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8月13日説教(郡上八幡伝道所)説教のポイント

「『来なさい』との声、聞こえる

聖書 マタイによる福音書第1422-33

                        伝道師 三輪恵愛


イエス・キリストと弟子の関係をどのように語れば良いでしょうか。弟子というほどですから、なにかについて、先生に教えを乞うものたちです。福音書では、しばしばイエス様は「先生」と呼びかけられていますから、弟子たちにとっては、イエス様は先生でもあります。

今日のみ言葉では、集まっていた群衆を「解散させた」とありました。この群衆も言わばイエス様になにかしらを聴き、教わるために集まっていた人たちでした。その群衆を解散させて、ここでは、弟子たちだけ舟に乗せて、向こう岸へ行かせようとします。

弟子たちと、群衆は、イエス様にとっては、同じ存在ではありません。弟子たちは、イエス様にとくべつに招かれた人たちです。その招きに応え、イエス様に従うことを決意し、福音を伝えるようにと務めを委ねられた人たちです。従って、イエス・キリストが弟子たちに教えようとしていることは、福音を伝えることと言うことが出来ます。今、わたしたちはイエス・キリストの招きに応え、教会につながり、福音を伝えることを委ねられました。ですから、イエス・キリストが弟子たちに福音書において施している数々の教えは、そのまま教会が福音を伝えるにあたり、必要な教えということになります。

今日のみ言葉では、弟子たちはイエス様に「強いて舟に乗せられ」、向こう岸へ行くようにと命じられました。その途中、湖のなかで起こった出来事をとおして、弟子たちは教えられていきます。とはいえ、不思議な出来事です。湖の上を歩くイエス様。この出来事を、聖書を通して聞くわたしたちは、ただただ、イエス・キリストというお方の尋常ではない存在を知らされます。そして、ふと頭をよぎることもあるのではないでしょうか。本当に、イエス様はそのようなことをなさったのだろうか、と。

①わたしたちも舟をこぎ出した弟子たち。逆風は吹き、波は高いが、イエス様は御業を確かに起こしている

このマタイによる福音書第14章は、暗い、悲しい知らせから始まります。洗礼者ヨハネがヘロデ王の軽率な振る舞いから、命を落としました。ヨハネは正しいことを言って逮捕され、命を奪われましたから、殉教とも言うことができます。なににおいても先駆者であった洗礼者ヨハネでした。彼のこうした最後の姿も、イエス・キリストの歩みの前触れとなっています。すなわち、イエス様が歩んでいかれる十字架による受難と死。第14章は、イエス・キリストが行くべき十字架への道を予め示しながら、その後の、教会による宣教のために、予め、弟子たちに教えを施すことで、のちの教会の歩みを導こうとしておられると言えます。 

 22節に、「強いて」と書かれています。イエス・キリストは弟子たちに、示すところに行くようにと行かせるお方です。舟に乗り込み、湖のなかへ漕ぎ出した舟。イエス様によって示されたところへ向かう弟子たちの姿は、宣教の道へと歩み出した今の教会の姿と重なります。

このとき、イエス様は、一人山に登って祈られます。何を祈られたかは書かれていないが、文脈から察するに、荒波に漕ぎ出した弟子たちの舟が首尾よく、行くべきところに着くことができるようにと祈られたことは間違いないでしょう。弟子たちに委ねた務めが、良く果たされるようにと、祈ってくださる姿。それは、教会が委ねられた務めを良く果たすことができるように、守りと導きを祈ってくださっているお姿でもあります。

 しかし、実際舟はこぎ悩みます。ここに、福音の宣教のむずかしさが著されています。そういった難しさのただなかにあって、祈られるイエス・キリストは、舟に近づいてくださいました。祈られるイエス・キリストは、宣教を委ねた弟子たちと離れているわけではありません。漕ぎ悩む弟子たちのところに、来てくださるお方です。

ところが、弟子たちはまさか、漕ぎ悩んで懸命になっているところに、イエス様が湖を歩いて来て下さるとは思っても見ませんでした。イエス様の存在を、とても信じることが出来ず、「幽霊だ」などと言います。

