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8月30日祈祷会 士師記第6章25-40節

「 選んだ人への神の働きかけ 」

  第六章は、五人目の士師であるギデオンの召命がテーマになっています。先週は、その前半を見ました。先週読んだところから、あらかじめ今日のみ言葉に関連がある事がらをおさらいしておきたいと思います。今回も、イスラエルは異教の神々を崇拝したことで神様に背きます。そのことで、ミディアン人から七年間、抑圧を受けることになりました。神様への救いの叫び声は聞き上げられ、ギデオンが召し出されます。しかし彼は、十二部族のうちの一つ、マナセ族のなかでももっとも貧弱な一族の、もっとも年若いものであったということでした。酒ぶねのなかで隠れるようにして、生活の糧を得ていたギデオンが「勇者よ、あなたとともにいる、イスラエルを救うために戦いなさい」という言葉をかけられます。にわかに自分の召命が信じられないギデオンでしたが、士師として召し出されることになりました。

 今日のところは、ギデオンが士師として大きな働きをするまえに、まずやっておかなければならなかったことが示されていました。

①「主は言われた」、その声はどのようにして聞こえるのか?

 25節と26節は、「その夜、主はギデオンに言われた」とあるように、神様がギデオンになにをすべきか示しておられるところです。先週のことを思い起こしますと、描かれている聖書の記述から察する限り、このギデオンという人は、それほど大胆な行為を出来る人ではなかったようです。酒ぶねに隠れて麦を打ち、弱さや若さをあげて神様からの務めにとまどう人でした。そのギデオンに、祭壇を壊して像を切り倒せ、とはなかなか大きなことを示されたものです。いくら神様の御命令で異教の偶像と言えど、祭壇を壊して像を切り倒すことは、容易ではありません。ギデオンには荷が重かったのではないでしょうか。

 しかしギデオンは、ここでは言い訳したり、逃げ出したりせずに、すぐ行動に移しました。これはギデオンが主なる神様の招きにこたえ、もはや疑いなく勇気に溢れて行動をとったと考えるべきでしょうか。このギデオンの行いのなかに見えるものについて、短い言葉ですが、「主がギデオンに言われた」との言葉を少し深めてみたいと思います。

 わたしたちは、神様がわたしたちに言われていることを、聖書から生きておられる神様の言葉として聞くことになります。「聖書が神の言葉である」、そういった大きな前置きがあるなかで、わたしたちの耳に聞こえる神様の声は、わたしたちが語り、また耳に聞こえる言葉と同質のものと言えるかどうか、考えるべきところだと思います。たとえばいま、わたしははっきり、わたし自身の声を用いて、声帯を震わし、舌を動かして、口をあけて語っています。それが空気を震わせ、聞き手の鼓膜を通して、言葉として伝えられています。それと同じようにして、神様はわたしたちに語りかけられるのでしょうか。神様の声というものは、そうして実際に物理的なことで聞こえてくるものが声ということになると、わたしたちはその声にしか聴かなくなるということがあります。実際に、神様がそうして語りかけることは、あるのでしょうか。少なくとも、わたししは明白にはそのような経験はありません。

 「神様が語りかける言葉」を考えるための一つのきっかけとしては、創世記にあるように、神様の言葉の本質は、神様がその出来事が成るようにと意志を持たれるときは、そのように成るということがあります。ですから、神様が確固たる意志をもって人を選び出し、言葉をもって救いのために用いるとき、召し出された人は、せまってくる神様の言葉を聞き逃すことができません。

 信仰的に「聞く」という行為のなかには、認識と反応が含められているという説明があります。すなわちわたしたち人間の内側にない、外からの言葉の意味を正しくとらえ、そこに応えていくことが、「聞く」という行為の一部始終であるということです。そこには、ただ漫然と聞くという行為だけでは「聞く」という行為が完了しないという意味が込められています。

そうすると、人間は人間の努力をもって、神様から聞いたことを実行しないといけないか。そういう解釈になれば、こんどはそこに人間の実行力に、神様の御業が依存していることになります。そのように考えるのではなく、ここでギデオンが実行に移したように、神が選んだ人に対して示された神の言葉は、その意味が正しくとらえられ、語られた人がそれに答えることによって、神様の御心として成るということが言えます。

