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9月6日祈祷会 士師記第7章

「 霊的な目覚めが勝利を呼ぶ 」

 貧弱な一族の出身で、いちばん若いものであったギデオンでしたが、神様はミディアン人からの支配からイスラエルの民を救うために、彼を士師として立てました。前回、前々回と、第六章が語るギデオンの召命の出来事を読みながら、神様はこれと決めた人であれば、たとえその人が弱さや年齢を理由にあげたとしても、相応しい賜物をお与えになって、「あなたとともにいる」と御語りくださり、御業を起こされるお方であることを確かめたものです。

 このとき、ギデオンのように、神様の救いの御業に仕えていく個人としての信仰の歩みに重ねることも出来ますし、あるいは教会全体の歩みにも重ねることが出来ると思います。教会の歴史のはじまりを思い起こしますと、イエス・キリストの復活を目撃して信じた人は、まず婦人たちでありましたし、扉に鍵をかけて外の世界を恐れていた弟子たちでした。小さな、弱い群れのなかにこそ、復活のイエス・キリストが真ん中にお立ちになり、教会の歩みを励まされたことを思います。その後の時代も、教会が小さく弱く、迫害されていた時期こそ、むしろ、主なる神様への純粋な信仰をもつ民が必ず起こされ、絶えることなく神の民は歩み続けてきました。こういった小さく弱い教会であっても神様の力は大きな力を発揮されるという真理が、今日の第七章のテーマにもつながっているように思います。すなわち神様が御業のために選ぶ民は、数の多さ、少なさに関係せず、明確な御心のもとに形成されていくということです。さらには、相手のミディアン人を中心とした異境の民の連合軍が、数が多かったにも関わらず、もろくも敗走していく姿が対照的に描かれてもいます。数が多くても、驕り高ぶりや油断がある人間的な交わりは、もろくも崩れることがあるように思わせられます。

 それでは順を追って、見ていきたいと思います。まず1節から8節までは、3万2千人集まったイスラエルの人々から、最後は3百人にまで選ばれていったことが記されていました。2節には、この選びの理由について神様はこのように語っておられました。主はギデオンに言われた。あなたの率いる民は多すぎるので、ミディアン人をその手に渡すことわけにはいかない。渡せば、イスラエルはわたしに向かって心がおごり、自分の手で救いを勝ち取ったと言うであろう

 ギデオンが士師として選ばれたとき、第六章の16節では、「わたしがあなたと共にいるから、あなたはミディアン人をあたかも一人の人を倒すように打ち倒すことができる」と神様はギデオンに語りかけられていました。そして、ヨシュア記でもたびたび見て来ましたように、すべての救いの業は、神様ご自身が起こすことを、聖書は語っています。たとえ、人が起こしたように見えても、その後ろには、主なる神様の救いの御心と御手が及んでいるということです。そのことを合わせて考えますと、この士師記第七章2節で主なる神様があらかじめ、言っておられることの意味がわかってきます。数に頼んでミディアン人を倒すことになれば、その勝利は、神様にではなく、数をたくさんあつめたイスラエル自身のものだと、イスラエルの人々の心に驕り、高ぶりが生じるかもしれません。そのことを神様はあらかじめ、防ごうとされます。

 この「わたしに向かって心がおごり」と訳されている言葉「פָּאַרパーアル」のもともとの意味は、「美しく飾る、誇りに思う」というものです。直訳すると、「イスラエルが神様にたいして、自分自身を誇らしく思う」ということになります。ここには、信仰の歩みのなかでもたびたび人の心に生じて来る、神様にたいする驕る思いが示されているように思います。

 主なる神様が、十戒をはじめとして律法のなかで偶像崇拝を禁じている理由は、神ではないものを人間は崇めてしまうという性質を踏まえたものです。たびたびわたしが引用するジャン・カルヴァンの「人間の頭は偶像の製造工場である」という言葉にもあるように、人間は刻んだ像もそうですし、あるいは形のないものにも頼ってしまい、ひれ伏す性質をもっていると考えられます。ですから、正しい唯一の神様を聖書によって正しく知らされ、その方だけを崇め、栄光を帰し奉るということは、人間も自分自身を正しく知り、正しくあるために必要なことと言えます。この第2節で神様が防ごうとしておられるのは、いわば、わたしたち自身が、神様をさしおいて、自分自身を偶像化して、自分にひれ伏すといった心の在り様であることがわかってきます。

