10月11日祈祷会 士師記第13章24-14章20節
「 霊の働きを見極めるために 」
大士師、サムソン。ギデオンにつぐ長さ。全体を見ることが難しいので、今週から三回にわけてみていきたいと思います。
①サムソンの人柄について、はじめに簡単に言えば、自由奔放、怪力、女性に弱い。「理性よりも、そのときに感じたままに動く人」。教会にはあまりいないタイプかもしれない。しかし世間にはそのような人はたくさんいる。こういった姿をみたとき、わたしたちはどう感じるか。理性的でなく感情のままに生きる人、好意的に見るでしょうか、嫌悪感をもって見てしまうでしょうか、怖がってしまうでしょうか。
まず注目したいところは、サムソンが生まれたすぐあとのところ、13:25「 主の霊が彼を奮い立たせ始めた。」という言葉がありました。広く考えてみたとき、なにかを決断し、行動を起こすとき、人は過去からのしがらみを断ち切って、自由な意思を与えられる。それはわたしたちの内なる人に働く、外からはみることができない、霊の力と言えるものです。サムソンほどの大仕事ではないにしても、ときにわたしたちの日常でも、突然こういった霊の働きを与えられ、賜物に気づいて新しいことを起こそうと思う人とでくわします。それが教会において起きたとすれば、教会になにか具体的な役割を受け持って、奉仕したい!さらには献身して伝道者になりたい!という思いも、それは霊の働きだと思います。
わたしたちは、そういった外側に出てきた働きが主なる神様からのものか見定める必要がでてくる。簡単に判断することがないようにしたいところ。はじめはこの士師記第十四章から、ただただ自由奔放なサムソンの姿を描きます。この姿を通して感じた印象、皆さまそれぞれの人を見る目と比べながら心にとめていただきたい。そして、最後にサムソンの士師として大きな働きをして死を迎える姿を見て、どう感じるか。常識はずれの人ですら、主なる神様はお用いになるお方。そのときあらためて、考えてみたいとおもう。
②サムソンは、ペリシテ人との対決に用いられた士師。ペリシテ人について(13:1、「40年間、ペリシテ人の手に渡された」)エフド・モアブ人18年、デボラ・カナン人20年、ギデオン・ミディアン人7年間、エフタ・アンモン人18年間。圧倒的長さ。)ペリシテ人はそれほど強敵だった。
④今日のところは、サムソンがお嫁さんをとるところですが、なんとその相手はペリシテからの人。ここから、イスラエル人は長いペリシテの支配にあって、ある意味、慣れたというか、受け入れてしまっていた。彼ら、ペリシテ人とほぼ同じ生活圏にいたことがうかがえる。このペリシテ人とのなれ合いには、律法によって堅く禁じられていた雑婚の危険性があった。いまはもちろん、民族の違いを超えた国際結婚は祝福されるべきこと。この時代の律法は限定的に読む必要がある。このころのイスラエルは、信仰的に未熟で、民族のアイデンティティを保つためには、民族の純潔を守る必要があった。
しかしサムソンは、律法に従うべきとの両親の反対を聞かない。理由は「彼女が好きだから」。自分の感性にまったく正直。父母は、直情的で怪力でもあるサムソンのわがままになすすべもない。そういったやりとりのなかで、4節は見落とすことができない。「父母にはこれが主のご計画であり、主がペリシテ人に手がかりを求めておられることがわからなかった。」さきほどふれたように、当時、ペリシテ人が40年も長きにわたりイスラエルを支配していた。神様は、イスラエルを救うために御心を行おうとされていた。
ここで言葉を少し吟味しておきたい。
1)「主のご計画」=「計画」は本文にない意訳。正確には、「主によること」。でも、この意訳が、わたしは大事なところを補っていると思う。
2)「手がかりを求めておられる=(ペリシテ人に)機会をさがしていた。」תֹאֲנָ֥ה הֽוּא־ מְבַקֵּ֖שׁ:A primitive root; to search out (by any method, specifically in worship or prayer); by implication, to strive after -- ask, beg, beseech, desire, enquire, get, make inquisition, procure, (make) request, require, seek (for).
