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8月20日説教(郡上八幡伝道所)説教

「『来なさい』との声、聞こえる

聖書 マタイによる福音書第1422-33

                        伝道師 三輪恵愛

わたしたちはこの日も、礼拝に招かれました。礼拝に集うことができるということ、それは、神様が「だれでも来て礼拝しなさい」と招いてくださることによります。

この「だれでも」ということは、聖書を通して語られる主のみ言葉により、いまやわたしたちに明らかに示されたものです。ところが、これがまだ聖書に記される前の頃、古い時代にまで遡ると、そうではなかったことがわかってきます。今日、中心に置きたいことばである「集める」という言葉を使えば、神様が集めようとしていた人も、集めようとしていた場所も、今とは異なるものとして理解されていました。

7節には、「聖なるわたしの山」という言葉がありました。これが、具体的にはどこの山をさしているのかは、推測するより他はありません。確かなこととして言えることは、この「聖なる山」は、かつてはモリヤの山をさすことが多かったということです。シオンの丘とも言われます。今でいう、エルサレムです。創世記第22章では、モリヤの山で、アブラハムがイサクを奉げようとしました。このモリヤの山に、ダビデからソロモンにかけての時代に、エルサレム神殿が建てられます。その後、そこは神様がおられる聖なる場所として尊ばれることとなります。

「聖なるわたしの山」という言葉にも、この「聖」と言う言葉が用いられていました。神様の栄光を讃える言葉です。ヘブライ語では、「カドーシュ」という言葉です。このカドーシュという言葉は、もともとアッカド語の「切り離す」という古い言葉から派生したものだと言われます。「切り離す」という行為。そこから意味が転じて、「聖」なるものと「俗」なるものを、妥協せずに徹底的に切り離すこと、それが「聖」の意味の基となったと伝えられています。

この聖なるエルサレムの神殿が建てられて礼拝が捧げられたころ、じつは、礼拝を奉げることができたのは、厳密に言えば、祭司だけでした。「聖」という言葉が示す通り、はっきりと「俗」なるものから切り離された聖なるもののみが、礼拝に集うことを許されたのです。礼拝に集うことが許されないその他の民は、「俗」に身を置くものとして、周りから祭司が行う礼拝を見守るよりほかありませんでした。すべての民が礼拝に集められていなかった頃があったのです。だれでも礼拝に集うことができる今とは、大きく異なります。

さて、そういった時代から、少しずつ神様の御心が明らかにされていくなかで、神様は、限られた人だけを招いているのでは、ないのではないか。ということが分かってきました。今日のみ言葉で言えば、「集める」ということが神様の御心として示されています。神様が集めるところ、「異邦人」も、集められると今日のみ言葉は語っています。

 ①イザヤ書56章の位置。バビロン捕囚による「神殿礼拝の終了」

 このイザヤ書第56章は、バビロン捕囚から解放され、廃墟となったエルサレムに戻ってきたときに語られた預言だと言われます。全部で66章からなるイザヤ書です。そこには、前後300年以上の歴史をもとに、預言者が語った言葉を中心に記されています。

この300年の歴史のなかでバビロン捕囚は、イスラエルにとって激しい痛みを感じるときでした。神様の契約のもとにあったはずのダビデ王家がなぜ滅んだのか。故国を遠く離れて自問自答していくうちに、神様への礼拝がかたちだけになっていったこと、御言葉にきかず、うわべだけの敬虔さをよそおい、立場の弱い人への助けが薄かったことに気づいて行きます。

バビロン捕囚によって、イスラエルの民の主なる神様への礼拝の姿は大きく変わりました。聖なる場所でしか礼拝はできないと考えられてきました。ところが、バビロンの地で、主は罪を悔い改めて、主のもとに立ち帰ろうとする人の魂とともにこそいるということが、示されたのです。いくつか、そういった箇所がありますが、イザヤ書第56章、今日のみ言葉のすぐ前のところ、1節から3節のところをお読みします。

主はこう言われる。正義を守り、恵みの業を行え。わたしの救いが実現し、わたしの恵みの業が現れるのは間近い。いかに幸いなことか、このように行う人。それを固く守る人の子は。安息日を守り、それを汚すことのない人、悪事に手をつけないように自戒する人は。主のもとに集って来た異邦人は言うな。主は御自分の民とわたしを区別されると。