教会には、宣教に出かけるときに直面する困難が尽きることはありません。ときには、本当にイエス・キリストは共にいてくださるのかと問います。なぜ伝道が振るわないのかという、不安なときの疑いです。この湖の記事のすぐ前にあったような、群衆5000人に恵みをいきわたらせるような大きな働きは、イエス様がいてくださらなければ、出来ないことなのだろうか、とも考えます。

しかし弟子たちがイエス様に示されたところへと向かう困難のなかで、疑う彼らにイエス様がかけられた言葉は、「安心しなさい。わたしだ、恐れることはない」というものでした。わたしたちも、教会の宣教の業にお仕えするなかで、イエス様の御業が教会に顕れているのにも関わらず、困難を説明するために、そこに他のものを見いだそうとすることがあります。

キリスト教を信じていると明言できる人口が、総人口の1%に満たない日本。信徒の数は、いま増加から横ばいに移り、教派によっては、やや下降気味とも言えます。わたしたちがつらなる日本キリスト教会の現状も、同様です。数字にして分析すると、教会が湖のうえで漕ぎ悩むように、困難を覚えていることが如実にわかります。伝道の困難について、その原因は、少子化にあるとか、あるいは宗教そのものにたいする疑い、また生活があまりにも豊かになって、霊的なものへの関心が薄れているなど、いろいろと理由はあげられます。

たしかにこれからの伝道の在り方を考えるために、舟のこぎ方を改めるように、あるいは逆風はどこから吹いているのか、原因分析は大切でありましょう。

一方で、そのような状況にあっても、しっかりと舟に乗り続け、漕ぎ続けているわたしたちのところに来てくださるイエス・キリストの存在も、わたしたちは見誤ることがないようにすべきでありましょう。「わたしだ、安心しなさい、恐れることはない」と語りかけ、御業を起こしてくださるのは、幽霊ではなく、イエス様ご自身です。

教勢を伝える数字のうえでは、トータルのマイナスばかりに目がいくことものですが、そのなかに、プラスの数字が含まれていることは、見落とすことができないものです。いわば、それまで遠くからイエス様のことを眺めていた群衆から、一歩歩み出て、弟子として招きに応えた人が、常に起こされている現実があります。逆風で漕ぎ悩んでいますが、漕ぎ手の力は弱まることなく、示されたところへと、前へ進んでいるのです。

②ペトロはどうしても確かめたい。「本当にあなたはあなたですか?」という疑いはつきない

 「安心しなさい、わたしだ。恐れることはない」と、言ってくださるイエス様でした。ここで漕ぎ手である弟子たちは、勇気を取り戻し、手に力を込めるようというものです。

ところが、弟子の筆頭であるペトロは、なんとイエス様に向かっていくことにしました。「わたしだ」と言っておられるのに、疑いが晴れていません。「主よ、あなたでしたら」と言って、わたしも湖の上を歩いて、イエス様のところへ行きたいと願います。ここのギリシャ語は、面白い表現を用いています。「もしも、あなたがあなたなら」という言い方をしています。わたしたちは、目の前の人を確かめるにあたり、「あなたがあなたなら」などと言うことは、ないと思います。この言い回しに、ペトロのひたむきさや純朴さも現れているようです。

ペトロのこのような姿を見ると、いま、教会とともに歩んで、「安心しなさい」と言ってくださるイエス様に、「あなたがあなたですか?」という問いを持って確かめたくなる気持ちは、わかるような気がします。本当に、イエス様、教会のすぐそばにおられますか?と問いたくなることもあるでしょう。

ここで、イエス様は「わたしが言っているのに信じられないのか!」と言って、お叱りになることはありませんでした。むしろ、確かめようとするペトロを招きます。「来なさい」と一言いわれます。

信仰の歩みには、ときとして、ペトロがここで示しているような純朴な、熱い思いが必要なのかもしれません。弟子の筆頭でもあるペトロの姿は、このように「本当にイエス様はわたしたちと、ともにいてくださるのか」と「イエス・キリストの存在」について熱心に確かめようとする人の思いを決して否定しません。「来なさい」とイエス様が御語りなったように、「あなたは確かにイエス・キリストです」と言えるようになるまで、やってみなさいと受け入れてくださる。