わたしたちは礼拝において聖書が朗読され、説教がされます。そのなかで多くの言葉に聞いていきますが、神様はそれらの言葉を通して、御自身の御心を顕していくということがあります。以前にもご紹介しましたが、これが「ベールをめくり取っていくこと、レベール」転じて「リベレーション:啓示」の語源となっていきます。もちろん聴き手の能動的な行為としての「聞く」ということもありますが、神の言葉が、新しい出来事を起こすということが聖書に証しされている以上、それは聴き手が感じる以上に、現実のこととして、御心を示すということが在り得るということが、この「主はギデオンに言われた」という一言と、ギデオンのおかれた弱い境遇、しかし実行に移した大胆さ、ということを考えてみるとわかってきます。わたしたちも「聞いた神の言葉」を実践しようと努めるなかで、それを上回って、働く神の御心があり、御心と自分の神様を追って為そうとすることが一致する恵みを味わうことが言えると思います。

②偶像崇拝がもたらす人間への災いは、人間の熟慮を損なうこと

 つぎに、ギデオンがしたことについても、少しみておきたいと思います。ギデオンが神様から命じられ、実行に移したことのなかで、まず偶像と祭壇を破壊するということは、異教の崇拝対象を取り除くという意味において、わかりやすいのではないかと思います。ささげるべきものとして「あなたの父の若い雄牛一頭、すなわち七歳になる第二の若い牛」を奉げよ、とのことでした。

 この牛は、ギデオンのものではなく父ヨアシュのものでした。日本語に「若い雄牛」と訳されている言葉は、じつは去勢された雄牛という意味で、異教の神々にささげるために取り分けられた牛であったという意味が込められています。さきほども少し触れましたが、このギデオンの父のヨアシュという人物は、バアルの祭壇とアシェルの像もっており、町の人々もそれを知っていたと言うことから、バアル礼拝において重要な役割を果たしていたことがうかがえます。聖職者的な役割を果たしていたかどうかはわかりませんが、少なくとも異教の神々に雄牛をささげることはしていたと言えます。

 つぎに「七歳になる第二の若い牛」から、七歳にはどういう意味があるのか。第六章の1節にありますが、このときイスラエルの人々がミディアン人に押さえつけられたのは、「七年」だったということでした。これは、あらためて「七年間」ミディアン人に苦しい目に合わせられていたことを、思い起こさせるためのもののようです。さらに言えば、この七歳の雄牛が生まれたときは、ミディアン人に支配される直前でした。支配されるまえに神様から与えられたものを、異教の神々に備えるという罪を犯させないようにし、神様にささげることによって、神さまによる解放を思い起こさせようとしています。

 こういったことが、ギデオンが父ヨアシュに属するものを破壊してまで、神様の言われたように実行することでわかってくることでした。さらにもう一点、わかってくることは、このヨアシュの祭壇が壊されて怒り狂う人々です。先週みたところで、ギデオンが「わたしの家族はマナセのなかでももっとも貧弱なものです」という言葉がありました。この貧弱という言葉は、金銭的な意味での貧しいという意味もあります。どうも、この町の人々は、いちばん貧しい家族にバアル信仰の役目を負わせていたという、配慮に乏しい人間関係も見えてきます。バアル信仰と言う後ろめたい異教崇拝を立場の弱い人になすりつける、人間の弱さが見えるところとしても読みとることができるところだと思います。なぜそういうことをしたのか詰問することもなく、ただギデオンを殺せということから、そうとう短絡的な考え方しかできなくなっていることを思い起こさせます。主なる神様のもとに、御言葉をいただくなかで歩むべき道を選び取る人たちには、熟慮の言葉が与えられますが、こうして自ら安易にひれ伏すものを勝手に創り出し、自分たちの思い通りにふるまう人の悲しい姿が浮き彫りにされているようです。

③神様の御心を知りたいと願う真摯な祈りを、神様は喜ばれる

 こうしてギデオンが町の人々に恐れをいだきながら、十人の仲間と行った、いわゆる一つの宗教改革は、まず父ヨアシュの心を動かし、やがてマナセの一族全体、そしてイスラエル諸部族を偶像礼拝からの悔い改めと立ち帰り、そして打倒ミディアン人へと向かわせることになります。