「正義を守り、恵みの業を行う」ということ。これは、主なる神様のもとへと立ち帰った人にしかできないことです。「いかに幸いなことか」と、格別の祝福が語られます。そこにこそ、主は救いの御業を起こされるという御言葉でした。主は確かに立ち帰る人とともを喜び、ともにおられることを示す御言葉です。

そして、さらに注目すべきことは、「主のもとに集って来た異邦人は言うな。主は御自分の民とわたしを区別されると」。この点もバビロン捕囚以後の礼拝で、大きく変わったところでした。聖なるもののみに許されていた礼拝への招きが、すべてのものへ、むしろ、罪を認め、赦しを請い、立ち帰りを求める人こそ、主に招きを受けるものであることが明らかにされました。そのなかにあって、異邦人への区別が、取り払われることとなったのです。

②では、なぜはじめから神はそうなされなかったか。啓示が理解されるには歴史的順番が大切

 かくして、バビロン捕囚が大きな契機となって、すべての人への救いが向けられていることが明らかにされてきました。

ところで、こうして歴史の中で徐々に、神様の御心が明らかにされていく次第を知った人は、もしかしたら、こういう疑問を持つことがあるかもしれません。「イスラエルという民族や、ダビデ王家のみが祝福されるわけでなく、すべての人が礼拝に招かれ、救われるのが神様の御心であるならば、なぜ、神様は、はじめからそうしなかったのか」というものです。たしかに、もしはじめから神様が、すべてをご存じのお方で、すべての人を救おうとされるのであれば、はじめにイスラエルという民族だけを区別して選ぶのではなく、初めから、異邦人も含めて区別しないようにできたのではないか、とも考えられるかもしれません。

しかし、神様は、そのような方法をお取りになりませんでした。それはなぜならば、わたしたちが信仰する主なる神というお方は、「救いの歴史」をとおしてご自身がどういうお方かを顕かに示されるお方だからです。つまり、イスラエルの長い救いの歴史は、神様の御心を、丁寧に、わたしたち人間に知らせるためにあると考えることが出来るのです。このように考えれば、イスラエルがまず、はじめに選ばれたことの意味が、わかってきます。

神様の御心は、深く、広く、高いものであって、わたしたちの理解を遥かに超えています。神様にたいして、いささか僭越な言い方になるかもしれませんが、イスラエルの歴史は、いわば神様が御自身を、わたしたち人間に示してくださる履歴書、あるいはプロフィールということができます。

神様が偉大なお姿を顕すときに、すぐに、「救いはこういうものですから、すべての人、どうぞ」、と一言で終わることなど出来るわけがありません。そのような安直な方法はお取りになりませんでした。じつに神様は天地創造のときから、すべての人がなぜ救いに招かれているのかを、多くの人たちを選びつつ、雄弁に、また十全に、人間が理解できるように語られます。そのために、まずさきにイスラエルが選ばれ、契約を結びますが、主に背き、やがて立ち帰ります。この救いの歴史が、神様の御心を顕すために、必要だったのです。これらの主の御業が、順序立てて知らされることで、今、わたしたちは、聖なるものでもなく、イスラエル人でもないのに、救いを約束され、礼拝に招かれていることの尊さとかたじけなさを知ることができるのです。

 歴史、あるいは言い換えれば、時の流れのなかで、神様が少しずつ、救いの意味を明らかに示すということは、一人ひとりの信仰の歩みのなかにおいても同じことが言えると思います。わたしたちは、はじめからなにもかも知らされていたわけではありませんし、いきなりすべてを示されたわけでもありません。あるときを境に、救いとはなにか、神様とはなにか、歩むべき道とはなにか、ということに触れて、少しずつ、過ぎて行く時間のなかで知らされていったと思います。この、時の流れで示される御心によって、神様は、わたしたちにとって最良の仕方で導いてくださったということなのです。

③イザヤ書第56章、異邦人への救いを決定づけたイエス・キリストがつよく語られているところ

 かくして、このイザヤ書第56章においては、異邦人も救いに招かれていることが明らかにされていきました。旧約聖書でありながら、この御言葉のように、時代も新しいころの預言書となりますと、いよいよ神様はお姿を顕していきます。つまり、新約聖書で語られる内容に、近づいていくということです。