 ところが、歩き出して、ペトロは目指すイエス様だけを見ていることができませんでした。「強い風に気が付いて」しまいました。この「気が付いて」という言葉は、もっと単純に、「見てしまって」と訳せるものです。つまり、イエス様だけを見て、水の上を歩けばよかったところ、強い風が吹いている現実をみてしまったのです。舟の中にいたときよりも、舟を降りて感じる強い風はここまで恐ろしいものであったかと、沈みかけるペトロでした。そこにイエス様は腕を伸ばし引き揚げ「なぜ疑ったのか」と語られます。この「疑う」というギリシャ語は、「立場が二つ」とも訳せる言葉です。どっちつかずの状態をいう。ペトロにとってのイエス様への疑い。それは、本当にイエス様が「いるのかいないのか」はっきりしない様子を示すものです。

 ③「主よ、助けてください」溺れるなかで、叫ぶ一声がイエス様の存在を確かなものとする

 ペトロはおぼれました。そこで、はじめて、「救い主であるイエス様の存在」を知ります。「主よ、助けてください!」、この一言が出ました。この一言が、イエス・キリストがどういうお方かを、はっきり示しています。イエス様は、「助けてください」と叫ぶ声を聞いて、水の中より引きだしてくださるお方なのです。この姿が、ペトロが確かめようとしたイエス様の本当の姿でした。イスラエルの片田舎、ナザレに住んでいた過去の人ではなく、今も生きておられる救い主、キリストであるイエスのお姿でした。

 ある神学者の言葉には、「キリストを信じる人とは、絶対に倒れない人を言うのではなく、倒れることがあっても、主の御手にすがりながら、何度でも立ち上がる人のことを言う」というものがあります。ペトロは、そういった点では、何度もつまずきながら、そのたびに手を差し伸べるイエス様によって立ち会がった人でした。その姿ゆえに、わたしたちイエス様の弟子の筆頭であり、わたしたちの信仰での歩みを予め示しているようです。

なぜ、イエス様は「来なさい」と言われたのか、それは疑うことがあったとしても、そのつまずきのなかで、はじめて「助けてください」と、叫ぶことが出来るからです。「主よ、助けてください」と、救い主の必要を感じたときにはじめて、救い主の御手によって苦難から引き揚げられる経験が与えられるものです。「来なさい」と言ってくださる一言、それは「この人こそ、確かにおられる救い主イエスである」との信仰と、告白の言葉が与えられるためだと言うことができるでしょう。

 救い上げたあと、イエス様はペトロと一緒に舟に乗り込みました。イエス様がペトロに、そして他の弟子たちに、「この舟に乗り続けて、わたしが示すべき道に、舟をこぎ続けることがあなたたちの務めですよ」と諭すかのようです。そこで弟子たちは、イエス様を礼拝しました。

この弟子たちの姿のように、わたしたちも、教会という舟をこぐ中で、舟のなかに乗り込んでくださり、わたしたちの礼拝を受け入れてくださるお方が、救い主イエス・キリストです。漕ぎ悩むことあり、強い風にばかり気をとられてしまう弟子たちではあります。今を生きる弟子、わたしたちも教会に乗って、主が示したもう目的地を目指しています。荒波は依然として続き、逆風はこれからも止むことがないでしょう。漕ぎ悩むことあり、強い風があっとしても、「わたしだ、安心しなさい」と言ってくださる主イエス・キリスト、救い主に助けをもとめる叫びのためには、近づくことを拒まず「来なさい」と言ってくださる主イエス・キリスト。この方が、舟に乗り込んでともにいてくださっています。お言葉のとおり、安心して、ご一緒に、こぎ続けていきたいと願います。父、子、聖霊の御名によって、アーメン。

祈りをいたします。主よ、あなたがお示しになるところへ向かうため、弟子たちは舟をこぎ出しました。わたしたちも、いま教会の中にいて、舟をこぐ手に力をこめています。あなたが示されたところに行きたいと願っています。主よ、逆風はつよく、波は高いです。あなたの声をきかせてください、あの日弟子たちに語ったように、「安心しなさい、わたしだ。恐れることはない」との御声を、もっと聞かせてください。そのことで、わたしたちは、前に進むことを得られます。あなたは、お傍近くに行くことを拒まれず、「来なさい」とも言ってくださるお方です。「本当にあなたは神の子です」と礼拝をささげるため、どうぞ「来なさい」との招きを聞かせてくださいますように。御手をもって苦難より引き上げてくださる、救い主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

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