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9月17日説教(郡上八幡伝道所)説教

「  主の赦しは永遠  」

 今日、与えられたみ言葉は、詩編からのものでした。これは、主なる神はどういうお方か、という詩に満ちていました。

6:主はすべて虐げられている人のために、恵みの御業と裁きを行われる。

7:主は御自分の道をモーセに、御業をイスラエルの子らに示された。

8:主は憐れみ深く、恵みに富み、忍耐強く、慈しみは大きい。

10:主はわたしたちを罪に応じてあしらわれることなく、わたしたちの悪に従って報いられることもない。

13b:主は主を畏れる人を憐れんでくださる。

 

「主は、主は」と語って詩人は主のお姿の偉大さと尊さを歌い上げます。わたしたちは、信仰をいっそう確かなものとしたいと願います。そこで大切なことは、まず「神を知る」こと、そして「自分を知る」ことだと言います。

主なる神はみ言葉をもって「わたしはこういう存在である」と示し続けておられます。この詩編の詩も、詩人を通して、語られた、神ご自身による、神の姿を示したものです。

さて、詩人というと、だれか古の一人を思い浮かべるかもしれません。この詩編はダビデの作とされています。ダビデが一人で歌い上げたように思われます。たしかにダビデは王でありながら、一人の信仰者でした。心を尽くして仕えていたはずのサウル王に命を狙われたときも、苦難のなかで主に信頼しました。王子たちが反乱を起こしたときも、自ら罪を犯したときも、人生のあらゆるところにおいて主に信頼した人。だから、彼は主なる神様ととても近い間柄にあり、彼が語る主なる神様のお姿には間違いがない、という言い方もできる。

それに付け加えて、この詩が歌い上げる主なる神様のお姿がもっと確かなものと言えるのは、この歌が、旧約のころから今に至るまで、教会の礼拝のなかで歌われ続けたという事実です。旧約のころから、というのだから、二千年以上、神様を礼拝する聖なる集会で、神様のお姿を顕す詩として用いられてきました。詩編は、人が神様を勝手気ままに想像して、美しい言葉を並べることで出来上がったものではありません。主なる神が、ご自分の姿を信頼する人の前に確かに表し、さらに礼拝のなかにおいて、この詩編によって、わたしを歌いなさいと、群れに与えたもの。詩編が教会の礼拝を司る聖書に収められていることが、この詩編が、神様がどなたであるかを知るために用いられることの確かなよりどころとなります。だから、わたしたちは、いま、この詩編を賛美することで、たしかに主なる神様を知らされているといえます。

 詩編103篇全体は、「主なる神様はわたしたちの罪を赦して、新しくしてくださる」ことが語られています。そしてその中心に置かれる6-13節は、「赦しの確かさ」について語られています。

前半の6-9は、赦しが与えられる前に必要な、罪の裁きについて語ります。

 さて、裁きは恐ろしいものでしょうか。6節をごらんください。「すべて虐げられている人のために」という言葉があります。この「すべて虐げられている人」が、だれであるかをとらえることが、この詩編を味わうためのカギとなります。

「虐げられる」、という言葉は、現代ではどういう意味をもっているでしょう。「虐待」という悲しい言葉が盛んに聞くようになりました。抵抗することができない弱い人を、力の強い人が押さえつけ、暴力によって言うことを聞かせる行為。赦されざる行為です。もしかしたら、いま幸いなことに、直接的な「虐待」という被害にはあっていないかもしれない。だから現実的な虐待ということで、6節をとらえたとすると、わたしたちは、にわかに、この詩人が語る人にはなれません。

そこで7節を見てみたい。7:主は御自分の道をモーセに、御業をイスラエルの子らに示された。

ここで詩人は、限定的な虐待ではなく、すべての人が「虐げられている人」であったことを思い起こさせようとしています。モーセに主がご自分の道、すなわち救いの道を示されたところはどこだったでしょうか。それは、イスラエルが虐げられていたところ。エジプトからの脱出のときです。「モーセを通してイスラエルに道が示された」ときくとき、わたしたちは、かつてエジプトの奴隷の家。すなわち、罪のもとに奴隷であって、虐げられていたことを思い起こします。

 したがって、6節の「すべて虐げられている人」とは、罪のまえにまったく無力である人、罪が襲ってきて、再び主なる神様のもとから遠ざけようとする、試みにたえずさらされている人、すべてをさしていることに気づかされます。

そうすると、この詩編103篇が、一貫して、主が罪を赦してくださるからこそ、救われるということにまなざしを置き、その主なる神様をほめたたえていることがはっきりしてきます。そして、6節によって、罪から虐げられている人、すべてが、この歌を歌いあげることへと導いていることがわかってきます。