さきほども触れたが、主なる神様の力は霊の働きによる。そして、霊の働きは、本人に自覚があっても、なくても働く。用いる時、絶好のときには、必ず働き、用いられる人は巻き込まれるようにして用いられる。
そもそも、神様のご計画とはいえ、わたしたちにはどこまで詳らかにされているか。どこまで自覚を持つことができるだろうか。なにがつながって救いに導くかは、簡単に解きほぐすことはできない。その点、わたしたち信仰者によって喜ばしいことは、度合いの違いはあるけれど、神様のご計画が「ひょっとしてこういうことではないか」と、あらかじめ見えてくるところ。そうすれば、これから行うことへの選択に確信が持てる。逆のことを言えば、その選択をしないということにも働く。やはり「これはへんだろう」という感覚が養われる。これは、神様に養われていくうちに、徐々に自覚されていくのではないだろうか。それだけ神様の側に近く寄せられていることは、幸せなことである。サムソンと彼の両親は、このときまったくわかっていない。しかし出来事ははじまっている。
③獅子のくだり。このときのサムソンのふるまいについて、理性を働かせて合理的に受け取ろうとしても無駄。感覚で動く人を合理的に理解することは不可能。ただし「主の霊が激しくくだって」こそのことであることは、見逃すことができない。やはり出来事は、はじまっている。
ちなみに、この獅子の死骸に蜂蜜が宿るところは、日本に住むわたしたちにはピンとこない。ここは、自然科学、あるは地政学的に合理的な説明もできるところ。かなり乾燥するパレスチナの地では、動物の死骸が、急激に乾燥して腐敗せず、そこにミツバチが巣を作ることがあるとのこと。「食べる者から食べ物が出た。強いものから甘いものが出た。」獅子、ライオンはもっぱら食べるもので、強いもの。そこから、ミツバチの蜜が出た。なぞかけでもなんでもない現象を、サムソンはなぞかけにした。こういったセンスは、彼の自由な発想ができるユーモラスなところ。
④なぞかけのくだりにはいると「妻が泣きすがった」のはいつなのか、わからない。なにか時間の経過が変な気もする。七日間の猶予期間の一日目から泣きすがったのか、とうとう七日目に泣きすがったのか。ここは、16節は独立した夫婦の会話と受け取れる。もともと、妻は「私にも内緒にして!」というところに悲しみを感じていた。新婚なのに夫婦にすでに不信感が生じている。ただ、サムソンが「好きだ」といって結婚に踏み切ったから、夫婦の信頼関係が築けていなかったようにも読めるところです。そこに、謎が解けない同胞からの脅しが入ったとも受け取れる。
それにしても、サムソンもサムソンだが、30人の客も客である。むちゃくちゃなことをしている。他愛もないなぞかけ。酒の席かわからないが、そんな宴席で、なぞかけをして賭け事。そこからの大人げない脅し、夫婦の不仲、うそつき、そして殺人。まったく世俗的で罪深いことが凝縮されています。
しかし、わたしたちが驚くのは、ここにも主の霊が下っている。いくつか理由が挙げられる。まず「アシュケロン」これもペリシテの町。ペリシテの人々への「手がかり」はたしかに強くなっている。主の目的は、ペリシテからのイスラエルの救いである。この大きな目的を心にとめながら読む必要があります。この目的のために、なにをしているか?がポイント。
もう一つ、ここの殺人は、たびたびいうけれども、旧約の限界。あるいはきわめて限定的なこと。この出来事をひっぱりだして普遍化することは絶対にできない。
最後に。宴会でのくだらない、なぞかけ、賭け事、いさかい、おどし、夫婦の破たん、殺人、怒り。これらは世俗そのもの。しかしこれも主がご支配したもう世界の一部。むしろ、人の世界は、これがすべてかもしれない。わたしたちの役目は、世俗と思い込むところに線を引いて、嫌悪感をもって切り捨てることではない。むしろ、そこに働く主の御業を見極め、入り込んでいくこと。おぞましいところには、人の罪が極まっている。そこに主の霊は激しくくだるのではないか。
社会的な働きをのこした信仰者は、目をそむけたくなるようなおぞましい罪の巣窟に、むしろ聖なる霊とともに、誤りをただすために入り込んでいった。主が、人の姿をとったということは、そういうことではなかったか。貧しさに飛び込んでいった、信仰者の名前がつぎつぎと受かんでこないだろうか。これが、大きく働いて、自覚的にも無自覚てきにも人を御業に参加させる、神様の不思議。霊の働きは、人間の価値観では簡単には判断できない。見極めるためにも、こういった聖書の箇所から、かつてなにが起きたかを踏まえて、いつも霊的な洞察力を高めるように励まされるところだと思います。
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