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8月23日祈祷会 士師記第6章1-24節

今日は士師記第六章の前半をみていきたいと思います。先週のデボラ、バラク、ヤエルの三人の活躍から、主がいろんな人を御用いになっておられることがわかりました。また同じ目的のためには、主が用いられたものどうし、お互いを受け入れ合って共に生きていく大切さに結び付けることができればと願ったものです。

 さて今日出て来た士師は、オトニエル、エフド、シャムガル、デボラ、と数えて5人目の士師、ギデオンです。章の数でいえば、のちほど出て来るサムソンと同じですが分量としてはギデオンが多いです。士師記においてもっともよく語られている士師、それがギデオンです。

  この第六章からしばらくギデオンが主役となって、イスラエルの救いが語られていきます。とくに主題となっているのは、ギデオンの召命、神様から士師として召し出されるところです。そこに入るまえに、例によって、ここでも士師記の救いのサイクルがあるところから見ていきます。

①「主の目に悪とされること」、それは信仰者を甚だしく弱める

 救いのサイクル、すなわち背信➡苦難➡悔い改め➡救いというところから考えると、まず1節から6節まで、ギデオンが召し出されるまで起きたことのあらすじが記されていました。どうして、イスラエルはギデオンによって救われることとなったのか、ということのはじまりです。

 1節「主の目に悪とされることを行った」。これが、背信です。さて、この1節だけでは、なにをしたのかがよくわかりませんが、ほかのところを参照することで分かってきます。一つは、士師記全体に記されるイスラエルの状況は、「すべて滅ぼしつくすことが出来なかったカナンの異邦人と一緒にすむことで、偶像礼拝に陥ることがある」ということでした。さらに、今日読んだところでも、10節には預言者の言葉のなかに「あなたたちはアモリの国に住んでいても、アモリ人の神を畏れ敬ってはならない、とわたしは告げておいた。だがあなたたちは、わたしの声に聞き従わなかった」という言葉もありました。どうやら、イスラエルの人々は、今回はアモリ人の偶像を拝んで、主なる神様の救いの恵みを忘れてしまったようです。

 士師記を読んでいるときに、とくに日本に住むわたしたちが同じ境遇のように思わされることは、つねにわたしたちは異教の神々を拝む風土のなかで生きているということです。わかりやすいところから言えば、まわりを見渡せば古くからの伝統ある宗教がたくさん残っています。また、現代という視点から言えば、たとえ宗教的な体裁をとっていなくとも、人間をほんとうの神様以外にひざまずかせ、拝ませるようなものがたくさん満ちていることです。ですから、信仰を与えられているわたしたちは、ぜひとも士師記から、信仰を守るためになにかしらの使信を与えられたいものです。

 1節から6節のところで気づかされることは、4節の「命の糧」となるものが奪われていったこと、そのことでイスラエルは、6節「甚だしく衰えた」ということでした。4節の「命の糧」と訳されている「מִחְיָהは、先日の主日の説教でとりあげた創世記第45章5節の「命」と訳されている言葉と同じものです。この部分、ギリシャ語に訳された七十人訳聖書に参照すると、やはり「ὑπόστασιν ζωῆς」、訳せば「命をつぐもの、支えるもの」という意味になります。これが、まったく残されなくなりますと、当然、衰えていくわけです。6節の「衰えた」という言葉は、「דָּלַל」という動詞で、「小さくなっていく、低くなる、弱っていく」という意味をもちます。イスラエルは、偶像礼拝をすることで、命の糧を奪われ、小さく、弱っていくのでした。

 このように考えますと、異教の偶像、あるいは現代的偶像に囲まれているわたしたちが、気をつけるべきことが見えてきます。それは、偶像を拝んでしまうということ、たとえ物質的なものでなくとも、頭のなかで想像する偶像であっても、これに身を委ねることは、「命の糧」を奪われ、命が弱ってしまうことにつながるのです。

