« 10月22日説教のポイント(郡上八幡伝道所) | トップページ | 10月29日説教のポイント »

10月25日祈祷会 士師記第15章

「 相応しいものへと整える霊 」

士師サムソンの二回目として、士師記第15章を読み深めていきたいと思います。第14章からの続きとしてはじまっています。二週前のことですが、どうぞめいめい聖書をめくりながら、第14章の話を少し思い出していただきながら、お聞きいただければと思います。サムソンの嫁とりと婚礼のうたげの話でした。サムソンは、ペリシテ人に脅された新妻に、なぞなぞの答えを打ち明けてしまいます。これによって賭けに負けるのですが、新妻にはかんかんになって怒ってしまいました。もうこの結婚はご破算になったと思い込んでしまった御舅さんが、新妻をほかのおとこに嫁がせたところから、第15章ははじまります。

熱しやすく冷めやすい性格なのか、ケロッとして妻のもとに戻ってくるサムソンでした。ところが、舅は「もう戻ってこないと思ったよ、あの子はほかのところにやったよ。妹はどうだい」といいます。この御舅さんの思い込みがサムソンの怒りに火をつけました。サムソンはまたしても独創的な方法で、ペリシテ人に怒りのはけ口をもとめます。ジャッカルのしっぽを結んで松明を括り付けるなど、よく考えたものですが、これはもう子供じみた悪戯に近いことです。しかし、被害は甚大です。こんどは、腹いせにされたペリシテ人がおさまりません。あわれ御舅さんとお嫁さんは、あえなくこの腹いせで命を落とすことになりました。

わたしたちは、これを読んでなにか、学び得ることがあるでしょうか。たぶん、彼らの姿からは模範的なものは、なにもないと思います。まあ、ご覧いただければ、記しているのは思い込みや、仕返しです。これも、第14章から続いていることですが、これらはわたしたちがやってはいけない姿です。

まず舅の姿から反省させられるのは、思い込みから、相手のことを勝手に判断してしまう軽率です。サムソンはかんかんになって怒って帰っていきました。この姿から、「もうサムソンはかえってこないだろう」と、勝手に判断して別のところに娘を嫁がせました。

わたしたちの日常生活では、こういったことはないでしょうか。相手の顔色だけ窺って、しっかり相手に確かめることなく、勝手に判断してことを進めたら、ますます事態をややこしくしてしまったと。とくにいろんな考えをもつ人が集う教会で一緒に伝道していこうというときに、わたしはよくあることではないかなあと思います。「あの人は、きっとこう思うにちがいない」と思ったとしても、やはり確かめることは大切だと思います。確かめるときは言葉を選ぶものですが、確かめてもらえると、「あ、この人は、わたしの考えを大切にしてくれるのだな」と思えて、嬉しいのではないでしょうか。

サムソンと御舅さん、娘の関係は、この思い込みで一層ややこしくなり、ペリシテ人もまきこんで、ついに人命が奪われる悲惨なところまでいきました。これは、思い込みがどんどん罪を極めていき、報復が報復を呼ぶところです。イエス様は「汝の敵を愛しなさい」と語り、これをもとに、パウロは「報復は神様がすることです」と伝えます。サムソンは7節で「報復せずにはいられない」と言いますが、どのようなことにしても、新約のみ言葉によって、報復はもうわたしたちの手を離れました。彼らのやることは、「反面教師」として受け取るようにいたしましょう。

むしろ、わたしたちが注目したいのは、ペリシテ人に腹いせしてしまうほどの、「報復せずにはいられない」サムソンが、それでも主の御手のなかで、少しずつ士師としての姿を整えられているところです。前回みた、14章の4節には、「主はペリシテに対して手がかりを捜しておられた」という印象深い表現がありました。この、記されている人々はいろんなことをしでかして、事態をややこしくしているように見受けられます。しかし、そのはるか高みにあって、ペリシテに40年間も虐げられていたイスラエルを救うという、ペリシテからの解放に特化した、神様の御心はまっすぐにことを進めておられるのです。

こうして事態はどんどん拡大し、いよいよ、ペリシテはイスラエルが反旗を翻したとうけとって、軍隊を差し向ける事態になりました。ここで、サムソンと同族のユダ族は、まったく戦意を喪失しむしろサムソンをなじるほどです。40年間の間にずいぶんとペリシテに飼いならされ、卑屈にも受け取れるほどです。サムソンを差し出そうとして、ペリシテの赦しをこうところに、いったい先祖たちを救い出したのはどなたであったか、すっかり忘れてしまっています。

ここにも、どうして、サムソンほどの自由奔放の乱暴者、感情にまかせておもうところを実行に移す男が、士師として、このペリシテに長く抑圧された時代に選ばれ、召しだされたか、ここにも理由がわかるような気がします。もうイスラエルは、民族としてペリシテの抑圧に屈してしまっているのです。これは、かつてのエジプトの奴隷のころのように、もう支配されていることに慣れてしまっている。こうして、救いを求める熱い思いや鋭い感覚が鈍ったところに、サムソンが選ばれた。彼のびっくりするようなふるまいが、イスラエル人の目を覚ましていくようにも思えます。