 そこで、さきほどの問いに戻りたいと思います。「裁き」は恐ろしいものでしょうか。「裁き」という言葉は、たしかに人の罪を露わにします。しかし本来の裁きの意味は、あるべき順序や流れを、正しいものに整えるものでした。日本語でも、「さばく」という言葉の響きは、「荷物を捌く」や「仕事を捌く」という言葉にもなっていったように、乱れているものを整えて、あるべき姿に正していく言葉になっていきました。ヘブライ語も同様で、「裁き」と訳されるミシュパートという言葉は、混乱しているものを落ち着けて、正しく物事が進むようにすることです。

罪に虐げられてしまうわたしたちには、いつも、罪によって秩序を乱され、正しいお方である神様への向きを変えさせられてしまうことがあります。だから、わたしたちには、神様に裁いていただいて、たえず向きを神様に戻していきます。

そのために、かつてはモーセを通して律法が与えられました。さらに新しいイスラエルである教会には、キリストをとおして、完成された律法が与えられています。だから、そのつど、み言葉にきいて、罪を知りながら、向きを戻していけばよいのです。決して裁かれることが恐ろしいことではありません。8節にあるように、神様は忍耐強く、慈しみの大きいお方。罪に虐げられながらも、正しくありたいと願う、わたしたち神様の子供をどうして、永久に責められることがあるでしょうか。9節が歌う通りです。

後半は、そのようにして、罪を嫌い、憎み、怒られる神様であるからこそ、罪のまえに無力なわたしたちをことのほか憐れんでくださり、罪から遠ざけてくださる偉大さが歌われます。

 9節から、あらためて詩に耳を傾けてみると、神様がしてくださることばかりが歌われます。わたしたち人が、赦しのためになにかするべきことは、語られません。ここにも、罪の赦しは、神様の一方的な憐れみと、救いであることが証されています。わたしたちは、赦しのためになにもすることができません。ただ受け取るのみです。

ただし、一つだけ、どのような人が憐れみを受けるか、は語られます。そこが、13節「主は主を畏れる人を憐れんでくださる」

これは一つ、主なる神様に赦しをいただき、憐れんでいただき、守られながら過ごすために必要な、唯一といえる条件かもしれません。主を畏れること。

 説教のはじまりで、詩編においても、神様はご自身を知らせるということについてふれました。わたしたちは、神様がどのようなお方であるかを知らされていきます。それは、神様を、知識として知っていくということではありません。今生きておられる神様を、礼拝するお方として知ることです。そこには、畏れがともないます。罪を嫌い、憎み、怒られるお方であると、畏れをもって知っていきます。

畏れがあってこそ、神様がどなたであるかを知らされる、み言葉があります。箴言21-5(旧992p)。

21わが子よ、わたしの言葉を受け入れ、戒めを大切にして、知恵に耳を傾け、英知に心を向けるなら、分別に呼びかけ、英知に向かって声をあげるなら、銀を求めるようにそれを尋ね、宝物を求めるようにそれを捜すなら、あなたは主を畏れることを悟り、神を知ることに到達するであろう。

 このようにして、わたしたちは、たえず主なる神様がどういうお方であるか、新しく知らされる喜ばしい恵みに満たされています。

わたしたちは、罪に虐げられることがありますが、それゆえ罪を赦され、救われました。一度、赦してくださった限り、その恵みは永遠につづく。今一度、7節にもどりましょう。「主は御自分の道をモーセに、御業をイスラエルの子らに示された」

 今は、新しい律法、すなわちキリストの十字架が完全に罪を滅ぼし、わたしたちを救ってくださいました。たとえ、罪がまだ世にはびこり、わたしたちを虐げることがあっても、東から西が遠い程に、わたしたちから罪を遠ざけ、赦しのうちに置き続けてくださる。その恵みは永遠に耐えることはなく、わたしたちはしっかりと赦しの御手のうちに置かれています。

 どうぞ皆さま。今日から始まる新しい一週間も、主の、とこしえなる赦しの平安に身をゆだね、安心して日々を歩まれますように。父、子、聖霊の御名によって、アーメン。祈りをいたします。

 お姿は、わたしたちの目には見えないお方であっても、それゆえに、わたしたちのように姿がなくなれば存在がなくなってしまうもの以上に、はるかに大きく、確かで、永遠であられる主なる神様。あなたは、み言葉を通し、そしていける聖なる霊のはたらきによって、ご自分を豊かに表してくださいます。わたしたちを選んで、礼拝に招き、今日も、確かなお姿を示してくださり感謝をいたします。すでに、御子イエス・キリストの十字架を通して、罪を赦されております。しかも、その赦しは、永遠に続くことを、確かに語ってくださいました。それゆえ、わたしたちは、いつも赦しのもとにたち、平安のなかを歩んでいくことができます。赦しの確かさを導として、日々を歩むものとしてください。かの日の詩人が高らかにあなたの憐れみの深さを歌い上げたように、わたしたちも「主よ、憐れんでください」とかたりつつ、御心のままに歩むものでありますように。永遠の赦しを打ち立ててくださった、救い主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

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