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10月1日説教のポイント(郡上八幡伝道所)

「  ときにはつぶやくことも・・・  」


 主なる神様の導きにより、奴隷の家エジプトを脱出したイスラエルの民でした。彼らの旅立ちはたいへんあわただしいものでした。ファラオの追手がすぐにかかるかもしれないなかで、とるものもとりあえず、逃げ出しました。

 いまでも守られているユダヤ教の過ぎ越しの祭りは、このエジプト脱出のことを思い起こしながら礼拝が捧げられます。このとき食事のなかに種無しのパンが出されます。あの夜、エジプトから逃げ出したとき、パンだね、いまでいうイースト菌をもっていくいとまがありませんでした。ぐずぐずしているひまはなかったのです。わたしも食べたことがあります。うすっぺらい、お世辞にもおいしいとは言えないパンです。しかし、これを食べるとき、確かに主なる神様はエジプトから助け出してくださったことを感謝とともに思い起こすといいます。イエス様が、最後の晩餐を取られたときも、この過ぎ越しの祭りの真っ最中でした。わたしたちにとってのパンであるイエス・キリストは、ご自分の肉が十字架のうえで裂かれることで、罪への裁きが過ぎ越すことを記念として、わたしたちに遺してくださいました。

 こうして、のちのちには、種無しパンとともに思い起こされる主なる神様の救いでしたが、エジプトから脱出したイスラエルは、さっそく不平を言う様になります。「パンがたべたい、おなかがへった、エジプトの肉鍋がたべたい」と。

今日のみ言葉として与えられているところです。お開きになっているところ、目を通して、「不平」という言葉がいくつも出てくることがお分かりだと思います。「荒れ野に入ると、イスラエルの人々の共同体全体は、モーセとアロンに向かい、不平を述べ立てました。」紅海を渡る奇跡から、それほど過ぎていない第16章で、すでに民は不平を口にする。

 

①「不平」のモチーフ。旧約聖書のみで聞けば信仰への教訓だが・・・。

主なる神様に救われたものが、約束の地を目指して歩み始める姿。後の世では、このイスラエルの民の歩みは、一人の信仰者の歩み、あるいは信仰共同体の歩みに重ねながら読まれるものとなっていきました。神様の救いに信頼しながら、信仰の道を歩んでいきたい。そのように願うことは、昔も今も変わりがないものです。そして、信仰の道を歩むときに、試練に出会い、つい不平のつぶやきが口をついて出ることも、あるでしょう。信仰者であれば、だれしも経験することではないかと思います。

そういった意味では、このみ言葉の箇所が礼拝のなかで朗読され説教されるとき、おおむね「神への不平を口にすることの戒め」が語られたと言えるでしょう。イスラエルの民がつい、主なる神様に「不平を漏らす」ことへの戒め。それは、教訓的な読み方です。説教されるときに、「あなたたちは、主なる神様に救われたんでしょう。試練のときも、不平を言うのはおやめなさい。ほらイスラエルの民にうずらやパンが与えられたように、ちゃんと神様が備えていてくださいます」。

このように説教されることについては、たしかにアーメンなのです。わたしたちには、信仰の道を歩む中で、おもわず不平をもらしてしまうようなことが起きる。そうして神様への信頼が揺らいだところで、思わぬ解決の仕方などが与えられ、「ああ、やはり神様は共にいてくださった」と安どして、また前に進んでいきます。これまでの人生を振り返って、こうして、今日この日まで歩んでこれたと、わたし自身も、感謝とともに思い起こします。

そのように教訓的に読み、理解することで、今日のみ言葉を過ぎ越していいものかどうか、が今日の問いかけになります。今日、ご一緒に考えたいことは、「不平」を神様に漏らすことは、悪いことなのかどうか、ということなのです。「ときにはつぶやくこともある」わたしたちの歩みのなかで、試練のときの不平もぐっとこらえて歩むべきものかどうか。いや、わたしたちは不平をぐっとこらえて歩むことが、そもそもできるのかどうか。

