信仰しているからこそ、成し遂げられたことだと言えます。そういった意味で、「わたしたちの間では主が神であることの証人」という長い名前は、良い記念になったでしょう。

分離と統一と多様性ということでいえば、わたしたち日本キリスト教会のアイデンティティも、ルベン、ガド、マナセの半部族に通じるところがあります。戦時中に国家によって合同させられた日本キリスト教会が、再び、改革長老派という主義と、占領下のキリスト者への過ちを悔い改めて、新しく出発したことは、単なる分離主義、個別主義からのものではありません。父、子、聖霊なる三一の神様を礼拝する本質は同じくしながら、教理と信仰的立場を明確にし、主が示される新しい宣教の場所へと遣わされたのです。次の世代から、教団とは、ほかのプロテスタントとは、カトリックとはどう違うのですか?と問われたときに、分かれる必要があったこと、そのことが主の目にかなっていたこと、それらは、イデオロギーから語られるのではなく、正しく主なる神様に礼拝を奉げている姿から、適切に伝わっていくものです。なによりも礼拝を中心にして、大切なことを伝えていく。「なによりも、主なる神様がちゃんとご存じである」という平安。今日の箇所から、学べる事だと思います。今日はこれまでといたします。

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