わたしたち異邦人にとりまして、神様の救いに招かれていることを決定的にしたことは、イエス・キリストの十字架でした。いっさい、救いのためになにも差し出すことができないわたしたちのために、主が贖いを成し遂げてくださいました。この完全な救いの御業によって、異邦人も含め、全ての罪人が呼び集められることとなりました。

 先ほども、このイザヤ書第56章は、新約聖書に近いことが書かれてあると言いましたが、とくに6~8節は、イザヤ書という預言書にありながら、キリストが語られたことを、予め語っているものです。たとえば、「主に仕えること」「主の名を愛すること」「祈りの家に連なること」「いけにえをささげる」すなわち、悔い改めの心を御前にささげること。いま、礼拝を奉げるわたしたちも、ここを読み、まさに主日のたびにしていることがここに書いてあることがわかります。そうです、わたしたちは主なる神様のみ言葉とおりのことを、しています。だから、異邦人であるにもかかわらず、喜びの祝いに招かれているのです。

 今日のみ言葉の結びにあたるところには、礼拝をささげるものにとって、大いに励ましを受ける言葉が記されておりました。「既に集められた者に、更に加えて集めよう」

 わたしたちは、神様の招きに応えて集ってきた異邦人です。6節にあるように、主のもとに集ってきた異邦人です。「わたしのもとに来なさい」と言われる主によって集められました。この「既に集められた者」には、「更に加えて集めよう」と約束してくださるのも、招き続けておられる主なる神様です。主は、集めるところに、さらに集めるお方なのです。集まって、礼拝をささげるところにこそ、主に招かれた人は、集まってきます。ですから、この6節から8節にあるように、なによりも、安息日の礼拝、主日の礼拝をささげることがなによりの伝道だと言われていることになるでしょう。また、こうして礼拝を奉げるところに、集めてくださるという、約束の言葉、励ましの言葉でもあります。

異邦人ということを広く考えますと、「集められたところに、集まっている」、現実がたしかにあります。アジア諸国において、伝道にいそしんでいる友人が多くいますが、ときおり彼らから伝道の現状について知らせを聴く機会があります。それによると、アジア諸国での伝道、とくに地方での伝道は盛んだということです。この知らせを聞くと、嬉しくなります。わたしたちは、国と国が違っていても、同じ神の招きをうけた一つの民です。「集めるところに、さらにまた集めてくださる」主なる神様。約束は確かに果たされています。

日本においては、まだまだこれから異邦人が集められる余地がたくさん残っているようです。これは大きな希望です。いまは決して大きい群れではありませんが、だからこそ、これからたくさん集めることができるでしょう。今日の預言のみ言葉にあるように、主は「更に加えて集めよう」と言ってくださいました。まずなによりも、主に仕え、主の名を愛し、その僕となり、礼拝を守ること。悔いし砕かれた心をささげること。この祈りの家の喜びの祝いを奉げていくなかで、主は必ず「更に加えて集めて」くださいます。父、子、聖霊の御名によって。アーメン。

祈りをいたします。長いイスラエルの歴史をもちいて、とても一人の人の一生をかけては知りつくせないおおくの出来事をとおして、あなたは語りつくせぬほどの御心を、わたしたちにわかるように示してくださいました。順序立ててそれらのことがなされていることを知るとき、今に至るためにどれほど深い知恵を、あなたがおもちであるかをしらされ、怖れと、そしていま、招かれている喜びを感じます。なんと素晴らしい方に選ばれてしまったのでしょうか。かつては聖なる者から切り離されていた異邦人であるにもかかわらず、格別の恵みを心より嬉しく思います。集めたところにさらに集められる方、主よ、あなたはこれからも多くの異邦人を集めるために、まずさきにわたしたちを集められたことを、いま知らされました。異邦人でありながら、いまは主の救われた民であることに平安を感じながら、ただひたすらに、礼拝をささげるものとして導いてください。そうして、祈りの家に連なるなかで、更に加えて集める御業を起こしてくださいますように。すべての人を招きたもう主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

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