 わたしは自分の信仰の来し方を振り返っても、神様以外のものに頼ったときに、「命の糧」、すなわちこれは神様からいただく御言葉に置き換えてもいいと思いますが、これに対する飢え渇きが乏しくなったことを感じます。御言葉を真剣に聞いて、養われて、神様に生かされているのだという実感が小さく、弱くなっていくような経験をしたことがあります。そういうときは、世間的には成功しているように見えるのですが、じつは内面的には大変弱っていたことを覚えています。そうすると、それは外側にも出て来て、全体的にうまくいかなくなり、6節にあるように「主に助けを求めて叫ん」だことを思い出します。

②預言者の役目は、言葉をもって神の恵みと人の背きを思い起こさせること

 ともあれ、偶像礼拝によって命の糧を失い、弱り切ったイスラエルは救いを求めます。そこで、神様はギデオンを遣わすまえに、まず預言者を遣わしました。なぜ神様は、ギデオンを遣わす前に、預言者を遣わして言葉を語らせたのでしょうか。それは、預言者の語る言葉の内容に理由があります。この預言者が言っていることは、「神様がどのようにあなたたちを救って、なにをしてはいけないと言ったか」ということです。二つにわければ、神様の恵みと、神様への背きを、イスラエルに対して、語っているのです。神様の恵みをかたり、人の背きを語ることは、人が立ち返るためには、語られるべき大切なことです。そうでなければ、イスラエルも、なぜこういうことが起きたのか、がわからないままになってしまいます。苦難を求めて立ち帰るとき、それは信仰を改めて、新しくされていく絶好の機会とも言えます。

③ギデオンの召命。嘆く者から、救いに用いられるものへと大変身

 預言者が神の恵みと背信の事実を語ったことで、神様の救いの御業は整いました。主のみ使いがギデオンのもとに遣わされます。

 ギデオンはこのとき、「酒ぶね」で小麦を打っていたということでした。この「酒ぶね」とはいったいなんなのか、想像する手がかりがほしいところです。どうぞこれが発掘された古代イスラエルの「酒ぶね」です。英語では「ワインプレス」とも訳されますが、本来は、ここにブドウをいれて、足で踏んで、ブドウ液を発酵させてワインをつくるためのものでした。ここでギデオンは、ミディアン人がきて奪われるといけないから、こそこそと隠れるようにして小麦を打っていたのでした。ミディアン人を恐れるあまり堂々と生活のための仕事すらできない、わびしさ、悲しさが伝わってきます。Winepress

 (写真:発掘された古代イスラエル時代の「酒ぶね」)

 このような卑屈な生活を強いられていたゆえに、ギデオンは、「勇者よ、主はあなたと共におられます」という言葉に、悲痛な言葉を返したのでしょう。13節「わたしの主よ、お願いします」と言って、なぜ、こんな目にあっているのか、と訴えます。

 主のみ使いは、ギデオンが士師として選ばれたことは決定事項ですから、「主が共におられるから、あなたはイスラエルを救い出すことができる」と語ります。しかし、ギデオンは、なかなかそれが信じられません。ここに、主が救いのために人を召し出すわざによって、召し出される人の心が変化していく様子をうかがうことができます。

 まずギデオンは、はじめに、嘆きながら訴えるようなことを言っていました。13節のところです。「主なる神が共においでになるのでしたら、なぜ、このようなことがわたしたちに降りかかったのですか。先祖が、『主は我々をエジプトから導き上られたではないか』と言って語り伝えた、驚くべき御業はどうなってしまったのですか。今、主はわたしたちを見はなし、ミディアン人の手に渡してしまわれました」

 この言葉のなかには、預言者がさきに語った、イスラエルの背信ゆえにこのようなことが起こされたという理由が抜けています。いうなれば、背いたものとしての当事者意識が少し足りないと言わざるをえません。概して、苦難のなかにあるとき、わたしたちはまず苦難の理由を嘆いて、訴えます。そして救いを求めるものです。