 最後のところ、ギデオンが「わたしの手によってイスラエルを救おうなさっているなら」と、しるしを見せてくださいとお願いするところに、「主に祈り願うこと」を手掛かりにしながら、読み取っていきたいと思います。羊一匹の毛の分の夜露を、はじめは羊の毛に、つぎに翌朝は、夜露が地面に置かれるようにとギデオンは主なる神様に、あたかも記しを通して奇跡を試すようなことをします。この点、イエス様の40日の荒れ野の試練を思い出すわたしたちには、「神様がともにいて戦ってくれることへの信憑性をたかめるためとはいえ、神様にこれこれこういうしるしを見せてください、と祈ることはあまり良くないのではないかと思ってしまいます。ところが、ここでギデオンが「しるしを見せてください」と願うところにおいては、神様はまったくとのとおりのことをして見せて、ギデオンの願いを聞き届けています。

 ここでわかることは、わたしたちはギデオンと同じように、やはり神様に用いられて世に遣わされていくときに、弱さのゆえに、不安は尽きないものだということを率直に受け止めておきたいと思います。いくら神様が「ともにいる」と言ってくださっておられることはわかっても、「本当におそばにいてくださいますか?」という問いかけは、起きるでしょうし、それを祈りの言葉にすることを我慢する必要はないのだと思います。

 幼児教育を専門とする人から、子どもの発育について考えさせられることを聞いたことがあります。子どもは、発育していくときに、親の姿を、親が考える以上に確認しながら育っていくということです。無邪気に遊んでいるなかで、ふと子供はわれに返るようにして、親の姿を探すといいます。ある絵本には、夜中にトイレに立った子供が、外で待っている母親に、「ねえ、おかあさん、いる?」となんども質問する姿を描いたものがあったことを思い出します。

 聖書において、神と人の関係は、大いなる存在であられる方に守られながら育つという点で、親と子の関係になぞらえられます。「雄々しくあれ、あなたとともにいる」と言われ、勇気づけられる反面、やはり神の御前に子供たちであるわたしたちは、「いまはどこにいらっしゃいますか?」と問いかけて、関係を確かめたくなります。ここでギデオンは、不安のゆえに、また自分の力を決して誇ることなく、神の力に拠り頼んでいる点で、しるしを求めました。その姿を神様は決して否むことはないということが示されていると思います。

 もちろんわたしたちは、ギデオンのように直截な仕方で、神様の御存在を知ること、たとえば、「神様、もしおられるのでしたら、このヤカンの水を沸騰させてください」という愚かな祈りはやめたほうが良いと思いますが、真剣に神様がともに居てくれるかを問いたいときには、誠実な信仰のもとに、「もし、神様、おられるのでしたら、こういったことについての御心を示してください」と祈ることは、神様が喜ばれることだと思います。そういった謙虚な姿勢で備えられた祈りには、なんらかの神様からのお答えが必ずあると思います。わたくしごとで恐縮ですが、やはり人生のなかでもっとも祈ったことがらは、献身を志したときでした。「もし、神様がわたしを御用いになるのでしたら、どうか御心を示してください」と、ことあるたびに祈ったものです。そうして示されたことを熟慮し、意味を問い、次の行いに移っていったことを思い起こします。祈りの多少はあれ、神様の御心に生きるということは、その都度その都度、御心が起こされますように、どうぞお示しくださいと祈ることだと思います。なにをするにしても、どこにいくにしても、なにを語るにしても、人生そのものが祈りになれば、なんと喜ばしく、また意義深い人生になるかと、わたしは思います。

 第六章ではギデオンの召命を二回にわたってみてきました。十二人の士師のなかでもっとも詳しく書かれているギデオンでした。このように、神様に選ばれる場面一つ取るだけでも、多くの神様の御心を示しているという点でも、やはり大士師と言われるだけのことはあります。それだけ、神様に入念に選ばれた人です。しかもそのギデオンが、こうして最初は本当に弱く、若く、恐れる人であったことを思うと、神様の選びは、ほんとうに人間の尺度とは全く違うということを改めて思いました。ぜひ、わたしたちも神様に選ばれて、お仕えするものとされましたから、そのことに信頼を置きながら、平安のもとに、歩んでいきたいと願うものです。つぎの章から、ますます雄々しく歩むようになっていくギデオンの姿を追っていきたいと思います。今日はここまでにいたします。

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