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10月15日説教のポイント

死すらも滅ぼすお方

聖書 イザヤ書第25章4節‐10節

                         伝道師 三輪恵愛


 

 

 「旧約聖書は、新約聖書に比べて難しいカンジがするなあ」、そういった類の感想をなんども聞いてきました。わたしもそう感じること、しばしばあります。単純に新約聖書と比べたとき、旧約聖書は「何を書いているのかわからない」、「わかったとしても、私となんの関係があるのかな」という読後感にいってしまう・・・。そんなときは、「聖書はわたしについて証をしている(ヨハネ5:39)」と言われたイエス様のみ言葉をてがかりに、イエス様を旧約聖書のなかに尋ねていく旅にでかけてはいかがでしょうか。

②旧約に書かれ、新約で明らかにされた真実が、将来の希望として輝く

  とはいえ、旧約聖書が語っている純粋な事柄を無視することはできません。これには多少、周辺の知識(とくに歴史的な流れ)が求められます。どうもイザヤのこの預言、「暴虐な者から助けてくださる神様と、礼拝が再びささげられる喜び」について語られているようです。この情景を、新約の使徒たちは、さらにイエス・キリストの十字架によって死が滅ぼされた預言としてとらえました。とくにパウロは、それによって「覆われていた布」が取り去られ、「神様のご真実がすべての人にあきらかにされた」と説きました。

 ③将来起こることを「信じたとしたら」どのように生き方は変わるのか?

  「死が永久に滅ぼされる」、この真実がいくらイエス・キリストの復活によって実現したとしても、「わたしには起きるのか」確かに、信じるのは難しいです。ここは発想を転換して、「真実だとしたら」わたしたちの世界の考え方、人とのかかわり方は、どのように変わっていくでしょうか。主の永遠の命に与ることが訳された人は、将来、虚しさのなかに終わるのではないのです。そのように考えたとすれば、生きている意義が格段に深まっていきます。この今、礼拝に招かれているという一瞬の真実が永遠のはじまりになっているのですから。

  なによりもこのキリストを中心にした交わりは、わたしたち群れが、一緒に信じていくものです。お隣のその方も、かつてそこにお座りだった方も、将来、永遠の命に生かされることを信じています。わたしたちは、やがて死すらも滅ぼすお方の祝宴に招かれています。この真実を将来の希望として、今を生きていく。人生の受け取り方はかわってくるのではないでしょうか。

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