 「奢る心」を起こさせないようにとの配慮から、人数が絞られていくことになりました。まず、戦に出る心構えがない人、「恐れおののいている人」が去っていきます。これは、申命記第二十章8節にある、戦にでるときに怖がっている人は従軍させてはならないという律法に基づいたものと言われます。たしかに、真剣勝負をいどむときに、怖がって逃げ出そうとする人がいれば、足手まといになるか、真剣にやっていこうという気持ちがそがれてしまうものです。

 3万2千人から1万人が残りました。三分の一ですが、それでも神様は多すぎると言われます。次に選んだ仕方は面白いものでした。川の水の飲ませ方で選んだということです。5節には「犬のように舌で水をなめる者、すなわち膝をついてかがんで水を飲む者はすべて別にしなさい」とあります。これは、犬の名誉のためにも一言、注釈をさせていただきますと、犬のように飲んだから、その姿が、行儀が悪いということで、そのようにした人たちがはじかれたわけではありません。そうではなく残された側、水を手にすくって飲む人たちは、これから戦いにいく心構えが、水を飲むときにも整えられている人だということです。というのは、ここはすでに戦場です。いまから大勢の敵を相手にするなかで、どこから敵が襲ってくるかわからない状況にあります。そういった置かれた状況をわきまえて、いつ戦になってもいいように、まわりに注意しながら、手で水をすくって飲んだ人が選ばれたということです。

 霊的な信仰の戦いという点からも、こういった置かれた状況をわきまえながらいる姿は、通じるところがあると思います。エフェソの信徒への手紙の第6章では、神の武具を身にまとって戦いなさいというところがありました。これはパウロが霊的な悪との戦いについて、戦いに赴く姿をたとえにして語っているところです。ここは有名なところでもありますので、親しむために開けておきたいと思います。新約聖書359pです。10節から神の武具を身に着けるということが書いてあります。すこしそのところを目でおっていただいて、18節だけ読んでおきたいと思います。「どのような時にも、“霊”に助けられて祈り、願い求め、すべての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい」信仰の生活が、罪や悪との戦いになぞらえられることを考えるとき、ここでパウロがいうように、「絶えず目を覚まして根気よく祈り続ける」ことが、ともにおらえる霊の助けを知り、人の業ではなく、神様の御業が働いていることを確かに感じつつ、信仰が強められていく秘訣の一つであると受け止めることができると思います。どうぞ士師記に戻ってください。ここでは、戦いに赴くものが、いつ、どこから飛んでくるかわからない矢、おそってくるかわからない敵の剣のまえに、眼をしっかり前にあげて水を飲む姿が、わきまえている者という選びを受けることになりました。かくして、3万2千人からえりすぐりの3百人が残されました。なんと、1%未満です。

 この選びの厳しさと尊さを思うとき、神様の御心にかなうものとして残るということの狭く門を思います。また同時に、こうしてその狭き門をくぐるようにして、教会につながっている今があることを、わたしたちは大いに喜んでいいと思います。1%未満という言葉から連想することは、ここ日本においては、自覚的なクリスチャン人口が1%に満たないという統計が良く引き合いに出されることです。教会の内にも外にも、この数字をあげて、いろいろ日本にキリスト教が定着しない理由を分析する人がたくさんおられるようです。おととしの信徒大会でも、久野牧先生が講演のなかで、信徒数の統計について触れておられました。たしかに信徒数の減少ということは、これからも宣教の御業が起こされていくことを信じつつ、わたしたちも賜物をささげて励んでいこうと思わせられるものです。それと同時に、久野先生は「霊的数字」という言い方をされておられましたが、選ばれて残された人たちの霊的な養いは、なかなか数値化できないもので、そこには、本当に信仰に目覚めている人が、つねに信仰の戦いのために、目覚めて祈り続けているという確かな姿があるということも、覚えておきたいところだと思います。人数が少ないことは、決して悪いことばかりではなく、の日本という本当にたくさんの偶像的誘惑に満ち満ちている社会にあって、確かな人達が選ばれて、群れを形成しているところに、喜びを感じても良いと、この3百人の選びからも思わせられます。