 ところが、そのギデオンが、じつは救うために召し出された本人であったということです。ここに、苦難のなかにあるとき、その状況から脱するために主に遣わされたのは、召し出された本人であるということが示されています。つまり、主に召し出されているのは、あなた自身であるという当事者意識を起こさせることで、救いのために積極的に関わる人として、新しく変えられていくという出来事です。

 にわかに信じられないギデオンは、しるしを求めました。神のみ使いの言ったとおりに、子ヤギとパンをささげたところ、それらを焼き尽したということです。ささげるものは主なる神様のもとへと、たしかにささげられました。

 ギデオンのように、召し出された人は、まさかわたしが救いのために召し出されているとは、思ってもみないでしょう。力弱いことを理由にあげます。ばあいによっては年齢も。ギデオンは若いことを気にしました。このように、救いを訴える人は、その人も、主の御目にかなって、ギデオンのように「共にいるから戦いなさい」と召されていることを確かめるように導かれていると思います。

 いわば教会は、そのようにして召し出された人の集まりだと思います。ギデオンのように、異教に囲まれたなかで信仰をまもりますが、酒ぶねに隠れるようにしてしか、命の糧を受けることができない。そんななかで、甚だ弱ってしまいます。救ってくださいと訴え祈りますが、そこでじつは、救いを求めるなかで、すでにギデオンのように召し出されている、その主の呼びかけがあるのではないかと考えます。そうすると、これまで嘆くだけであった救いの事柄が、教会をとおしてその御業につどって与るうちに、召し出されたことを感じるようになるのではないかと考えます。

 ギデオンにちなんで、一つだけ紹介しておきます。ギデオンと聞いて、わたしたちはすぐに聖書を無料で配布しているギデオン協会を思う浮かべることだと思います。先日も当教会に来てくださって、現状についてわかりやすく報告してくださいました。この働きを、ギデオンと名乗る団体がしていることは、もちろん、ここで登場するギデオンとかかわりがあります。ギデオン協会のそもそもの成り立ちは、ウィスコンシン州のジェーンズビルで出会った、ニコルソン、ヒル、ナイツという三人のキリストの信仰をもつ旅するビジネスマンが、主のために出来る働きはないだろうか、と考えたことから始まると伝えられています。聖書を配っていくことで、主に仕えることを定めた三人は、グループ名をつけるために神様に祈ったといいます。示された名前が『ギデオン』でした。自らのことを貧弱で若いと思っていたギデオンでしたが、彼の信仰者としての姿は、それでも主がともにおられることを信じたところにあります。この姿にあやかって、彼らも、出来ることをしていこうと決意したのでした。これは189971日のことだったということです。結果として、いまや、The Gideons International 200か国を超える国に拠点をもち、100か国語の聖書を訳して、学校、ホテル、刑務所などに聖書を無料で配布しているとこのことでした。

 ギデオンの召命の次第から、救いを求める人もまた、救いの御業のために主に召し出されているということをあらためて確認することができました。最後の締めくくりとして、21節と22節では、主のみ使いは消えており、ギデオンが「主なる神と顔をあわせた」と言うところがあります。主の姿を見たら死ぬ、と言われていたこの頃、ギデオンも死んでしまうと思ったのでしょう。しかし、「死ぬことはない」と言われます。じっさい、主に召し出されるとは、それまでの古い生き方に死ぬということでしょう。新約聖書でよく語られるように、十字架によって古い生き方に死んで、キリストの復活にあやかって新しい命に生きると言うことは、神と顔を合わせて死に、神の言葉によって生きることにつながります。ギデオンの召命には、神に召された人の新しい命も示されているように受け取れます。

 今日はギデオンの召命から、わたしたちもそれぞれ召し出されていることについて確かめるようにして見てまいりました。来週は第六章の後半をもとに、ギデオンが頭角をあらわすところを見ていきます。今日はここまでにいたします。

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