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8月27日説教(郡上八幡伝道所)説教

「  喜びが溢れてくる  」

 1954年版の讃美歌に加えられた、第二篇93番に「わがよろこび」という讃美歌があります。美しい讃美歌でしたが、残念ながら讃美歌21には、採用されませんでした。これは「Jesu mine Freude」“イエスわがよろこび”、というドイツの讃美歌がもととなっています。ヨハン・クリューガーという方が作曲しました。これを、ヨハン・セバスチャン・バッハがコラールにしています。讃美歌の歌詞の内容は、十字架によって神の愛を示してくださったイエス・キリストを、わたしの喜びとするというものです。少しだけ歌ってみます。“Jesu, meine Freude, meines Herzens Weide, Jesu, meine Zier, (イエスよ、あなたは私の喜び、私の心の糧、イエスよ、あなたは私の大切なもの)。

お聞きのとおり、イエス様へのあまりにも熱い愛を歌う歌詞のゆえに、当時のルター派の教会では、礼拝に相応しくないと、使用することを禁じる教会もあったほどです。しかし現代まで、バッハの有名なコラールの一つとして残り、ドイツをはじめ多くの教会で愛される讃美歌となりました。

この讃美歌が歌い上げるとおり、イエス様はわたしたちの喜びです。神様は、イエス・キリストというお方によって愛を示してくださいました。わたしたち人間の罪を悲しんでくださり、神様のまえに正しいお方であったイエス様を十字架にかけ、それと引き換えにするほど、わたしたちを愛し、救ってくださったお方です。これほどに、深い憐みを垂れてくださるお方にわたしたちは選ばれ、救いに与ることとなりました。

これらの深い恵みを確かめるだけでも、わたしたちは喜びにあふれるところです。そうなりますと、やはり、わたしたちが喜ぶだけではなく、やはり愛する神様にも喜んでいただきたいと願うのが、愛されたものとしての在り方ではないかと思います。つまり、愛するお方の喜びは、わたしたちの喜びでもある、ということです。

 使徒パウロは、ローマの信徒への手紙のなかで、第11章のところまで、「イエス・キリストを救い主と信じることで救われるとはどういうことか」を丁寧にのべてきました。そして第12章にきて、充分、信じることで義とされることを説いたと考え、「こういうわけで」とつながりを示したうえで、つぎに、救われたものの生活について、勧めようとしています。

①常に新しくされていく喜びのために三つのこと

 パウロは、神様に喜ばれるために、生活そのものが礼拝になることをすすめています。「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい」。たしかにこの奨めの言葉が示すように、すでにイエス・キリストの十字架に拠って買い取られ、神様のものとされた人は、その身を神様にささげることです。そして、そのことがまことの礼拝になるといいます。

救われた人の歩みは、たしかに日曜日の主日の礼拝の時間だけが神様に喜ばれればよいというものではない、ということが、ここで語られていると言えるでしょう。わたしたちの生活の、どこか一部を切り取って、神様にささげることはできません。人生すべてが、キリストの十字架によって買い取られたわけですから、すべてが、神様のものとされています。したがって、神様が喜ばれることは、全生活を通して神様を礼拝することであるとパウロは語ります。

このことからわかることは、救われた信仰者の歩みは、きわめて現実的なものとなっていくということです。あまりいい言葉ではありませんが、かつて「サンデークリスチャン」という言葉が聞かれたことがありました。日曜日だけがクリスチャンになる人の生活ということです。これは一つの信仰の在り方を揶揄した言い方ですが、大きな矛盾も示しています。神様を愛する人は、どこか生活の一部だけ、たとえば日曜日だけをクリスチャンのように過ごすような器用なことが出来るでありましょうか。それは、無理だと思います。わたしたちの全生活を御覧になり、恵みを与えてくださる神様は、わたしたちの罪を捉え、そこをもってキリストの十字架によって救ってくださるわけです。ですから、一部なにか清いところだけをもってクリスチャンというのではなく、むしろ生活のなかで神様の御前にささげにくいところこそ、じつは神様の憐みがもっとも明らかに示されるところだからです。こうして、神様のまえにすべて差し出していくことが、じつは神様に喜ばれること、相応しい信仰の在り方だということが、この1節だけでもわかってきます。わたしたちはこの御言葉にきくとき、生活をかえりみて、これは相応しい、これは相応しくないなどと、選んでつくろうのではなく、むしろ「どうぞ、わたしのすべてを御覧ください。そして憐れんでください」と差し出したほうが、よっぽど潔く、また理に適っているのです。

