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10月15日説教のポイント(郡上八幡伝道所)

「  御名前のとおりですね  」

 この詩編23編は、「愛される詩編」のうちの一つ。聖書のなかでも有名なところ。理由はたくさんあげられると思う。イメージの美しさ。それにも関わらず、人生の厳しさからも目を背けない。そして最後に、主の礼拝にとどまることのすばらしさをほめたたえ、世々の信仰者を励ましています。甘美なだけでなく、信仰の在り方を深く捉えた詩。何度、読んでも慰められ、励まされるこの詩編、今日はとくに3節にある、「主は御名にふさわしく」に注目しながら、味わってみたい。

 

 さきほど、この詩編が愛される理由として、美しいイメージをたたえながら、厳しい現実から目を背けない詩だといった。とくに4節の表現、「死の陰の谷を行くときもわたしは災いを恐れない、あなたがわたしと共にいてくださる」。ここには、人生のなかでたびたび起こる、死の陰をゆくような災いのなかにあって、主なる神様がともにいてくださるという真実を語っている。

 このような厳しい災いのなかで、「主が御名にふさわしく」ともにいてくださるお方であるということは、どういうことだろうか。

 わたしたちがいま、崇め奉る神様は、漠然としたお方ではない。「神」と、これはわたしたちが日本語で暮らす以上、「神」と訳されたお方を神と呼ぶ。しかし、このお方には、はっきりした御名前があった。それを、ヤハウェと、いちおう発音すると言われている。これは、ヘブライ語のアルファベット、ヨット、ヘー、バブ、ヘーの文字で示されていた。ところが、十戒にあるように、「主の名をみだりにとなえてはならない」との教えをかたくなに守るがゆえに、後々、本当に、この神聖四文字を、どのように発音していたか、わからなくなったのだ。いまでも、ユダヤ人はこの神聖四文字を「アドナイ」、一般名詞のご主人様という言葉に置き換える。いまだに口にするのは憚られるほどの、聖なるお方である。わたしたちは、イエス・キリストが御子として間にたってくださるので、「ヤハウェの神様」とお呼びしても差し支えないと思う。あまり一般的ではないが。

 ともかく、この、はっきりと御名前を持つお方がわたしたちの神様である。畏れ多いので、主と呼んだり、神様と呼びかけたりするが、御名前をもっている。この御名前を、神様が自己紹介したときがいつだったか、思い当たられるだろうか。そう、出エジプト記第三章のホレブの山でモーセに姿を顕したとき、「わたしはある、わたしはあるというものだ」、とご自身を紹介された。そのときの、ハーヤー、「在る」、という存在をあらわした言葉が、わたしたちの神様の御名前をあらわしている。だから、何物にも頼ることなく、ただ存在されるお方が、おの神様の御名前となっている。

 少し説明が長くなってしまった。詩編第23編に戻ります。この、なにものにも頼らず存在されるお方、「御名にふさわしいお方が、わたしを正しい道に導かれる」。この正しい道に導かれる、という言葉の意味は、もともとの意味をさらに尋ねると、神様ととても親しく、正しいあるべき関係に、引き込んでくださるという意味になる。「わたしはある」というお方が、どうぞこの、わたしという確かな存在と、とっても親しい関係になりなさい、と招いてくださるのだ。だから、この詩人は、死の陰の谷をゆくときも、災いを恐れないと言えるのです。たんなる空元気や人間の感情としての勇気とはまったく違う。どんなに災いのなかにあっても、自分の存在は、もっとも確かな存在のなかにもう招き入れられているのだから、消えてしまったり、なくなってしまったりすることはない。という確信と信頼にみちた言葉なのだ。

 この詩を歌ったダビデは、度重なる災いを経験した人だった。正しき人でありながら、サウル王に命を狙われたとき、彼の心境はどうだったろうか。よこしまな心なく、サウル王はイスラエルを導く、良い王だからと、一心に仕えた。ところが、サウル王の妬みの心から命を狙われることになった。「いったい、わたしはなんのために頑張ってきたんだ!」、自分の存在がまったく否定されるかのようなときに、しかし彼は竪琴をかき鳴らして、自分を憐れんだり、さげすんだりするのではなく、主を賛美したのだ。「いえ、わたしの存在が否定されるようなことが起きても、あなたはすべてを御存知です。主よ、確かにおられるあなたが正しい関係に、もう引き入れてくださいました。わたしは災いを恐れません」

 わたしたちの信仰の歩みにおいても、徹底的な試練、孤独にさいなまれたとき、すなわち、究極的には、存在を否定されるような出来事がおきたときこそ、すべてを知り給う主なる神様と一対一で向き合う、絶好の機会ではないだろうか。

 この詩編の前半に少し戻ると、「青草の原に休ませ、憩いの水のほとりに伴い、魂を生き返らせてくださる」とある。このような情景は、もちろん、本当に青草の原に憩うときにも、歌えるだろう。しかし、それだけではなく、災いのなかにあったとしても、その孤独のなかで、いつも共にいてくださるお方が主なる神様であると気づくことができたとき、そこはどのような場所であろうとも、青草の原になり、憩いの水のほとりになるのだ。病の床であろうとも、親しい人を亡くしたときの悲しみのさなかであろうとも、絶望としか言いようのないときに、「わたしはどんなときも、あなたのすべてを受け入れ、愛し、守り続ける」といってくださるお方の存在が、「魂を生き返らせてくださる。」

