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10月22日説教のポイント(郡上八幡伝道所)

「  神の肖像がはっきりと  」

マタイによる福音書第21章では、イエス様はロバに乗って、エルサレムに入られました。いよいよ、十字架への道を歩まれていきます。十字架を前にして、福音書は、人々の罪が次々と、露わになっていく様子を記します。

福音書の大まかな流れによれば、まずイエス・キリストは人々に受け入れられました。とくにガリラヤ湖のほとりでの宣教は、豊かな広がりをみせています。徴税人、病人、貧しい者たちは「ダビデの子よ、憐れみたまえ」と救いを求め、群衆たちは「あのお方は預言者にちがいない」と驚きつつ、噂したのでした。

ところが、エルサレムに入城されたあとのイエス様に近づくものは、十字架にかけようとするものたちでした。彼らは自らを「神に近いもの」「正しいもの」「頭がいい」と認めている、律法学者、祭司長、ファリサイ派の人々です。名誉、知恵、富。神様に与えられたはずのあらゆるものをほしいままにし、それを失うことを心から恐れるものたち。この世のことに執着しているものたちです。ガリラヤでイエス様の到来を心から喜んだ人たちと、エルサレムのなかでイエス様を取り除いてしまおうとした人たちをおおまかに比べただけでも、だれが神の国に招かれているかがよくわかるところです。

十字架を直前にして、イエス・キリストに論争をしかけていく彼ら。しかし、ことごとくそれに応え、むしろ、イエス様は、彼らの罪の深さを露わにしていかれます。

まずこの論争のなかで露わにされている、罪をみていきます。

もっともはじめに見出されるのは、彼らはイエス様に、答えが「イエスか、ノーか」、二つに一つしか選べない質問をなげかけているところです。どちらを応えても、非を責め立てることができるように仕立てています。「税金を皇帝に納めよ」と答えれば、ファリサイ派が律法を逆手にとって責め立て、「納めなくてよい」と言えば、ローマ帝国に追従することでうま味を得ていたヘロデ派が、「ローマ法に逆らうのか、けしからん!」と責め立てる。このように「罠」をしかけていました。

つぎに悪事のためならば、簡単に手を結ぶ姿です。律法かローマ法か、という対立は、当時の慢性的な社会問題でした。ユダヤ人は神に服従すべきか、カエサルに服従すべきかジレンマに悩まされていたのです。だから、ファリサイ派とヘロデ派は、普段は敵同士でした。ところが、共通の敵である神の子と噂され、人気を集めるナザレのイエスを殺害するにあたっては、利害が一致して手を結んでいます。この世の、利害によって、簡単に主義主張を曲げ、結託する姿は、この世の事柄に執着してしまう、人間たちの象徴的な姿だと言えます。 

3点目です。イエス様に直接ことをあたらせたのは、ファリサイ派ではなく、その弟子たちとヘロデ派だった。悪事を働きかけるとうの本人たちは、離れたところから成り行きをみるだけである。自分は直接悪事に加担しない。

そして、最後の4点目。16節を御覧ください。彼らは言うのです。「先生、わたしたちは、 あなたが真実な方で、真理に基づいて神の道を教え、だれをもはばからない方であることを知っています。人々を分け隔てなさらないからです。」、見事なまでに、イエス・キリストのことを語っている。この言葉は、語った本人はまったく信じていないけれども、真実です。人間は信じていないことでも、口先だけでは、なんとでも言えるのです。

みごとなまでに知恵が深い彼らです。これら神様から与えられている大切な知恵を、彼らは良いものに用いず、わがものに使っています。このように十字架を前にして、深い罪が場かれているところです。

このようにたくみに罠がしかけられていましたが、見事に、イエス様はそれ以上の知恵を示され、しかも彼らに過ちを気づかせるのでした。そこのところをあらためて読んでおきます。

イエスは彼らの悪意に気づいて言われた。「偽善者たち、なぜ、わたしを試そうとするのか。税金に納めるお金を見せなさい。」彼らがデナリオン銀貨を持って来ると、イエスは、「これは、だれの肖像と銘か」と言われた。彼らは、「皇帝のものです」と言った。すると、イエスは言われた。「では、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」

ところで、わたしたちはなぜ、彼らが、そのあと驚いて立ち去ったのか、しっかり見ておく必要があるように思います。なぜならば、このイエス様の答えは、表面上は、「皇帝への納税を行為としては認めた」ことになるからです。なぜファリサイ派もヘロデ派も、なにも言えなくなってしまったのでしょうか。

注目すべきは、税を納めることに関わる、二つの言葉である。彼らの問いかけにある17節の「税を納める」という言葉と、イエス様の返答、21節の「では、皇帝に返せ」という言葉がありました。どちらも、行為としては、税金を皇帝に渡しています。しかし「納める」と「返す」という言葉に含まれている意味が異なります。 

実際、ギリシャ語では、異なる言葉が用いられています。「税を納める」という言葉には、その行為のなかに、権威者への服従の意味合いが含められています。しかし、イエス様は、「税を返す」という言い方をされます。もともと、あったところに戻す、という意味合いの言葉を用いることで、同じ行為でありながら、新しい意味にしているのです。

これは、当時にあって、社会的にも明快な答えだった。さきほどふれたように、社会的であった問題、神への服従か、ローマ皇帝への服従かという二極の対立を、混同せずに、この世のことと、神の国のことに明快にわけたのだ。

