8月13日説教のポイント
「いつでも告白していたい」
聖書 ローマの信徒への手紙第10章5-13節
伝道師 三輪恵愛
①思っている言葉と語る言葉の一致、教会は共に主なる神様に告白するところ
「公に言い表す」というギリシャ語の意味は、「ホモ・ロゲオー/一つのことを、ともに語る」というものです。聖書の文脈によっては「告白」とも訳せること。わたしたちは、言葉を語るものとして、神様に創造されました。心に言葉を思い、口にその言葉を語ります。思うことと語ることが伴うことを望みながらも、現実はそうはいきません。教会は、主日に礼拝をささげるために集い、神の御前にあっては、信じることを口に語るときを持ちます。
②「律法の中に生きる」ことは自分の正当化につながる。律法による義の限界
なぜパウロはこの手紙のなかで、「信じることを口で語ることによって主に義とされる」ということを強調するのでしょうか。彼は信じることではなく律法によって義とされることにこだわっている人たちを相手にしています。律法によって義とされる人たちは、「だれが天国にいけるのか」あるいは「誰が底なしの淵におちるのか」、心に考え、口にしていました。自分が律法のなかにいることを自負して、他者の信仰の在り様を裁いているのです。しかし自分を正しいと考えることには「希望がない」と説きます。たしかに自らの正しさばかりを主張する人生であれば、新しくされることに鈍いものとなるでしょう。しかし自分の正しさは隅に置き、まず主を信じ、それを告白する人は、常に新しくされる希望が約束されています。
③ともに告白することについて区別はなく「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」
かつては、律法を守り、ユダヤ人となることが確かな救いの条件でした。しかしいまや、「イエス・キリストこそが救い主です」と信じ、告白することによって、民族の区別はなくなりました。「主の名を呼び求める人はみな救われる」とヨエル書からの引用があります。「主の名を呼び求める」こと、「主イエス・キリストの父なる神様」と名前をよび、わたしたちも祈りを捧げます。そこでは、心に思っていることと、語る祈りの言葉の一致がなされます。教会においては、それを主の家族が一緒になって行います。「ホモ・ロゲオー」、共に「イエス様を救い主と信じます」との一言が、礼拝で共に語られる、教会の大きな業です。生活の場においても、短い祈りのなかで、「イエス様が主です」といつでも告白をしながら、自分ではなく、救い主に委ねる歩みに導かれたいと願います。
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