理に適っていることを神様は喜ばれるお方です。パウロは、このような礼拝の生活が、常に神様によって新しくされていく恵みであるといい、そのために大切なことを3つ、語ります。2節のところです。

まず一つ目、何が善いことか、二つ目、何が神様に喜ばれるか、三つめ、何が完全なことか。

 しばしばわたしは、クリスチャンになると、自由がなくなるとか、厳しいおきてを守らなければならないのではないか、だからクリスチャンになることにとまどいを感じます、ということを聞くことがあります。たしかにパウロがあげている三つのことがらをわきまえること、神様にとって何が喜びであるか、考えながら生活することは、窮屈さを覚えることがあるかもしれません。しかし、日常の生活で、パウロがあげる三つの事柄に即して、神様に喜ばれるほうへと少しずつ向きなおっていくこととは、これはむしろ、人間を支配しようとする罪からの解放になります。神様の喜びを考えながら生きていくことは、健全な自由を手に入れるということになります。このように新しくされるのであれば、それは、その人にとっても喜びではないでしょうか。

わたしたちは、すでに新しくされる喜びを知っています。それは決して窮屈なことではなく、むしろ神様がいつも喜んでくださるなかで、自由に御心にそうことに力を尽くすことができる健やかさのなかに生きていると言えます。このことを、まだ神様の愛に応えていきる仕方をご存じないかたに伝えることができれば、どれほど力強い証しになるだろうかと思います。わたしが出会ったある信仰の友は、はじめはクリスチャンになることを本当に迷ったと言います。そういったなかで、神様がどうすれば喜んでくださるかを考えるうちに、どんどん身も心も健やかになっていく自分に気づかされていったと証ししてくださいました。ときには、神様が喜ばれないことに身を置くこともあり、それは本当に悲しかったとも言ってくれました。たいへん、嬉しい証しであり、こころからアーメンと言うことができました。

 ②一人ひとりのことについてのあと、教会での生活へ

 さて、パウロは筆をすすめていきます。つぎに、そういった神様の喜びについて、「わきまえた人たち」がどこに集うのか、という点がパウロのまなざしの先にあります。はっきりとは記しませんが、文脈は、たしかに、教会の形成へと向かっていきます。すなわち、神様の喜びを考えてまことの礼拝に生きる人は、教会へと集められているということです。

ところで、神様に喜ばれることは何か、と気を配る人に与えられるすばらしいことがあります。それは、なにが神様から与えられた賜物かが、わかっていくということです。神様に喜ばれることを考えながら、新しくされていくなかで、自らのこだわりはだんだんと捨て去られていき、この良い賜物は、神様から与えられた賜物だと、正しく評価することができるということです。

 神様から与えられた賜物だととらえるひとは、その素晴らしい賜物を、自分のものとして誇ることはしないでしょう。そうではなく、その賜物が用いられることに喜ぶものです。したがって、パウロが3節でいうように、神様に喜ばれることをわきまえるひとは、お互いに、神様が与えた賜物を正当に評価するとかたります。それは、「神様に与えられた賜物を独り占めするのではなく、分かち合う」、共に生きる方向へと向けられているものです。

 実際にわたしたちの信仰生活のなかで、与えられた賜物は、わかちあって、共に喜ぶために、神様に与えられているのだと思います。教会の働きのなかで、一つとして個人的に誇るような賜物で成り立つものはありません。どのような小さなことも、キリストに在って結びついており、互いに関係しています。だから全員が協力できるのであって、一人の欠けも、そこにはありません。たとえ、その日にはじめて教会にきて、新しく礼拝に招かれた人であっても、その時点で神様に賜物を与えられ、礼拝のなかで用いられはじめています。先週は、はじめてここでの礼拝にお二人の方がみえられました。その方々が、不慣れな中で聖書に聴き、賛美の歌声を合わせてくださり、御言葉に耳を傾ける一人となってくださったことのなかに、神様の御心が現れています。先週は、そうしてすべての方がいることで、2017820日の郡上八幡伝道所の礼拝が成立しました。神様の御心においては、一人の欠けもなく、その日の礼拝は完全なものとなったと言えます。

③キリストは一人ひとりの結びつきすらも成長させる。

 いまはすこし、神様に与えられる賜物について、広く考えてみました。初めて教会に来られた人でもそうして、神様に用いられているのですから、ましていわんや、長く教会にお仕えの人には、相当の賜物が神様から与えられていることです。こういった、それぞれに与えられる賜物は、まずその人個人を新しくし、成長させていきます。それだけでなく、一人ひとり、キリストに結び付いている、その関係性も成長させていきます。キリストにあって一つとされている、その関係性を新しくすること。これをパウロは、体の部位をたとえに用いて、キリストの体である教会に用いられている各部位である一人ひとりについて語りながら明らかにしていきます。