そもそも、税金を納めるという行為が含まれる貨幣経済は、地上の国の事です。わたしたちも、経済行為を行うとき、紙幣、貨幣を用いる。それらはだれが作ったものか。国家が作ったものであり、経済を行うために用いられるもの。とくに税は、国の運用のために用いられるもので、与えられたところへ返すにすぎない。「皇帝が作ったものだから、皇帝に返せばよい」、そのとおりなのである。ここに、服従のニュアンスを消して、返すべきところに返しなさい、との真理が際立っています。

神様への信仰あってこその、素晴らしい知恵です。ところが、イエス様が語るところは、これでは、終わりません。「神のものは、神に返しなさい」、この一言が付け加えられることで、さらに彼らはなにも言い返すことができず、驚いて、立ち去りました。

神より与えられた大切な知恵を、自らの正当性の主張のために、わたくしする。この者たちへの戒めの言葉は、わたしたちへの問いかけにもなっています。教会の歴史のなかでも様々な問題のなかで、神をほめたたえながら、自らの知恵をほしいままに人々がいたことでしょう。そうしたときに、「神のものは、神に返しなさい」との一言は、神のもとに立ち返らせる力ある問いかけになっただろう。

イエス様は、このように、神に返すべきものをわたくししているものたちを、偽善者とお呼びになる。厳しい言葉です。彼らは、16節のように「真理の道」のなんたるかを、ある程度以上に、把握していました。にもかかわらず、自らのために、知恵を用いている。この偽善。

しかし、同時に思わされるのです。ありとあらゆる信仰者は、一度は、この偽善者の道を通らなければならないのではないでしょうか。信仰において、与えられた知恵を用いるのではなく、自分の知恵として用いてしまう。わたしたちは、イエス・キリストの十字架の憐れみがなければ、神の聖なる善の前には、偽善でしかないのです。み言葉は、神の善を高らかに語る。そして、同時に人の偽善を知らせる。神の御前に善を求めるわたしたちは、まず偽善であることを知らされ、そこから、イエス・キリストの真理の道を、少しずつ歩みながら、偽善から善へと、昇っていくのです。わたしたちは、いつも神の善に教えられるのだから。

こうして、み言葉にあり方を教えられながら、わたしたちは、神様のものを神様のもとへ返していきます。返すべき金貨には、「皇帝の肖像を銘」がありました。同じように、神様に返すべきものには、すでに「神の肖像、神の銘」が押されています。神様が愛したもう神の似姿であるわたしたち自身には、「神の肖像、神の銘」が刻まれています。思い出していただきたい、この世が創造された日、神はなんと宣言してわたしたちをおつくりになったでしょうか。「わたしの姿に似せて、人をつくろう」と言われました。わたしたちの姿には、はっきりと、「神の肖像、神の銘」がおされています。

「神の肖像、神の銘」が刻まれ、神の者であるわたしたちです。つまりわたしたちの命すら、わたしたちは最後には、感謝の心をもってお返しいたします。「すべてよきものでみたしてくださりありがとうございましたと、感謝の賛美とともに、この命をお返しする。「神のものは神に返しなさい」のみ言葉に、わたしたちの地上の歩みは、こうして神にすべてをお返しする歩みだと気づかされます。このことをわきまえたとき、わたしたちは真理の道を歩むことになるでしょう。

ヘロデ派とファリサイ派の弟子たちは、驚いて立ち去りました。ここを深く読み取ろうとする人は、この「神のものは神に返しなさい」との一言に、イエス様が御自分のこれからの十字架への歩みを聞き取ったと考える。つまり「さあ、わたしを神に返すために、十字架につけたいようにしなさい」と。

わたしたちは「神のものは神に返すように」と言われるみ言葉を聞き、立ち去りません。神のもとに招かれたのだから、たとえ偽善を知らされても、神の御前にたつことを許されています。

当時、良い貨幣を鋳造には、すさまじく行程がかかったといいます。金銀、もといとなる金属を精錬し、精錬し、不純物を取り除いて、美しい光をはなつように磨きをかけていきます。だから、わたしたちも多くのことを気づかされながら、神様にお返しするにたるものとして、精錬されていくのでしょう。「わたしの目に、あなたは値高く、尊い」と、神のものとしてかえっていくにふさわしく、美しい肖像と銘が輝くようになります。何よりも、十字架においてイエス様ご自身が、霊を御手に委ね、神のもとに返された。わたしたちも、この真理の道を歩む。

イエス様が用いられた、偽善者という言葉は、もともとギリシャの喜劇役者が、いろんな被り物をして、役を演じたところからきた言葉だと言います。ファリサイ派の弟子たちも、ヘロデ派の人たちも、最後まで、神から与えられた知恵を、自分のために使う偽善の仮面を脱ぎ去ることができませんでした。わたしたちは今日、神の御前に喜んで、この偽善の仮面をはずそうではありませんか。「神のものは、神に返す」。この当たり前のことをしながら、祝福された道を歩んでいきましょう。その偽善の仮面を脱いだあとには、「神の肖像、神の銘」が、はっきりと押された、ほんとうの輝く顔があるのですから。父、子、聖霊の御名によって、アーメン。

 すべて良い物はあなたが与えられるものです。全能の主なる神様、それにもかかわらず、まるで自分が得たもののように、自分のことに用いることの多いわたしたちです。今日もその偽善が、どれほど避けがたく、深いものか、思い知らされました。あなたの輝くばかりの誤りない善のまえに、誇るべき善をもたないわたしたちですが、すでに神のものとされているからこそ、じつはわたしたちの善ではなく、あなたの善のなかにすでに生かされていることに平安を覚えることです。この命すらも、天よりのものです。お返しするその日まで、すでに神のものとされていることに喜びつつ、お返しする喜びの歩みに生かしてください。主の御名によって祈ります。

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