 この、眼を覚まして祈っているということを踏まえつつ、ギデオンたちの戦いの直前の出来事に読み進めていきますと、13節では、もう一人の兵士とともに偵察にでたギデオンが、夢の話をしているミディアン人の兵隊の会話を耳にするところがありました。なかなか興味深いところです。もうミディアンの兵たちたちのなかに、「イスラエルには、神がともにおるようだ。この戦は負けるんじゃないだろうか。」という弱気なムードが漂っていたということです。このことは、神さまが、10節で、「もしこの戦いが恐ろしいなら」といって、ギデオンを遣わしたことで、ギデオンの耳にはいったことでした。このミディアン兵の弱気な言葉を聞いて、「たしかに神様はこの戦いを勝たせてくださる」と確信し、ギデオンはひれ伏したのでした。

 これは目を覚まして祈るということと合わせて考えると、神様がことを起こそうとされている兆しが、なにかしらの方法で届けられることがあるとういことを示しているように思われます。霊的な戦いのなかで、眼を覚まして祈る時、祈りのなかで、将来のビジョンや洞察が与えられることがあります。漫然と祈るだけではなく、神様に何を求めていくか、意識的に祈る時、祈りの言葉は祝詞やお題目ではなく生きた言葉として、神様との対話につながっていきます。プロテスタント教会は、とくに自由祈祷を重んじますが、これは素晴らしい信仰の伝統だと思います。もちろん、言葉が整った形式的な祈りの中にも学ぶべきものがありますが、自由祈祷のなかで言葉を紡ぎ出すようにして神様におささげするとき、自分自身のなかに、何を求めているのかが明らかになってきて、そこにふと神様が起こされようとしている御業の兆しを知らされる恵みを感じることがあります。キリストの教会における優れた霊的な指導者は、なによりも良く祈るようにと奨めました。教派によっては、デボーション、奉げる祈りを大切にしているところがあります。恐れのなかにあったギデオンに、御業の兆しが告げられて、ひれ伏したように、霊的な戦いの、畏れ不安のなかで、祈りのなかに希望が告げられることが、ここに示されていると読むことができるようです。

 こうして、ギデオンは主なる神様への確かな希望と信頼をもって、なんとわずか3百人をもって戦いに赴いたのでした。彼らは、神様に命じられたとこを忠実に果たしています。角笛を吹いて、たいまつをかかげ、水がめを割っただけで、その音と光に異教徒連合軍は、大パニックに陥り、同士討ちまではじめる始末でした。まるで、日本の戦国時代の戦のようでした。源平の合戦の富士川の戦いでは、鳥の羽音にびっくりした平家は総崩れになり、また天正伊賀の乱では、侵入した織田の軍勢は、夜に襲って来た伊賀の少ない人数に慌てふためき、同士討ちを繰り広げたといいます。イスラエル軍、お味方の大勝利となりました。

 実際の古い時代の合戦絵巻のようにも読めますが、やはりここも、霊的な信仰の戦いということで、受け止めて読んでおくところがあるように思われます。えりすぐりの目覚めた人たち3百人が、整然と神様に従って、なすべきことをなすまえに、敵は総崩れでした。教会が、戦うべき相手は、さきほど引用したエフェソの信徒への手紙でパウロもあげているように、世の悪であり、罪です。この戦いのように、世の悪、罪は大勢の数に頼んで攻め込んできますが、それらは同士討ちをするほどに、じつはもろくよわいつながりであって、自分勝手な思いの集合です。教会も長い歴史のあいだ、具体的な世のなかの罪とながく戦ってきました。たとえば奴隷制度に対してであったり、戦争に反対する取り組みであったり、独裁者に対する反抗であったり、虐げられる人を守る戦いもあります。歴史は厳しい戦いであったことを今に伝えます。また、いまも姿形を変えて、悪や罪はわたしたち選ばれたものを襲ってきていることを思います。そこで、眼を覚まして祈っていなければ、巻き込まれてしまうようなときに、わたしたちは、霊的な目覚めを与えられ、なすべきことを示されていることを、今日の箇所からも選らばれた者として読むことができると思います。なかなか手ごわい敵かもしれませんが、必ず主は、キリストがすでに勝利されたように、わたしたち、選ばれたものと共にいて、勝利を与えてくださいますので、恐れることなく、なすべきことをなしていくものでありたいと、そのように願うものです。今日の、選ばれた3百人の戦いから、またあらためて、勇気と励ましを与えられ、感謝です。

 次の第8章にかけても、ギデオンの戦いと活躍が続いていきます。読んでいきますと、だんだんとギデオンが士師として自覚し、堂々と役目を果たす姿がみえてきます。神様が養って導いておられるところ、またご一緒に読み深めていきたいと思います。今日はここまでにいたします。

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