今日のみ言葉から、「信仰的な歩みの中で、試練に陥ったときも、救ってくださった神様を思い起こして、不平をいわず、前に進んでいきましょう」という理解に終わってしまったとすれば。「不平」を言うことは、よろしくないことという理解にとどまってしまうかもしれません。少なくとも、今日のみ言葉のなかでは、明確に「不平」を言うことへの厳しい戒めは語られません。むしろ、9節や12節が「主はあなたたちの不平を聞かれた」と語るように、不平をお聞きになる神様の憐れみが、み言葉の中心となっています。

②とるものもとりあえず逃げ出したイスラエルの不平は、人の心の本音。

じっさい、人間の本性は、不平を我慢して歩めるほどに素直なものなのでしょうか。「我慢」という言葉は、なかなか面白いものだと思います。もともと仏教の用語で、自分のことに執着することを戒める言葉だったといいます。近世のころに意味が転じて、「耐え忍ぶ」意味になっていきました。

それにしても、「不平を言わず我慢する」とき、じつはすでに心の中に、自分に執着している心は生じていることに気づきます。不平を口にしないだけで、心のなかではすでに不平の気持ちが生じている。そういった意味では、我慢という言葉は、本来の意味を失っていないと言えるでしょう。

このときイスラエルの民が「不平」を我慢せず、口にしてモーセやアロンにつめよったことは、言い換えれば、そのとき彼らが感じている偽らざる思いの告白でした。「おい、救われるために、旅に出たんだ。どうして、いま、こんなに飢えているんだ。どうしてくれる!」

イスラエルの民がそうであったように、「不平を言う」とき、人は、心を偽ることができません。そうして、自らの我慢の限界を知ります。聖書がわたしたちに示すものは、神様のお姿と、わたしたちの罪の姿です。「我慢」がすでに不平の始まりだと考えるならば、そのように「神様への信頼」が薄れたときこそ、なにがそのとき、自分にとって不足なのか、知る良い機会ではないでしょうか。

じつは、このとき、イスラエルが「不平」を口にすることは、無理からぬところもあったのです。説教のはじまりのところで、エジプトからとるものもとりあえず、急いで逃げ出さなければならなかったところにふれました。旅路のお弁当になるパンをもっていく余裕もなかったのです。道中、不足が出ることは、当然のことでした。イスラエルの民にとって、「食べ物がない」ことを我慢せよ、というのは、どだい不条理です。人は腹が減る。不平を言うのも致し方ない。命の危険にさらされているのだから。神は、たしかにご自身の救いの計画をどのように行うか、すべて知っている。しかし、人は、これから将来、救いの道を歩むとは言えど、なにが起こるかまったく知らないのだから。

こうして考えてみると、「不平」はけっして悪いばかりのことではないことと言えます。神様との、偽らざる交わりを考えたとき、「不平」を口にする自分に気づくことは大切である。そうして、わたしたちは、偽りのない姿もふくめて、神様の御前に捧げるのだから。「心のなかで起こった不平」、無視したり、押し殺したりしては、本当の悔い改めのチャンスを逃してしまうのではないでしょうか。その時点における限界を知ることが、さらなる信仰の養い、まさに生きているパンとして天から与えられていくと思います。

③罪深さを知るときとは、「なんでこうなるんだ!」我慢の限界を超えたとき。

偽りなく、我慢することができずに、不平をいうイスラエル。その不平をお聞きになって主なる神様は、うずらとマナをあたえました。

うずらは、この地方に住む小鳥で、まるまると太って美味しいそうです。太っているので、捕まえるのが容易だと言われます。うずらはまだ、わかるとして、イスラエルの民にとっても不思議だったのは、マナでした。「これはいったい、なんだろう?」と口々に言ったといいます。ヘブライ語では、疑問を示す言葉が「まあ?」といいます。「これ」は「フー」です。ここのところ、ヘブライ語の朗読を聞くと、感情がこもっていて、「マー、フー?」と語って、なかなか面白いものです。ある人は、この「マー、フー」という発音から「マナ」と言う言葉になったと説を唱える人がいますが、決め手にはなっていません。とにかくイスラエルの民にしてみれば、降ってきたものは「いったいなんだろう」、神様の不思議の御業でした。