ところで、このサムソンが同族のものたちに縛られるがままにペリシテに差し出される姿は、観念しているようにも思えます。聖書を読む限りでは、彼がそのあとロバの顎骨で千人を撃ち殺すことができるという確信があったとは、読み取れません。ここは、彼が原因で同族に類がおよんだところ、自分を差し出すことでペリシテの気がすむならば、と観念したように読めると思います。

この、同族の苦しみをみてペリシテの自分の身が差し出されるという、身をゆだねたところに、12節、またしても「主の霊が激しく下った」のでした。ここをつなげて読むと、主の霊が激しく下ったさきは、サムソンが「もう委ねます」と、いったところということになります。これまで、自分の思うがままに、なんでもやってきた彼でした。そんなかれを、主は、すでに目をかけて、手がかりをさがすようにして、士師として立てる日を探っていたのです。最後にきて、この「委ねる」というところに、主の霊が激しくくだって、いよいよペリシテを打ち破る大勝利につながったのではないでしょうか。

サムソンに下ったものと同じ主の霊は、激しくくだることもあれば、優しく慰めの霊としてくだることもあり、毎日、わたしたちと共にいてくださるお方です。新約聖書には、この霊は、とくにわたしたちの「助けぬし」、先日の木曜会ではパラクレートスという言葉も登場しましたが、わたしたちの内なるところにきてくださるお方です。委ねて、わたしたち自身を小さくして、空っぽにしたところに、主の霊が働く余地が生じるということは、聖書が語る、聖霊とわたしたちの関係だと思います。多くの信仰者も、委ねていのったところに主の働きを見たと証しします。

かくして、顎骨をとってサムソンはペリシテを打ち破り、イスラエルに勝利と解放をもたらしたのでした。

第二回目のまとめとしてしたいのは、この一連の出来事をとうして、神様は、手がかりを捜すようにして、サムソンをペリシテからの解放のために、訓練し、育てていたということです。

怪力をもっていて乱暴、感情にまかせて行動し、子供じみていて女性の色香に弱い。なぞかけもすれば、かけごともする、そんなサムソンです。しかし、主のまなざしは、彼をとらえて離れないのです。生まれる前から、「士師として用いる」と主は心に決めておられました。

士師としての最後の召しだしの決め手になったのは、彼が、職務の弁えを知り、祈る人となったところです。彼は、ペリシテ成敗にもちいた得物のロバの顎骨、いわばサムソンの暴力の象徴を、軍のあとに投げ捨てるのです。いまはとくに、このサムソンがロバの顎骨を投げ捨てた姿は見過ごせません。現代風にいえば、民族独立のためにやむなく手にした武器を、解放が与えられたあかつきには、すぐさま放棄しているのです。いつまでも武器をすてられず暴力のとりこになって、暴力で人を治めようとする多くの今の為政者に、ぜひサムソンのひそみにならってほしいと思う次第です。

彼は、いくさの指導をする人から、すぐに転じて、祈る人になっています。素朴な祈りではないでしょうか。自らの苦難をみとめ、渇きを覚えて水をくださいと主に祈り願う姿。彼はもはや怪力で岩を自ら削って、水を掘り当てる人ではなくなりました。自分でしないで、主に祈り願う人になったのです。裁きを行う士師にふさわしい人になりました。祈って、いやしを与えられ、元気を取り戻す。信仰者の祈りの生活の基本が、ここにしるされていると思います。

こうして士師にふさわしいものとされたサムソンでした。20節は短い言葉ですが、大きな意味をもちます。乱暴、狼藉をはたらく一人の男が、イスラエルをしょって立つ士師となりました。20年、イスラエルをペリシテから守ります。そして、主の御名によって、裁きを行います。

わたしは、サムソンが最終的に士師になったから、それまでの乱暴狼藉が肯定されるとは思いません。ただし、士師になるために必要な道であったとは言えると思います。信仰的に考えれば、罪は罪としてあるけれども、赦されて士師として召されたのだと思います。先日、八幡伝道所の礼拝で、交読詩編で25編が選ばれました。7節に「わたしの若いときの罪と背きは思い起こさず、慈しみ深く、み恵みのために御心に留めてください」とありました。どのような信仰深い方も、若いときの罪、背きはあると思うのです。しかし、それも信仰に目覚めるため、十字架の御前にたつために神様が手がかりをさがしつつ導いてくださったのだと思います。こうして、「多くの罪を赦された人が、大きな愛を示す」とルカによる福音書第747節のイエス様のみ言葉が示す神の赦しの出来事が、神に仕える人の信仰をはぐむのだと思います。

こうして20年士師として、イスラエルを導くことになりました。聖書は20年のことは事細かに記すことなく、サムソンの最後に筆を進めています。次週は、サムソンの最後の回です。人生をかけての士師の仕事がどのような結末を迎えるのか、見ていきたいと思います。今日は、ここまでにいたします。

 

 

 

 

« 10月22日説教のポイント(郡上八幡伝道所) | トップページ | 10月29日説教のポイント »

コメント

この記事へのコメントは終了しました。

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 10月25日祈祷会 士師記第15章:

« 10月22日説教のポイント(郡上八幡伝道所) | トップページ | 10月29日説教のポイント »

フォト

カテゴリー

写真館

  • 201312hp_2
    多田牧師「今月の言葉」に掲載したアルバムです。(アルバム画面左上のブログ・アドレスをクリックしてブログに戻れます。)
無料ブログはココログ