  今日は「御名にふさわしく」という一言を中心に、読み取っていこうとしていました。そして、ヤハウェという御名前をもつ、お方がその「ある」という御名のとおりに、わたしたちの存在も、確かなものとしてくださるお方であることを知りました。ところで、御子なるイエス様の御名前にふさわしく、わたしたちとどのような災いのときも、一緒にいてくださる、ということは、この詩編から見出せないでしょうか。見出せるのです。イエス様の「またの名」をなんと言いましたでしょうか。インマヌエルです。一か所、あけておきましょう。マタイによる福音書第12123節です。これは、ヨセフの夢のなかで主のみ使いが語った言葉でした。「マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名は、インマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。

 「神は我々と共におられる」、インマー、ヌー、エル。このインマーにあたる同じ言葉が、詩編第234節の「あなたがわたしと共にいてくださる」のみ言葉のなかに含まれています。共にいてくださる神、これがインマヌエルとも呼ばれる救い主イエス・キリストです。このお方も、「御名前のとおりですね」と呼びかけることができるでしょう。十字架のうえで、およそ人が受ける苦しみのもっとも苦しみのなかに罪を引き受け、絶望のなかに息を引き取られたのです。どのような苦しみのなかにあっても、神でありながら人であるイエス様は、わたしたちが苦しいときにこそ、共にいてくださるお方である。インマヌエルであられるお方、その御名前のとおりなのです。

  こうして、4節のところまでで、究極の災いを示しながら、わたしたちの存在を、守ってくださるお方が、それでもいっしょにいてくださるというたしかな、慰めの言葉が歌われます。5節以降の後半は、究極の状態から、再び、わたしたちを恵みがあふれる、現実の日々へと少しずつ引き戻ていきます。

「わたしを苦しめる者」、これが誰なのか、いろいろ推測することはできるでしょう。一つの読み方として、これは、わたしたちをもっとも苦しめる存在、「死の孤独」だと考えていいと思います。4節はでは、実際にそのように読まれていました。ダビデもかつて苦しんだ、存在を否定してくるもの。それが目前に迫ってこようとも、主は、日ごとの糧を、必要な分だけ、必ず備えてくださいます。

 わたしたちの魂は、究極のところの安全が保障されたていることを確かめたとき、安どとともに、視野が開けるものではないでしょうか。さきゆきを考えて、いろいろと心配はつきません。命限り、心配は、次から次へと、わきおこってくる。そんななかで、しかし、究極の孤独に陥ったとしても、そこに共にいてくださる神がいると、「行く末は安心」であることを確かめ、落ち着いたとき、ふと、目の前のささやかながらも、絶えることのない恵みが備えられていることに、気づきます。とくに、日ごとのかて。

わたしは、食卓が三度、整えられることは、いつも奇跡だと思っています。ぐうっと悩むことがあります。とくに、このみ言葉を語るという仕事を任された以上、教会に一生お仕えしていくということを、具体的にどのように、みなさまと勧めていくべきか、現実の日本など考えたとき、悩みはつきません。しかし、おなかはすくのです。そうして食卓が備えられたとき、「ああ、神様、まだ生きていていいですね。健康を支えてくださるんですね」と、安心する。

どうも最近、食卓を整える、また一緒に食事をするという神聖な行為が、ないがしろにされているような日々ではないかと感じる、世間の考えを耳にします。命を継ぐことは、神聖なことです。この食卓に与ることが、命ある限り満たされている、恵みと慈しみの、最たる証だと思います。わたしたちを苦しめる死が少しずつ迫っているにしても、今日は、この食卓が与えられた。この喜びです。

 そしてもちろんのこと、この日ごとの食卓だけでなく、わたしたちには、主の食卓に与る恵みが赦されています。孤独のなかでイエス・キリストという、同じ主なる神様にであったものの交わりの中心には、主がおられます。この主の家に、いつも帰ってきて、生涯とどまる。これから新しい一週の旅路に、またみなさま遣わされていきますが、帰って来るのは、この主の家です。キリストが中心にたってくださるこの交わりこそ、生涯、わたしたちを受け入れ、招き、神とともに永遠にいるところ、青草の原、憩いの水のほとりなのですから。主は、御名前のとおりに、わたしたちを永遠のものとしてくださり、いつも共にいてくださるお方です。父、子、聖霊の御名によって。アーメン。

 災いのさなかにあってもダビデがほめたたえたヤハウェの神様、あなたがわたしたちとの平和のために遣わしてくださった、羊飼い、イエス・キリストの御名前のゆえに、親しく、父よと呼びかけることの幸いに感謝します。わたしたちの命の存在を脅かす死のまえに、あなたはわたしたちの在り方を決して否むことなく、一切、受け入れてくださり、ふさわしくないものは、イエス・キリストの十字架によって赦してくださったことを覚え感謝いたします。この災いはいったいなんのためであったかと、悲しみの孤独に落とされるとき、死に葬られるほどの孤独の道を歩みながらも復活された主が、ともにいてくださるとはっきり語ってくださいました。それゆえ、わたしたちは、同じ主を仰ぐこの交わりにあって、慰めをいただき、ふたたび立ち上がります。今日もあふれんばかりの慈しみに、魂が生き返りました。また主の家に帰るまでの日々を、羊飼いとして、導いてくださいますように。ともにいてくださるお方であり、民を救うお方である尊いイエス・キリストの御名前によって、祈ります。アーメン。

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