マナがいったいなんのか、いまでも降るのか、そういったことを考えることも面白いですが、み言葉が示しているものは、マナによってあらわされる、神様の天から与えられる養いです。

不平をお聞きになる主なる神様は、天より、わたしたちに見返りを求めることなく、必要なものを与えてくださいました。いま、生活のことにしても、信仰の養いにしても、すべて、わたしたちが生きるにおいて、必要なものは、すべて天におられる主なる神様から与えられているものです。

そして、ここにも、わたしたちが不平を口にすることとの大切なかかわりが示されます。「不平」は心の本音だと語りました。わたしたちは、祈るときに、この心の本音というものを、どこまで赤裸々に神様に打ち明けているでしょうか。どこかで、本当に願っていることは、神様に遠慮して、あとに置いておいて、かなえられそうな無難なものから先に祈ることはないでしょうか。

せんだって、他の教派の親しくしている先生と、祈りについて長いこと語り合いました。おおむね、神学的理解が符号しまして、時を忘れるほど楽しい談義でした。そのなかで、わたしが感服したことは、とにかく具体的に祈るということを改めて勧められたことです。とくに、神様と二人きりになる、密室の祈りともいいますが、そういうときこそ、声にだして、事細かに祈っていく。このことを勧められました。わたしも、だいぶその通りにしていたと思っていたのですが、まだ、未熟だと思わされたのは、自分のことについては、遠慮していたのです。そう、不平を我慢して、神様に、遠慮していたのです。「大丈夫です、神様。この点は自分でなんとかしますから」。しかし、神様は心を見ておられるお方です。「なにを我慢しているんだ。それこそ、いま君が祈るべきことだろう」と言われたような気がしました。

求め続けるものには、満たされるまで天から地上まで降ってくる。このマナの姿は、のちのち、「求めよ、されば与えられん」と語られた、イエス・キリストの姿に重ねられていった。イエス様ご自身が、そう言っている。ヨハネによる福音書第6章を見てみよう。 

地上を歩み続けるわたしたちも、不平をこぼしながら自分の限界に気づき、神の憐れみに気づいていくものです。そういう祈りのなかに、聞かれるものと、聞かれないものがあり、神様にすべてを守られ、導かれながら歩んでいることの実感を深めていくのだと思います。

わたしたちも、振り返ったときに、あのときには「不条理」だと思えたものが、じつは「不条理」ではなく、御心であったことを、いつも後ほど、知らされる。とるものもとりあえず、急いで罪の奴隷の家から逃げ出したわたしたちです。なんの備えも、なかったからこそ、すべてを主に信頼して、歩むのでしょう。そして、「不平」を聞いてくださる神様の憐れみに感謝しながら、「アーメン、主よ、そういう御心だったのですね」と知らされたときに、主に対する信頼は、ますます強くさせられているものではないでしょうか。そして、「不平」を口にしているときにも、じつは絶えず、天からのマンナである、イエス・キリストのみ言葉が与えられつづけていたことを知るのである。

ときにはつぶやくこともある、わたしたちの地上の歩みです。その一言ひとこと、ときには言葉にならないようなつぶやきも、すでに聞いておられる主が、必ず相応しいものを与えてくださいます。今日よりの旅路も、どうぞ主に信頼して、すべてを言葉にして祈り願う歩みを続けていきましょう。父、子、聖霊の御名によって。アーメン。

あなたの導きによって救いの道を歩んできました。わたしたちの不平すらもお聞きになられる主なる神よ。なんと憐れみの深いお方でしょうか。わたしたちが祈るよりもさきに、すべてを知っていてくださり、感謝をいたします。どうぞ日々の生活と祈りのなかで、偽ることのないわたしたちの姿に気づかせてください。そして、ますますあなたが神、主であることを知るものとしてくださいますように。天よりの生けるマナ、イエス・キリストの御名によって。

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