 3節でみてきたように、なぜ、神様の賜物をお互いに評価して、一つとされていくことが、神様に喜ばれることになるのか。だれか一人の、とびぬけた賜物をもっている人の偉大な働きは、教会にとって益とならないのか、どうか、そういった問いがここで考えられます。

パウロは、そのことについて4節から5節にかけては、「キリストに結ばれて一つの体」という言い方を用いて、わたしたち一人ひとりが体の部分であって、それが一つとなって体を形成すると、解きます。

こうして、人の体を考えたとき、だれか一人、つまり一部がとても優れた賜物があって、その関係性が成長することがなければどういうことになるでしょうか。人間の体には、成長期に生じる成長痛というものがあると言います。ときに部位が成長するとき、関節が痛むときがあるそうです。これは、一つの部分の発達に、それを結びつける関節の成長がついていけないときに生じる痛みだと言います。

これと同じように、賜物によって一人ひとりが新しくされること、成長することは素晴らしいことだが、結びつきもそれに合わせて成長しなければ、痛みをともなうことがあるということが言えます。キリストによって一つとされるときのすばらしさは、一人ひとりの関わり合い、結びつきも含めて新しくされることである。そのことのゆえに3節にあるように、神様の喜ばれることを弁える人は、「それぞれを神の恵みにあわせて適正に認め合う」こともまた出来るように成長させられるのです。つまり、どんな賜物であろうと、それは主に用いられるからこそ尊いというわきまえ。これがあって、一人ひとりの成長とともに、その関係性も信仰的に成熟していきます。

 ここまで明らかにしたうえでパウロは、6節以降は、それぞれに与えられた恵みを細かく説いてゆくのです。これらは、当時の教会で、主要な務めだったと推測されます。預言する事、奉仕する事、教えること、勧めること、施すこと、指導すること、慈善を行うこと、どれもすべて、今の教会に通じる大切な務めです。こういった賜物も、すべては神様によって与えられたものと正しくとらえ、互いに尊重しあうなかで結びついてこそ、一つの体としての教会の良い働きがなされると、今日のみ言葉の全体として、捉えることが出来るでしょう。

わたしたちは、今の教会のなかで欠くことのできない大切な務めを、これらに付け加えることもできると思います。それは小会、長老、執事、各部会、奉仕の業、郡上八幡伝道所の礼拝がとどこおりなく、快くささげられるためのすべての奉仕、教会のすべてのことが、ここに付け加えられます。今日、ここに集われたすべての方も、関係していることです。

 愛してくださった神様に、わたしたちも、なにが喜ばれることかと、考えることから、礼拝の生活に導かれるということをはじめにおいて、今日のみ言葉をみてきました。なによりも、同じ主なる神様に呼び集められたものが、賜物を分かち合うようにして、新しい交わりに変えられていくことを、なにより神様が喜ばれているということが今日のみ言葉のなかで、強く語られていることです。神様の喜びがわかるからこそ、わたしたちも喜びに溢れます。神様の御心がわかるように導かれるなかで、神様の喜びをわたしの喜びとすることが、わたしたちには許されています。教会につながって、新しくされながら、賜物を分かち合っていくこと、そこに、喜びは尽きることなく溢れていきます。父、子、聖霊の御名によって、アーメン。祈りをいたします。

 キリストの十字架において、わたしたちの生活のすべてを買い取られた主なる神様。そこには、もはやわたしたちの側にとどめておくことができるものは、いっさいありません。すべてをもって、主なるあなたを礼拝します。そうして、生活のすべての面において何があなたに喜ばれるかを考えるときに、確かにわたしたちは新しくされていったことを思い起こします。新しいなかに、さらに賜物を増し加えてくださる主よ、どうぞ互いに与えられた賜物を分かち合い、喜び合いながら、いっそう豊かな、信仰の結びつきを与えてくださいますようお願いいたします。それぞれの方々に与えられた賜物をどうぞ祝福してください。喜びにあふれるときに、あなたは確かにいてくださり、その明るさゆえに人を招かれます。つねに喜びにあふれるものとしてください。ここには、ほかのことでは得られない、とこしえの喜びがあることを、すべての人に知らせることができますように。わたしたちとともに喜んでくださる、主イエス・キリストの御名によって祈ります。

 

 

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